旅をする猿だった・「漂泊論B」62



人間は、直立二足歩行をはじめたときからすでに旅をする猿だった。
目的地があったのではない。
人間が二本の足で立っていることはひとつの「けがれ」であり、身体の居心地の悪さをすごく意識してしまう。しかしそこから歩いてゆけば、その「居心地の悪さ=けがれ」からの解放になる。
人間にとって直立二足歩行すなわち旅をすることは、この生の「けがれ」をそそぐ行為である。
弥生時代のはじめに奈良盆地に集まってきた人たちは、住みよい土地を目指してやってきたのではない。つまり「けがれをそそぐ」というテーマを抱えた人たちだったのだ。まあ、人間なら誰だってそういうテーマを抱えて生きているわけだが。
人間にとっては、生きてあることそれ自体がひとつの「けがれ」なのだ。
弥生時代のはじめ、日本列島のあちこちに大きな集落が生まれはじめ、同時にそこから逃げ出す人も大量に生み出した。
彼らは、縄文時代の1万年を大きな集落で暮らしたことのない人々だったのだ。そういう人たちがいきなり大きな集落の暮らしに馴染んでゆけるはずがない。縄文時代から弥生時代のはじめは、そういう過渡期だった。
そうして、列島中に旅をする人々があふれていった。もともと縄文時代の男たちは旅ばかりしていたのだし、そういう伝統があった。
弥生時代のはじめは、大きな集落で暮らすことの「けがれ」が意識されていった時代であり、そこからの解放としての「祝祭」も、よりダイナミックに起きてきた時代だった。
ダイナミックな「祝祭」を持っている集落が大きくなっていった。
最初は、「政治」によって集落が大きくなっていったのではない。政治は、その集落を完結させる。したがって、原理的に大きくなってゆく契機になり得ない。
完結できないで、よりダイナミックに「祝祭」が起こってきた集落が大きくなっていったのだ。
それが奈良盆地であり、そこは、列島中から人が集まってくる土地だったし、集落として完結しないでそれらの人々をたえず受け入れてゆく土地だった。



おそらく、弥生時代奈良盆地に集まってきたのは、そのころ生まれはじめた大きな集落から逃げ出してきた人たちだったのだろう。
彼らは、住み着く土地を探していたのではない。しかし、奈良盆地にやって来て、ふと足を止めた。
そこは、たおやかな姿をした山なみに囲まれた場所だった。その景観に魅せられて、足を止めた。
湿地だらけのけっして住みやすい場所ではなかったが、ひとまず住んでみた。
住みやすい場所ではなかったからさまざまの問題が起きてきたが、そのつど「なりゆき」で対処していった。
住みやすい場所なら退屈してしまったかもしれないが、退屈させてくれなかった。
大きな集団なら逃げだしたかもしれないが、そこは、湿地帯の中の浮島のような台地にできた小集落だった。そしてそこだけでは完結できないから、自然にまわりの小集落と連携していった。
連携しながら、その湿地帯を少しずつ干拓していった。
そうやって住みにくい土地に住み着いてゆく醍醐味に目覚めていった。
彼らはもともと大きな集落から逃げ出してきた人々だったから、小さな集落で暮らすことを気に入っていたし、大きな集団の鬱陶しさから解放される「祝祭」を催すことに熱心だった。
彼らは大きな集団の中に置かれることは鬱陶しがったが、もともと漂泊の民だから、人が集まってくる場の人との出会いにはときめいた。それはまったく偶然のなりゆきだったのだが、そういう出会いのときめきと連携が日常的に起き、さらには、つねにまわりから人が集まってくる場所でもあった。そうして、いつも「祝祭」が生まれてくる場所になっていった。
たとえば出雲から人がやってくれば、すぐに歓迎の祝祭が催されたことだろう。そうして、みんなで出雲という土地の話を聞いて楽しんだのだろうし、巫女の舞を見せてやったりもしたのだろう。あたりまえに考えて人間の集団性の行為の原点はそういうところにあるのであって、豊作祈願をするとか悪霊払いの祈祷をするとか、そんなことが集団をいとなむための行為であったはずがない。



弥生時代奈良盆地は、大きな集落になってゆくためのさまざまな条件をそなえていた。
しかしそれは、政治や宗教や階級が生まれてくる条件だったのではない。そんな条件があれば、それによって集団は完結して閉じてゆくから、大きくなってゆかない。大きくなってから政治や宗教や階級が生まれてきて閉じていったのだ。それらは、集団を閉じるための機能なのである。
人類の集団は、祝祭によって大きくなってきた。
人が集まってきたときの出会いのときめきによって祝祭が生まれてくる。それはもう、国という集団が生まれてくるのも現代人が仲間内でパーティをするのも同じなのだ。
人類の集団を大きくしたのは政治や宗教ではなく、「出会いのときめき」なのだ。人間は、集団を大きくしようとする衝動を持っているわけではない。
弥生時代奈良盆地は、日本列島でもっとも政治や宗教が遅れている場所のひとつだったのであり、しかしそのぶん出会いのときめきがもっとも豊かに起きる場所だった。その祝祭性によって、国という単位の大きな集落になるまで発展していった。
政治や宗教や階級制度がちゃんと機能していたからではない。そんなこととは無縁の社会だったから大きな集落になっていったのだ。
誰もが平等で、誰もが奈良盆地の山の景観を愛し、誰もが舞の名手である巫女を愛していた。そういうイノセントな祝祭性によって、弥生時代奈良盆地にどこよりも大きな都市集落が出現した。



