内田樹という迷惑・「審議差し戻し」

ある人から聞いたところによれば、「神」とは、人間に対して「審議差し戻し」を宣告する存在であるのだそうです。
人間社会では、よいわるいとか、正しいとか間違っているというようなことをひとまず決めて動いている。だから、世界はこんなものだとか人間とはこんなものだというような言説が後を絶たない。人間は、そういうことを考えたがり、ひとまず決定して安心しようとする。
内田氏が「人間とは労働をする生き物である。労働を通じて始めて人間になる」というのは、ようするに彼はそういうことにしたいのですね。そして多くの人が、そういうことにしたいと願っている。
しかしわれわれは、そんなことをあなたに決め付けられたくはないという。何につけても、「ほんとにそうだろうか」とか「そんなことあるものか」と疑うことは、ひとつの「聖なるもの=神」を意識する態度である。
なぜなら神は、何も決定しない。人間が決定したことに「審議差し戻し」を宣告し続けているだけである。
人間が「決定」していることなど、そう思いたいからひとまずそういうことにしておこう、というたんなる欲望の結果に過ぎない。
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錬金術」という言葉がある。僕はそれを、中世のヨーロッパで起こったたんなるムーブメントだとは思っていない。
人間の「業」のようなものだ、と思っている。
人は、自分の考えたいように考えてしまう傾向を持っている。
犯人ではないものを、犯人だと思いたくて、犯人にしてしまう。それが「魔女裁判」であり、「錬金術」という態度でもある。
ネアンデルタールは滅びた」と思いたくて、滅びたことにしてしまう。「原始人は未知の土地に対する憧れを抱いてはるかな旅を続けていた」と思いたくて、そういうシナリオで人類拡散の物語を捏造してしまう。
欧米人は、ことにそうした錬金術的な「業」が深いし、近代合理主義が蔓延した現代は、世界中がそういう傾向を持ちつつある。
キリスト教会は、「地球は丸い」といったガリレオコペルニクスを殺してしまおうとした。一神教だから、真理はひとつでなければならない。現在でも、女の堕胎を認めるかどうかで、大騒ぎしている。多神教の日本人からしたら、どうしてそうまで大騒ぎするのか、さっぱりわからない。「地球は丸い」といわれれば、「ああそうか、なるほど」と思うだけだし、女が自分の命と人生をかけてするのだから他人がいちいち指図できることではない、という思いがどこかにある。
「それは<金>ではない」と神は宣告する。
地球は丸くないとか堕胎はいけないとか、そんなことは人間が決めたことであって、神が決めたのではない。人間が神の立場に立って決めたのだ。
欧米人は、つねに自分たちが思いたいように世界を規定しながら、つねに神から「審議差し戻し」を宣告される歴史を繰り返してきた。
「歴史」という神は、つねに「審議差し戻し」を宣告する。
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共和党は、「堕胎はいけない」と主張し、民主党は、「認めるべきだ」という。どちらも、自分が神になって事を決定しようとしている。彼らは今、神から「審議差し戻し」を突きつけられている。
そんなことを、あなたたちが決めていいのか。あなたたちは、神の立場に立ってしまっているのだぞ。よくそんなことが平気でできるものだ。
女が自分の体を張ってやっていることに、誰が何を言えるというのか。それをする当人の背後で神が見守っているということを、あなたたちはなぜ認めてやろうとしないのか。
彼らは、世界を決定しようとする。一神教を信奉する彼らは、世界は決定されなければならないという強迫観念が強い。そういう強迫観念で、「ディベート」というゲームに夢中になっている。それは、神の立場に立とうとする態度である。
アメリカ人にアルコール中毒が多いのは、神の立場に立たないと生きてゆけないという強迫観念のせいだろう。酒を飲んで酔っ払えば、ひとまず神になれる。酒を飲むことは、「錬金術」である。
いいとかわるいとか正しいとか間違っていると決めようとするのは、ようするに錬金術師の態度だ。
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神は、何も決定しない。
もし決定する存在であるのなら、人間という嘘つきでスケベで凶悪な生き物など、とっくに滅びている。
日本の漁師がイルカを殺すことはいけないなんて、どうしてそんなことを声高に主張できるのか、まったくわからない。どうしてそんな恥知らずな態度が取れるのか。彼らはきっと、自分が嘘つきでスケベな生き物であるという自覚がないのだろう。そりゃあそうだ、すでに「神の立場」に立っているのだもの。
あなた方は、神ではない。われわれにできることは「神の立場に立つ」ことではなく「神の声を聞く」ことだ。そして神は、けっして決定しない。
