内田樹という迷惑・神の姿

聖書では、神は神のかたちに似せて人間をつくった、ということになっている。
あなたは子供のころ、神を人間に似たかたちでイメージしたことがありますか。
僕はない。たぶん、そんなイメージを紡ぐことは、子供には無理なのだと思う。
神のイメージがなかったわけではない。子供のほうがむしろ確かに「神=聖なるもの」を感じている。
神とは光である。そういったほうが僕にはしっくりくる。キリスト教徒でも仏教徒でもないから。
大人になってから、だんだん人間に似せてイメージできるようになってくる。なぜならそれは、社会的合意の上に成り立っているイメージだからだ。
神の立場に立って決定することを覚えて、人間としてすれてくると、神を人間に似せてイメージするようになってくる。
神を人間に似せてイメージするのは、共同体の制度に浸されて生きている人間の業のようなものである。
キリスト教が教団として発展してゆこうとするとき、そのイメージはどうしても必要だった。それによって教化がしやすくなる。そのとき人間はすでに、人間に似せて神をイメージするようになっていた。なぜならそのときすでに「共同体=国家」は成立していたからだ。
それは、キリストの教えではなく、民衆の願い(欲望)に寄り添った教えにすぎない。
宗教とはそんなものだ、と思う。
僕は、宗教を問いたいのではない。宗教が生まれてくる契機、すなわち神がイメージされる契機について問いたいのだ。
坂口安吾がいみじくもそういったように、現代においても未来においても、もはや人間から「神」を取り去ることはできない。
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養老孟司先生は、意識は「同一性」に向かうはたらきである、といっておられる。これを敷衍すれば、「神は神に似せて人間をつくった」とイメージすることは、意識の本質にかなっていることになる。
たしかに観念のはたらきはそのようになっているし、それは共同体がいとなまれるコンセプトでもある。
ただ、根源的な意識のはたらきではない。原始仏教では、根源的な意識のはたらきにおいては、同一性も差異性もない、といっている。なぜならそれは、「空(くう)」という体験だからだ。
同一性だろうと差異性だろうと、「認識」という観念のはたらきにすぎない。
根源的な意識は、認識しない。「認識不能」のなやましさやくるおしさを体験することこそ、根源的な意識のはたらきである。
たとえば、目の前のりんごと「りんご」という言葉との同一性が確認されることは、われわれが社会生活をいとなむ上での大切な手続きであろう。それができなければ、この社会では生きてゆけない。
学校に行きなさいといわれて、ゲームセンターに行き、ここが僕の学校ですといっても、そんなことは通用しない。
大人は、ゲームセンターが学校であるということなど、認めてくれない。
同様に、大人になれば、神が人間に似た姿でイメージされてゆくようになる。神と人間との「同一性」を志向(欲望)して、神の立場に立って物事を決定してゆくようになる。そういうものだと納得(決定)しなければ世の中では生きてゆけない。
神の姿をイメージしようとすれば、自然に人間に似た姿になってゆく。観念のはたらきは、そのようにできている。人間とは違う姿など、想像しようがない。違う姿の神を説いたって、誰もキリスト教徒になってくれない。
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しかし、なぜ「姿」を想像しようとするのか。問題は、そこにある。姿をイメージすることは、「決定する」ということだ。それこそ、社会的な欲望ではないか。
仏教では、神(如来)に姿などない(=空)、と言っている。
たぶん、キリスト釈迦も、「神の姿」など説いていない。
まず、神の姿は「わからない」という体験があった。そこから「わかる」といかたちを欲望して、姿がイメージされていった。
「わからない」という体験がなければ、わかろうとする欲望など生まれてこないのだ。
神に気づく体験と、言葉が生まれてくる体験は、同じものだ。
「りんご」という言葉が生まれてくるとき、「りんご」という言葉を知らなかった。
同様に、人類がはじめて神に気づいたとき、神という言葉も神の姿も知らなかった。
神という言葉が生まれてから、神の姿をイメージしていったのだ。
意識は、「わからない」という体験(=違和感)として発生する。原初の人類は、「わからない」ことのなやましさやくるおしさの中で、「かみ」と発語していったのだ。人間に似た神の姿を見たからではない。
たとえば、空の青さが目にしみて、「かみ」と発語していったのだ。
生きていれば、誰だってとくべつな体験をする。
いつもと変わらない青い空なのに、あるとき、ああ空とはこんなにも青いものだったのか、と思う。それは、生きているのがつらくなったときだ。病気をして心が弱くなっているときとか、失恋したときとか、疲れ果てているときでもいい。まあ、そんなようなときに、空の青さが目にしみる体験をする。
花に見とれてしまうとか、「あなた」がいとしいとか、そういうとくべつな瞬間がある。
変なものを見て驚いたとか、雷が怖いということでもいい。そうやって、認識不能に陥る。それが、神と出会う、という体験である。
神の姿はわからない。「わからない」という体験が、神との出会いである。
言葉が生まれてくる直前の、「わからない」という体験のなやましさ、くるおしさ、それが神との出会いだ。
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やまとことばの「かみ」は、「かむ」という動詞の体言であるらしい。
「かむ」は、文字通り「噛む」。
やまとことばでは、「意味」よりも、「感慨」の表現として成り立っている。
たとえば「橋」と「箸」と「端」は、すべて「はし」であるが、それらは、二つのものをつなげるあやうさと緊張の感慨が共有されている。「は」は「不安」、「し」は「緊張」の語意。「はし」と発音されることの感慨が、「橋」になり、「箸」になり、「端」になった。
やまとことばにおいては、表面的な意味よりも、そのものに対する「感慨」のほうが、言葉の契機になっている。
だから、「噛む」と「神」が同じ発音でもかまわないのだ。
「神(かみ)」という言葉は、「かむ」と発音される感慨の上に成り立っている。
「か」は、「詠嘆」「感動」「注目」「確認」の語意。「美しきかな」とか「なんと美しいことか」というときの「か」。
「む」は、「仮定」「推量」の語意。噛みしめて認識不能のなやましさを味わっているから、「む」がつく動詞になった。
肉の味は、噛みしめてはじめてわかる。「わからない」という事態の渦中に入ってゆく感慨が、「かむ」という言葉になる。
つまり、「わからない」ということのなやましさを噛みしめる体験の感慨から「かみ」という言葉が生まれてきた。
語源としてのやまとことばの「かみ」は、生きてあることの「嘆き」を噛みしめる感慨のことである。それ以上の意味など、何もない。
最初は「かむ」という行為に対する感慨を表す言葉だった。それが、「かみ」という体言になった。そうして、「かみ」という言葉をもったことによって、「かみ」に気づいた。「かみ」とは「わからない」ことのなやましさくるおしさをもたらす対象である、と気づいた。空の青さでも、花の愛らしさでも、雷の怖さでもなんでもいい、とにかくそういう人間の「外部」のことを「かみ」といった。
生きてあるのがつらいと感じたとき、人は、より深く自分(=人間)の外部に気づかされる。そこから、「かみ」という言葉が生まれてきた。
「神」に「姿」などない。「神」は「空」である。これが、仏教の教えである。
たとえば、空飛ぶ鳥は神の入れ物である、と原始人は思った。では鳥のどこに入っているのかといえば、どことはいえない。神は「空」だからだ。
神は「存在しない」のではないが、「存在ではない」対象である。
「神」は、認識不能の対象である。何が「神に似せて人間をつくった」か。神に「姿」などないのだ。
そして、この世界のすべてのものは神の入れ物であるということは、神がこの世界を動かしているのではない、ということだ。この世界が動いているということ自体が神のかたちであって、動かしている別の存在がいるわけではない。共同体(国家)ができる前の原始人は、そんな存在は、ようイメージしなかった。雷は神だ、と思うことはあっても、雷を動かしている存在があるとは思わなかった。
ギリシア神話アポロンは、太陽を動かす神ではなく、太陽それ自体であったはずだ。
そしてキリスト教の神は人間をつくったが、人間を動かしはしなかった。人間を動かす神など、いつの時代にもいない。われわれは、「神に見られている(神の審判)」と思うことはあっても、「神に動かされている」とは思っていない。
神がこの世界を動かしているのではない。この世界自体が神の入れ物なのだ。
神が神に似せて人間をつくることも、この世界を動かすことも、人間の欲望であって、神の願いではない。
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「神の姿」は、「神」という言葉からもたらされるイメージであって、「神」という言葉が生まれてくる契機ではない。「神の姿」を見たから「神」という言葉が生まれてきたのではない。神の姿を見るという妄想など、神という言葉を持ってしまったあとに体験されるのだ。神という言葉を持ったから、神の姿が見たいという欲望が生まれてきたのだ。その欲望によって、神の姿がでっち上げられるのだ。
言葉が生まれる以前と以後の問題は、「無意識」と「意識」の問題ではない。人間の「歴史」の問題である。
言葉が生まれたあとの歴史ばかりつついているから、「神は神に似せて人間をつくった」ということでなければ承知できなくなってしまうのだ。
神の姿などない。したがって、神の姿に似せることなんかできるはずもない。それが、仏教の教えであり、共同体(国家)が生まれる前の原始人はみんなそう思っていた。
言葉は認識のための装置であるが、認識によって生まれてくるのではない。
そして、「わからない」という認識不能の感慨は、意識の最上位の観念、すなわち仏教でいう悟りにおける「識」の境地でもある。
「神は神に似せて人間をつくった」なんて、すれっからしの大人の意地汚い欲望に過ぎない。
人間が神から与えられた課題は、神に似ているつもりになって他人を見下すことではなく、神ではない存在としていかにして他者にひざまずいてゆくかということだろう。
仏教徒だって、平気で凡夫と悟りを得たものという差別をしてゆく。この世の「差別」問題に宗教が加担している部分は、けっして小さくない。何はともあれ、「神は神に似せて人間をつくった」というイメージがこの世の差別と無縁であるとは、僕は断じて認めない。
「神は神に似せて人間をつくった」なんて、人間としての自覚が足りないから、そんなイメージをでっち上げるのだ。
人間は、自分の「姿」などうまく把握していないのですよ。鏡を見ないことには確認できないくらい、把握していないのです。われわれは、みずからの身体を、たんなる「空間=空」としてしか把握していない。このことは、しつこく言ってきたつもりだし、これからも書いてゆく用意があります。われわれは、自分の「姿」をうまく自覚できないからこそ、生きてゆくことができているのです。つまり、極論すれば、根源的には「人間の姿」などという問題はないのです。
問題にするのは、共同体の制度です。
「神は神に似せて人間をつくった」などという考えが真理になってしまったら、ブスやブ男や老人や身体障害者は、生きてゆけないのですよ。そりゃああなたたちはいいですよ。神に似ているつもりになって自分がどんなに不細工な姿をしているのかわかっていないのだから。しかし「神は神に似せて人間をつくった」と思っているあなたたちのその差別的な視線が、上記の人たちを追い詰めているのですよ。
精神の高邁な人格者が、そんなにえらいのか。他人にひざまずかせることばかりして自分からひざまずいてