神と奈良盆地と大和朝廷・「漂泊論B」60



いまどきの歴史家は、「大和朝廷」ではなく「大和王朝」という人が多いのだとか。
王朝、すなわち彼らは「政治」の問題としてその起源を語ろうとしている。大和王朝以前は、三輪王朝とか葛城王朝とか難波王朝とか飛鳥王朝とか、彼らは政治集団としての「王朝」という言葉が好きで、天皇は政治的な存在として発生してきたと思っているらしい。
彼らの考えによれば、天皇は支配者である「王」として発生し、そののちに「象徴=形代(かたしろ)」の存在として祀り上げられていったのだとか。
そうじゃないだろう。話が逆ではないか。天皇が支配者としての王であったのなら、とっくに地上から消えている。王なんか、いずれ抹殺されるのが世界史の普遍である。「王殺し」は、人間の本能なのである。心理学では、われわれが自分の父親を殺したいほど憎むことを「王殺しの衝動」などといったりする。
天皇は、「王」として発生したのではない。古事記日本書紀にはひとまずそのように書いてあるが、そんなものは大嘘だ。



飛鳥時代推古天皇以前の30人くらいの天皇はみな男だったようになっているが、とうてい信じられない。日本列島はもともと女系家族だったのだから、ほとんどが女の天皇だった可能性の方が濃い。
文字が入ってきてそれまでの天皇の呼称の「おおきみ」を「大王」と書くようになって、いかにも権力支配者のようたが、「きみ」という言葉が政治的な存在の男を指していたという証拠はない。もしかしたら舞の名手である処女の巫女のことで、その親(保護者)だから「おおきみ」といっただけかもしれない。「きみ=天皇」と「おおきみ=天皇の親」がいたのかもしれない。
とすれば、「おおきみ」とは、「きみ=天皇」の「形代=身がわり」ということになる。
日本列島では「大旦那」とか「大奥様」といえば、たいていは引退した人のことで、「おお」が付けばえらいとも中心的な存在だともいえない。
「おおむね」とか「おおかた」というときの「おお」には、「えらい」とか「偉大」というような意味はない。「間に合わせの身がわり」というような意味である。
「公(おおやけ)」という場合も、語源的には「非現実の間に合わせの世界」というようなニュアンスだ。「やけ」とは「非現実」、だから「やけくそ」という。日本人は、「公」に対してそんなふうな意識だから、西洋人から「公共心」がないといわれる。西洋人にとっては「都市(国家)=公共」こそ現実だが、日本列島においては「小集落=村」が現実で、公共は非現実の間に合わせの世界にすぎない。
弥生時代末期の箸墓という巨大前方後円墳天皇家の姫君の墓ということになっているが、そのころはまだそういう舞の名手の巫女が集落共同体の象徴の「きみ」で、親とか兄弟がその補佐役の「おおきみ」になっていたのかもしれない。補佐役の仕事の「政治」といっても、祭りの段取りを取り仕切っていただけで、だから「まつりごと」といったのだろう。
「きみ」という言葉の語源は、「卵の黄身(きみ)」というように「中心の存在」というような意味だったのだろう。「いい気味(きみ)」とか「不気味(不気味)」というときの「きみ」は、体の中心の「心」のことだ。
弥生時代奈良盆地における「きみ」は、舞の名手である処女の巫女のことだったのかもしれない。もちろんそれはたんなる推測だが、「おおきみ」が「偉大な支配者」という意味だったと勝手に決めつけてもらっては困る。
「おおきみ」とは、「中心的な存在の身がわり」、あるいは「かつて中心的な存在だった人」というような意味だったのかもしれない。
また日本列島では、「中心の存在」が「支配者」だとはかぎらない。
奈良盆地の都市集落が「支配」とか「政治」というようなもので動くようになってきたのはおそらく古墳時代の5、6世紀ころからだろうが、そのころの話はすべて奈良時代平安時代の伝聞情報であり、それをもとにときの支配者たちが勝手にもっともらしくつくり上げたにすぎない。
仁徳天皇なんて、存在したかどうかもじつはわからない。
わからなくてもいいのだ。ひとまずそういうことにしてみんながあっさり納得してゆくのが、この国の「形代(かたしろ)」の文化である。



天皇は、政治的に無能な存在である「象徴=形代」として発生してきたのだ。
卑弥呼が祭祀をつかさどり、実際の政治は弟がやっていた……という話がある。それが実話かどうかなど知る由もないが、古代において政治のことを「まつりごと」といっていたということは、この国はもともと「政治」ではなく「祭り」の上に成り立った社会だったことを意味している。
政治のことを「まつりごと」といったのではない、「祭り」だから「まつりごと」といったのだ。そのころ(弥生時代)の人々は、政治なんか知らなかった。
政治なんか知らない民族が、天皇という「象徴=形代」の存在を祀り上げていったのだ。
かつて「天皇=きみ」は、舞の名手の巫女だった。
祭りで人々を支配していたのではない。人々の祭りが、「天皇=きみ」という存在を祀り上げていっただけのこと。まあそれは、そういう「いけにえ」としての存在だった。
「いけにえ=いけにへ」の語源は、「別世界の神秘」というようなニュアンスにある。「いけ」は「別世界」、「にえ=にへ」は「神秘」。
古代人は、「池(いけ)」を「別世界」だと見ていて、池の主の龍神をイメージしたりしていた。「け」は「蹴る」の「け」、「分裂」の語義。「い」は、その強調。「いけ」とは、「別世界」のこと。
「に」は「煮る」の「に」、「過激(ラディカル)」の語義。「え=へ」は、「えっ?」と驚いたり「へえ?」といぶかったりするときにこぼれ出る音声。ただの不思議以上の不思議、すなわち「神秘」のことを「にえ=にへ」という。食い物のことを「にえ=にへ」というのは、料理することによって美味しくなる「不思議」を指している。
ここでいう「いけにえ=いけにへ」とは「別世界の神のように尊いお方」という意味で、天皇は、そういう「いけにえ=いけにへ」だった。
われわれの棲む「俗世間」を支配する「王」だったのではない。「俗世間」とは別の世界に棲むお方として、奈良盆地の民衆から祀り上げられていったのだ。
彼らには「俗世間の憂さ」を晴らす「祝祭=娯楽」が必要だったのであり、天皇の仕事として「俗世間の憂さ」を晴らしてやることを「まつりごと」といった。
べつに、政治のことをいったのではない。そして後世に政治をするようになっても、その過程段階として、ひとまず政治とは民衆の「俗世間の憂さ」を晴らしてやる行為である、というたてまえのもとになされていたのだろう。いや、今でもそういうたてまえになっている、たてまえとしては。
ともあれ、「祭り」だから「まつりごと」といっただけのこと。起源としての天皇は、人々の「俗世間の憂さ」を晴らしてやるために歌ったり踊ったりして見せる巫女のような存在だったのではないだろうか。
推古天皇の下に聖徳太子という摂政がいた飛鳥時代だって、まだ天皇制の過渡期だったのだろう。推古天皇が「きみ」で、聖徳太子が「おおきみ」の立場。古代の「おお」という言葉を過大評価するべきではない。「おお」とは「代理」という意味。たとえ推古天皇が「おおきみ」と呼ばれていたとしても、そのときはもう「おお」という言葉が「偉大な」という意味に変質していたのだろう。あるいは、推古天皇こそ聖徳太子の代理だったともいえる。
推古天皇から奈良時代までは、半分は女の天皇だった。そして彼女らのほとんどは、次の天皇が成人するまでの「代理=おおきみ」だった。けっきょく天皇は、いつだって実際の政治権力の場においては「代理=形代=身代わり=いけにえ」でしかない。そういう文化風土の国なのだ。
「祭り」の社会であるなら天皇は「きみ」であるが、政治が中心の社会になってしまえばもう「おおきみ」であるしかない。とにかく、語源における「おおきみ」の「おお」は、「偉大な」という意味ではなかったはずだ。


