きゃりーぱみゅぱみゅ・「漂泊論B」61
1
「きゃりーぱみゅぱみゅ」に代表される最近の「かわいい」系ファッションは、色の使い方がとても鮮やかである。ほとんど常識破りのような色の組み合わせで、それでもかわいい。なぜかとてもかわいい。
そしてそれが西洋でも受けているのは、たぶん西洋人の感覚の意表を突いているのだろう。
ルノアールとかマチスとかの絵に見られるように、まあ西洋人の方が色の使い方は一枚も二枚も上手のはずである。彼らは、どのように組み合わせれば心地よいハーモニーになるかをよく心得ている。音楽用語に例えれば、和音の使い方がうまい。そういう伝統を持っている。
しかし、かわいい系ファッションは、ハーモニーを計算したような色使いではない。あえて色の不協和音に飛び込んで遊んでいる。おもちゃ箱をひっくり返した瞬間のような色使い。常識を逸脱しているから、計算していることを感じさせない。目の前にある服をなんの意図もなく無造作に重ね着し、ただもう無邪気にキッチュなアクセサリーをジャラジャラとくっつけていったような趣がある。
そういう即興性にあふれている。
即興性こそかわいい系ファッションの生命線であり、この即興性が外国人にはうまく真似できないらしい。彼らには、どうしても「計算する」という自我が付きまとう。彼らはそういう歴史を歩んできたし、日本列島の歴史は、自我を捨てる文化を洗練させてきた。
かわいい系ファッションといっても、この国の伝統の上に成り立っている。着物を着なければ伝統を引き継いだことにならない、というわけでもあるまい。着物の柄や色使いのデザインの伝統は即興性の妙にあり、その精神というかセンスは、たしかに現在のかわいい系ファッションに引き継がれている。
それは、遠い昔の話ではない。日本の女はつい数十年前までは着物を普段着にしていたのであり、大正から昭和の初めにかけて、着物のデザインの斬新さと多様さと鮮やかさが花開いた時代があった。
無邪気に遊んでいるようでいて、どこかしら高度に洗練されている。これは、日本列島のファッションデザインの伝統である。
たとえば、黄緑色の服は白い肌の西洋人でないと着こなせないというような常識があったとすれば、かわいい系ファッションのキッチュで即興的なデザインセンスが、そんな色でも世界中の若い娘がおしゃれに着ることができるようにしてみせた、というような功績があるのではないだろうか。
たぶん、そこに、人類のファッションの新しい展開がある。さらにいえば、神なき時代の人類の精神の新しい展開になり得る契機をはらんでいるのではないだろうか。
まあね、僕としては、いつまでも神だの霊魂だのと騒いでいい気になっている場合じゃないだろうと思うわけですよ。
2
現代の文明人の自我は疲れている。
自我は、自分の世界だけで成り立っているのではない。他者との関係の緊張感の上に肥大化してゆく。
人類の自我が肥大化しはじめたのは、共同体(国家)の発生が契機になっている。
共同体(国家)が発生したのは、異民族との緊張関係が大きくなってきたからだろう。その緊張関係が、人類の自我を肥大化させていった。
そうしていまやわれわれは、異民族だけでなく、いまここの生活世界においても、まわりのさまざまな他人との緊張関係を生きている。人と人の関係そのものが、緊張関係をはらんでしまっている。われわれの自我は、休まる暇がない。というか、休まる暇がないことをあたりまえにして、むしろその自我を根拠にして生きている。それによって心がゆがんだり停滞したりして病んでしまっていることに気づかずに、むしろそれを自慢したりそれにしがみついたりしている。
この社会で成功しているものは、その病んだ自我を自慢して生きることができる。そして成功から外れてしまったものは、その病んだ自我にいっそう苦しめられることになる。現代のこの社会は、そういう構造になっているらしい。
そうして、誰もが自我に疲れている。
関係の緊張感が自我を肥大化させ、われわれを疲れさせる。
そういう関係の緊張感を「けがれ」と自覚し、そこからの解放として「祝祭」がある。
しかしその緊張感の中で自我を発揮することが生きがいであるのなら、祝祭はむしろ邪魔になる。そうやってわき目もふらず自我に邁進することによって、「祝祭=娯楽」に対する感性が鈍磨してゆく。
現代社会に娯楽はたくさんあるけど、心因性仮性インポとか老人性鬱病とか認知症とかその他もろもろの社会的な精神病理が問題になってきている一因は、おそらく、自我が肥大化して「祝祭=娯楽」に対する感性が鈍磨してきていることにもある。
現代人にとっては、「祝祭=娯楽」すらも自我に邁進する行為になっている。
しかし「祝祭=娯楽」は、ほんらい自我からの解放であり、自我を捨てて何かに夢中になってゆく行為である。