いるかを殺しちゃいけないなんて、神になったつもりの人間が決めていることであって、神が決めていることではない。神は、そんなことを決めていないのだぞ。
日本には、いるかを捕獲する漁師がいる。それが、「歴史という神」の姿だ。そのことはもう、肯定するしかないではないか。神は彼らに、そんなことしちゃいけない、とは言っていない。彼らの背後にだって、神はいるのだぞ。神がいけないというのなら、彼らだってそんなことはしない。いけないと言っているのは、あなたたち嘘つきでスケベな人間ばかりじゃないか。
欧米人の、自分の思いたいように思ってしまう「業」の深さには、あきれるばかりだ。そうやって、すぐ神の立場に立った物言いをしてくる。
神は何も決めないからこそ、人間が決めてしまう。だから神は、つねに「審議差し戻し」を宣告し続けねばならない。
欧米人はいつも勝手に神の立場に立って決定し、いつも神から「審議差し戻し」を宣告されている。良くも悪くも、そこに彼らの思考や行動のダイナミズムがある。
たとえば、ナチスユダヤ人大虐殺は、神の立場に立ってやったことだし、それが挫折したのは、「審議差し戻し」の宣告であろう。
そんな彼らが偉いというのなら、われわれもやがて、そういう人種になってしまうのだろうか。そこが、問題だ。
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キリストは、つねに民衆に対して、つねに「審議差し戻し」を宣告し続けた。
だから、最終的に十字架にかけられてしまった。
「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」とか「貧しいものは幸いである」とか、それらは、「審議差し戻し」を宣告する言葉にほかならない。
欧米人は、そういう「審議差し戻し」をする存在を頭上に抱いていないと、誰もが神になってしまう。というか、神になっているから、そういう存在を必要とする。
彼らは、「殺したい」と思えば「殺してしまってもいい」というところまで突き進んでしまう。それが、ナチのユダヤ人大虐殺であり、それが、欧米人の思考や行動のダイナミズムである。そしてそれこそが、「錬金術」なのだ。
だからキリストは、「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出せ」と言って「審議差し戻し」を宣告した。
こうも言った。
カエサルのものはカエサルに、神のものは神に」
つまり、お前らが神の立場に立つんじゃない、神の声を聞け、と。
神の立場は、神のものであって、人間のものではない。
一神教は、人間を神の立場に立たせてしまう。あるいは、神の立場に立ってしまう人たちが、一神教を生み出した。
「神は神の姿に似せて人間をつくった」……いやな言い方だ。人間の姿に似せて神を描こうなんて、ずいぶん思い上がった態度ではないか。
一神教とは、人間に似せて神の姿を思い描こうとする「錬金術」である。
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ある人は、こういう。「悟りに至るのが人間の精神の軌跡なのではない。悟りからはじまるのだ」と。
つまり、「審議差し戻し」のところからはじまる、ということだ。悟りとは、「審議差し戻し」の立場に立つこと。だから悟りは、「はじまり=懐疑」であって、「終わり=結論」ではない。
人間には、二つの立場がある。ひとつは、内田氏のように自分をしっかり持って(自分にこだわって)神の立場に立つこと。そして、自分を捨てて神(聖なるもの)の声を聞くこと。
「神の声を聞く」とは、「審議差し戻し」に気づくことだ。疑うことが、神の声を聞くことだ。
人間が下す結論(解答)など、自分が考えたいように考えた結果に過ぎない。それを「神の審判」だといいたがるが、そんなもの、「あなた」の審判に過ぎない。「あなた」が神の立場に立って下した審判に過ぎない。
神は、審判など下さない。審判を下さないのが「神の審判」なのだ。
人間は、心の平安を欲しがる。だから、心の平安を得られれば問題が解決するかといえば、そうはいかない。心の平安を得た瞬間、「審議差し戻し」を宣告される。心の平安などただの退屈の別名であったことに気づかされるだけだ。
心の平安を得たいと願うのが人間であるのなら、心の平安を得るのは、その「願い」を喪失することにほかならない。したがって、心の平安を願うのが人間であるのなら、願わずにいられないほどの混乱それ自体を生きるのが人間である、ということになる。
神が見えない俗物ほど、神の立場に立ちたがる。
神のそばにいるものは、神の声を聞く。
そして神は、何も語らない。
何も語らないことが「神の審判」であり、何も語らないことに気づくことが、神の声を聞くことだ。
問題は、入り組んでいる。そして単純だ。
すべての決定は、取り消されねばならない。それは、変更されるのではなく、決定することそれ自体が無効なのだ。