日本列島では、江戸時代になっても、村という単位ではほとんど階級などなかった。農民にとっては、武士や町人の世界は非現実の別世界でしかなく、村という現実においてはほとんど平等だった。そうして「寄り合い」という会議の場をつくり、ああでもないこうでもないと「なりゆき」まかせの話を繰り返していた。
まあ、「衆愚政治」というやつである。妙なリーダーやら賢人とやらに神の立場で勝手に決められる政治よりもその方がずっと納得ゆくし、その方がずっと自然ななりゆきがある。
衆愚政治の妙というものがある。しかしそれは誰もが「なりゆき」にまかせようとする心があってはじめて成り立つのであって、むやみに権利を主張し合ったり義務を押し付け合ったりすることではない。
日本列島には、良くも悪くも「なりゆきまかせ」の衆愚政治の伝統がある。それは、神のいない国だったからだ。
「こうすればいい」とか「ああしてはいけない」というよりも、ひとまず「なりゆき」にまかせてみようではないか……そういう作法で日本列島の歴史がはじまったのであり、その縄文時代から弥生時代の作法は、この国の伝統として、現在のわれわれの心の底にも息づいている。
われわれは、心の底では神を信じていないから「なりゆきまかせ」の衆愚政治をする。
誰もが神を信じているなら、衆愚政治は否定される。
しかし日本列島の住民の歴史的な無意識に神や霊魂という概念は存在しない。われわれの思考や行動が「なりゆきまかせ」になりやすいのはそういうことなのだ。



われわれは神や霊魂の話をされると、あんがいかんたんに信じ込んでしまう。かんたんに信じてしまうのもまた日本的な「なりゆきまかせ」の傾向ではあるが、心の底では神も霊魂も信じていない。そういう「なりゆき」に身をまかせているだけなのだ。
しかしそういう「なりゆきまかせ」のところから、高度に洗練された日本的な美意識が生まれ育ってきた。
「なりゆきまかせ」は、自然に対する親密さである。
日本列島の住民にとって自然は、神ではなく「神の形代=身がわり」である。だから、神が自然をつくったとは思っていないし、支配できるような対象だとも思っていない。
自然が神がつくったような簡単なものなら、自分も神の立場に立っていかようにも支配してゆける。しかしわれわれにとって自然は「神の形代=身がわり」なのだ。それほどに自然に対して親密だし、ありがたいものだと思っている。
われわれは「神の形代=身がわり」は知っているが、神そのものは知らない。
自然が「神の形代=身がわり」だということ自体、神を知らない証拠なのだ。
そのむかし、神という概念が日本列島にはいってきたとき、われわれは神を知らなかったから、自然をひとまず「神の形代=身がわり」ということにして受け入れていった。
「神の形代=身がわり」というイメージは日本列島の伝統であるが、神そのもののイメージは伝統ではない。
日本列島には「形代=身がわり」の文化があるから、なんでも受け入れることができる。たとえわれわれにそぐわないものでも、「形代=身がわり」を立ててなんでもかんでも受け入れてしまう。
日本人とは、そういう因果な民族であるらしい。