自分を忘れて何かに夢中になってゆくということができない。おおいにはしゃいでみせても、いつも「自分」を意識している。
現代人は、他者との緊張関係を、鬱陶しがらないで、生きがいにしている。
しかし弥生時代の奈良盆地の人々は、しだいに集団が大きく密集してゆく環境の中での人と人の緊張関係を「けがれ」として鬱陶しがり、そこからの解放としての「祝祭=娯楽」の文化を育てていった。これが原始神道の基本的なかたちであり、日本的な文化風土の基礎になっている。ここから、現在の「かわいい」の文化現象が生まれてきた。
つまり、西洋的な自我による戦略的な美の世界ではなく、あくまで日本的な、自我を捨てた「即興」の「祝祭性」こそかわいい系ファッションの真骨頂である。
日本列島の住民が異民族との緊張関係を生きたのは、明治以来のたかだか百数十年にすぎない。それまでの一万数千年を、この島国では、ひたすら自我を捨てる「祝祭性」の文化を育ててきた。現在のかわいい系ファッションだって、おそらくその伝統の上に花開いている。
いまどきの若者たちが巫女の衣装が好きだというのも、かわいい系ファッションなのだ。彼らにとっては、巫女を見るためだけでも初詣に行く値打がある。
「きゃりーぱみゅぱみゅ」も、現代の巫女であるのかもしれない。
3
もともと巫女は、神に仕える呪術師でもなんでもなかった。
山を背にした社殿のような舞台で舞って見せるのが仕事だった。原始神道の社殿には、それ以上の機能などなかった。
まあ起源においては、みんなで歌ったり舞ったり語り合ったりする場所だったのだ。
縄文・弥生時代には、神に何かをお願いするというような習俗はなく、神という概念そのものがなかった。したがってもちろん悪霊を鎮める、などという発想もなかった。そういう習俗が生まれてきたのは、大和朝廷が発生して世の中が政治で動くようになってからのことだ。
つまり、そうやって、他者や他の共同体や死後の世界という他界などとの「緊張関係」を生きる「自我」が生まれてきてからのことだ。
弥生時代の奈良盆地では、とくに集団内での他者との緊張関係を「けがれ」と自覚し、そこからの解放(みそぎ)の気分をもたらす対象として、まわりのたおやかな姿をした山々を愛し、巫女の舞姿を愛した。
はじめに「信仰」があったのではないし、集団を大きくしようとする戦略があったのではない。
ただもう勝手に集団が大きくなってゆき、大きくなってゆくにつれて鬱陶しさも大きくなっていったが、そのぶん、そこからの解放としての「祝祭=娯楽」のカタルシス(浄化作用)も深く豊かになっていった。
そういうただもう直接的な「祝祭=娯楽」のカタルシス(浄化作用)こそ、原始神道のコンセプトだった。
彼らはただもう、山を愛し、巫女の舞を愛した。
弥生時代の奈良盆地の都市集落においては、集団を大きくしようとする戦略があったのではない。集団が大きくなってゆくことの「けがれ」から解放される「みそぎ」のカタルシス(浄化作用)によって大きくなっていったのだ。
4
そのころ、奈良盆地のあちこちに社殿のような舞の舞台が建てられていった。これが神社の前身になったのだが、それぞれが、いくつかの集落ネットワークによる「祝祭=娯楽」の場だった。
奈良盆地は、最初のひとつの集落がそのまま大きくなっていったのではない。まず小さな字(あざ)のような集落の生活が基礎にあり、それらの連携が村(むら)になり、さらにその村どうしが連携してゆくことによって国(くに)になっていった。
はじめは、たくさんの字(あざ)のような小集落が生まれていったのだ。彼らにとって村はちょいとやっかいな集まりであり、国はもう鬱陶しいばかりの世界だった。
だからこそ祝祭が必要だったのであり、だからこそ祝祭のカタルシスがダイナミックに体験されていった。
そこは、小集落の暮らしが基礎になっていた。ほとんどが湿地帯であった弥生時代の奈良盆地は、あちこちに浮島のような台地があり、そこにひとが寄り集まっている小集落があった。その生活が基礎になっているから大きな集団は鬱陶しいだけなのだが、その小集落だけでは完結できないから、自然に小集落どうしの人が集まってくる広場が生まれてきた。その出会いのときめきが「祝祭」になったのであって、べつにそこで豊作祈願や安産祈願や悪霊退散の儀式をしていたのではない。みんなで盛り上がり、語り合う場を持つことができればそれでよかったのだ。
5
伊勢神宮が天皇家=朝廷の祭神になったのは7世紀の天武天皇以後のことらしいが、それまでは、ネットワークごとの神社が分立共存していたのだろう。
天皇は自分が祭神なのだから、天皇家が祭神を持つことはほんらい自己矛盾なのだ。
伊勢神宮だって、つまるところ民衆が支持して成り立ってきた。
神社はもともと民衆の「祝祭」の場だったのであって、国家建設の祈願をする場でも豊作を祈願する場でもなかった。
お寺でもキリスト教の教会でも、そこでの祭りの行事は寺や教会が主催するもの(釈迦やキリストの誕生日とか)だが、神社の祭りは、基本的に民衆の暮らしから生まれてきた行事である。神社とは、そういう場所なのだ。
もともと神社に祭神などいなかった。祭神は、あえていうなら舞の名手である巫女だった。だから、弥生時代末期には、そうした巫女であったにちがいない天皇家の姫君を祀り上げるモニュメントとして箸墓古墳という巨大前方後円墳が築造された。それは、長さが150メートル近くもある、古墳時代最初期のものとしては、ほかに例がないほど常識外れの巨大なものだった。
姫君の墓だというのはまあただの伝承で、事実かどうかわからないのだが、しかしそれほどに古代においては皇室の姫君が民衆の心のよりどころになっていたということだけはわかる。
その姫君が支配者だったという記述などない。ただ、三輪山の神と契った、というつくり話があるだけだ。
古墳なんか、もともと支配者の墓でもなんでもなかった。それは民衆の干拓工事だったのであり、そこに円形の小高い山をつくりその前に四角い広場をつくりして、その広場で踊ったり歌ったりしていただけである。誰か民衆の心のよりどころになる人物の墓だったとしても、その被葬者が政治的な支配者だったわけではないことを箸墓の伝承が物語っている。
古代以前は、女が共同体のカリスマだった。そのことをもう一度考え直してみる必要がある。
女が政治の中心だったのではない。少なくとも、弥生時代の奈良盆地には政治などなかった。
宗教とか祈祷のようなものもなかった。
政治や経済のことは、みんなで一か所に集まってああでもないこうでもないと語り合いながらその場のなりゆきで決まっていただけである。そういうシステムのダイナミズムが、奈良盆地をどこよりも大きな都市集落にしていった。
「なりゆき」という即興性の文化。それが、日本列島の伝統的な文化風土になっている。
弥生時代の奈良盆地には、支配者の搾取などなかった。しかし民衆は、異様なくらいカリスマに捧げ物をしたがった。
箸墓という巨大前方後円墳だって捧げてしまうのである。それはもう、奈良盆地の人々を総動員する工事であったにちがいないし、奈良盆地の人々だけでつくってしまったのだ。
土木工事は民衆自身でやるというのが、古代までの慣習だった。
奈良時代に大仏を造営した聖武天皇でさえ民衆を招集することができずに行基という坊主を仲立ちにたのんだくらいだから、古墳時代の天皇が民衆をこき使って巨大古墳をつくらせたなどということはあり得ない話である。すべて民衆の方から捧げたものなのだ。だからそれを「陵(みささぎ)」という。
古代以前は、民衆自治のダイナミズムがあった。しかもそれは、高度な政治意識や市民意識によるのではなく、行き当たりばったりの「なりゆき」まかせの自治だった。そういう「なりゆき」まかせの方が集団の大きなエネルギーを生む。それはきっと、科学的な力学の話としても説明できることにちがいない。
6
「なりゆき」まかせの即興の精神からは、豊作祈願も悪霊払いの祈祷も生まれてこない。古代の日本列島にそういう精神風土があったということは、この世界をつくった「神」という概念も、この命をつかさどっている「霊魂」という概念も彼らは持っていなかったことを意味する。
原始神道には、ただもう山や森に対する親密な感慨と、その自然に溶けてゆく処女の巫女の即興的な舞があっただけだ。
自分を捨てて自然の中に飛び込んでゆくという自然に対する親密さは、日本列島の自然だから可能なのだろうか。そこのところは、荒涼とした砂漠の景観の中から生まれてきたキリスト教の精神とは違う。彼らはもう、戦略的に生きるほかない環境の中に置かれていたわけで、神や霊魂はそこから発想されていった。
日本列島のイノセントな即興性には、神や霊魂が発想される基盤がない。それはもう、世界史において奇跡的なことだったのかもしれない。そしてそういう伝統をいまだに引きずって、「ジャパンクール」といわれる文化現象が生まれてきた。
かわいい系ファッションは、ある意味で奇跡のファッションなのである。キッチュで単純なコンセプトのように見えて、じつはどこの国も真似ができない。なぜならそれはそれで、伝統という水に洗われた洗練を持っているからだ。
そしてそれは、デザイナーがえらいのではない。デザイナーはただ、民衆としての巷のギャルのセンスを商業的に加工しているだけである。
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