大陸から入ってきた「神」は「しん・じん」と発音したのだろう。「しん」は「芯」で、「中心の存在」である。
とすれば、「中心の存在」である「きみ」は「神(しん)」ということになる。
そのとき日本列島の住民は「神」という概念を知らなかったから、「きみ=天皇」を「神」とすることに抵抗がなかったのかもしれない。
最初から「神=しん=ゴッド」という概念を持っていたのではない。持っていたら、天皇という人間を「神」とすることはできない。キリスト教のキリストのように神の子とか神の使いのように考えるしかない。
しかし日本列島の天皇は、神そのものと思われていたのだ。それは、神のなんたるかを知らない民族だったからではないだろうか。
天皇を安直に神そのものにしてしまっているから、この国では「神の使い」を自称する人間がかんたんにあらわれてくる。誰もがかんたんに「神の使い」になれる国であるらしい。そしてこの場合は「天皇の使い」ではもちろんなく、キリスト教的な「神=ゴッド」がイメージされている。そして伊勢神宮にも「神=ゴッド」がいる、などと言い出す。
「神=ゴッド」について本気で考える風土ではないから、かんたんに「神=ゴッド」をイメージしてしまい、かんたんに「神の使い」になったつもりになれる。
まあ現代人は、たとえ日本列島の住民でも、たいてい「神」といえば「ゴッド」をイメージしている。西洋人のようにうまくイメージできないくせに、ひとまずそういうことにして納得している。
日本列島に住民はもともと「神=ゴッド」という概念を知らない民族なのだし、そんな概念を持つことが人類普遍の心の動きであるのでもない。
弥生時代奈良盆地の人々は、ありがたさが胸に満ちてきて祀り上げずにいられない対象のことを「かみ」といっただけである。そういう感慨のことを「かみ」といったのだ。そういう感慨がまずあったわけで、その対象は「イワシの頭」でもよかったのだ。



昔の人は、天皇は「神」そのものだと思っていた。それは、「神=しん=ゴッド」のなんたるかを知らない民族だったからであり、ただ単に「中心の存在」は「神」だと思っていただけである。
だから今でも「おかみさん」とか「我が家の山の神」などといったりする。「女将(おかみ)」とは、「中心の存在」という意味だ。日本列島の「神」という概念は、そのていどの意味しかない。
天皇が人間であることなんか誰だって知っている。しかし天皇は、われわれのような俗世間の垢にまみれた存在ではない。俗世間とは別の世界の人だ。だから、「神」だと思った。「神」のなんたるかを知らないから、「神」と思うことができたのだ。
日本列島では、「中心の存在」はみな「神」なのだ。だから、名人や英雄はみな「神」になってしまう。
心底から「敬う」のであれば、それはみんな「神」なのだ。われわれは、じつに安直に「神」をイメージしてしまう。それはもちろん「神の国」だからではない。「神」などというものを知らない国だからだ。
しかしその代わり、弥生時代奈良盆地の人々は、とてもあつく深く「敬う」心の動きを持っていた。その心の動きが、かんたんに「神」を祀り上げてしまう。
それはたしかに安直といえば安直なのだが、なぜかといえば、生きてあることや俗世間の垢にまみれていることをとても深く嘆いている民族だからだ。
この生そのものをとても深く嘆いているから、人間なんかかんたんには敬わない。でも、天皇は別だし、奈良盆地の山々を眺めればありがたくて涙がこぼれそうになってしまう。
まあ、彼らは、そういう感慨で暮らしていたのだろう。
神そのものはよくわからないのだが、「神の形代」である山や天皇に対しては、無条件に敬う気持ちを捧げることができる。「神の形代」だからではない、無条件に敬うことができる対象を「神の形代」といっただけだ。
人間もこの生も鬱陶しい。日本列島の住民は、そうやって嘆いているからこそ、とてもあつく深く何かを敬う気持ちがどこかしらで息づいている。「神」なんか知らない。しかし「いまここ」に存在する山や森や天皇を前にすると、自然に敬う気持ちが胸に満ちてきて、涙がこぼれそうになる。だからそれらを「神の形代」として祀り上げていった。
それは現在の日本人のことではないが、しかしわれわれの心のどこかしらにも、そういう「祀り上げる」という心の動きが潜んでいないわけでもないのだろう。
日本列島の住民は、そういう心の動きを胸の奥のどこかしらに携えて初詣にゆく。
ともあれこの世の中にはご立派な人がたくさんいて、かんたんに人を敬った気になったり神の使いになったつもりでいる人たちがいるらしい。まあ、勝手にやってくれ。われわれが考えているのは、それとは別の、あくまで四苦八苦して生きている人間たちの世界の話である。
この生に対する嘆きが、日本的な「祀り上げる」心の動きを生む。
日本列島には「かみ」という感慨はあるが、「神」という概念はない。
日本列島の住民は「祀り上げる」心の動きを持った民族であり、「祀り上げる」ことを「かみ」という。
祀り上げる対象は、「イワシの頭」でもいい。「神」なんか知らない。
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