「こうすればいい」とか「ああしてはいけない」というのは、神の立場に立って自然を支配しようとしている意識である。いまや人類社会はすっかりそういう流儀に覆われてしまっているが、それでもわれわれの心の底には、「なりゆきませ」の自然に対する親密さが息づいている。そこがなやましいところだ。
われわれはかんたんに神だの霊魂だのという言説にたらしこまれてしまう民族ではあるが、それでも心の底では神も霊魂も信じていない。
スピリチュアルやらカルト宗教やら、われわれはかんたんにそうした神だの霊魂だのというオカルト話にたらしこまれてしまう。たらしこまれてしまうけど、しかし心の底ではそれを信じきれていない。
信じきれないものでもひとまず「形代=身がわり」を立てて信じ込んでゆくのが、この国の精神風土なのだ。
われわれの身体の外には、他者がいて自然があって世界がある、日本列島の住民は、そういう「身体の外部」に対して、緊張感が希薄である。だから、なんでもかんでも受け入れてしまう。
これは、海に囲まれた島国で異民族との緊張感のない歴史を歩んできたということもあるが、それ以前に他者や自然との緊張関係のない文化をはぐくんできたということもある。
縄文人にとって山という自然はけっして安楽な暮らしを約束してくれるものではなくむしろ困難さの方が先に立つ対象だったが、それでも自分を捨ててその中に飛び込んでゆくしかなかった。そして親と子や男と女という人と人の関係も、なるべくいつまでもべたべたと一緒に暮らすということをせず、緊張関係が生じない関係をつくっていた。つまり一緒に暮らすのではなく、出会いと別れを繰り返してゆく関係だった。しかも大きな集落をつくらず、その小集落どうしもできるだけ離れてつくられていた。
そういう「身体の孤立性」を確保してゆく文化がまずあり、その上に異民族との緊張関係がないという幸運にも恵まれた。
身体の孤立性が確保されれば、身体の「けがれ」が自覚されてくる。そしてその「けがれ」からの解放として他者や自然との「出会いのときめき」が体験される。
縄文時代の「出会いのときめき」と「別れのかなしみ」を繰り返す暮らしは、「身体の孤立性」の上に成り立っていた。
縄文人は、「旅をする猿」という人類の伝統の継承者だった。
「旅をする猿」は、「身体の外部」の他者や自然や他の集落との緊張関係を持たない。持たないから、旅ができる。そしてそれが、日本列島の文化の伝統になっている。
だから大和朝廷ができたころには、神という概念など何も知らないのに、それをひとまずまるごと受け入れてしまった。



身体の孤立性が確保されているから、身体の外部に対して無防備になれる。
身体の孤立性が危機にさらされていれば、それを確保しようとして外部との緊張関係が生じる。
日本的な身体の孤立性を確保している文化と、大陸的な身体の孤立性を確保しようとする文化は違う。すでに確保していると、身体の「けがれ」を意識して、身体の外部に対する関心がふくらんで無防備になってゆく。
神が自然をつくったというのは、自然との緊張関係を超克しようとするところから発想された世界観である。そうやって他者との関係をつくり、共同体をつくろうとしてゆく。彼らは、そうやって神の立場に立とうとする。
しかし日本列島の住民は神を知らないから、神の立場には立てない。そうしてそれらを「なりゆき」にまかせようとする。
日本列島の住民は、「神が自然をつくった」とは思っていない。だから縄文人は、神の立場に立って自然を支配しようとする意識は希薄だった。彼らは、自分を捨てて山という自然の中に飛び込んでいった。山という自然に溶けてゆくようにして暮らしていた。
弥生時代奈良盆地の住民は、山という自然に抱かれてあるその景観を愛した。それらの山々は「神の形代=身がわり」であって、神そのものではなかった。神なんか知らなかった。
日本列島の住民の山という自然に対する親密さは、神を知らないことの上に成り立っている。知っていたら、山よりも神の方が大事になるし、神に対してありがたがるだけで、山に対するありがたさの根拠はなくなる。そうして西洋人のように、山をありがたがるよりも征服しようとする。その方が自然をつくった神の心にかなっている。
日本列島の住民の山に対する受動的な心の動きは、自然をつくった神の心にかなっていない。
奈良盆地生駒山でも安達太良山でもお岩木山でもいい、日本列島においては、まず山に対する親密な思いがあって、そのあとに山のことを「神の形代=身がわり」だといっただけである。



日本的な発想の根拠に、神は存在しない。神の「形代=身がわり」が存在するだけである。
そして、われわれにとって神は「(自然を)つくる」存在ではないから、「神に生かしてもらってありがたい」などという意識もない。いまどきは、そういう意識を持てという言説があふれているが、それはわれわれの自然な心の動きではない。「持て」と言われなければ持つことができない。
われわれの自然な(=伝統的な)心の動きにおいては、神などというものは存在しない。
日本的な伝統としての「もののあはれ」も「わび・さび」も、神を知らない民族の美意識なのである。
今や現代人は、神や霊魂が存在すると信じたい欲望を持ってしまっているが、この世界には、かつて神も霊魂も知らない民族が存在したのだ。それほど遠くない過去に。
いや、いまでもわれわれは、ほんとうは神も霊魂も知らない。
「神に生かしてもらってありがたい」だなんて、神とは人間を生かしたり殺したり、そんないやらしいことをする存在なのか?日本人は、そういう作為的なことが大嫌いな民族なのだ。
人間が生きてあることなんか、神のあずかり知らぬことだ。
神が存在することなんか、人間のあずかり知らぬことだ。
われわれは、神なんか知らない。神の「形代=身がわり」しか知らない。
僕は、「神に生かしてもらってありがたい」だなんて、とても下品な発想だと思いますよ。そういうことをいう人間の品性を疑う。日本的な美意識の伝統に照らせば、聞くに堪えない不潔な物言いだ。
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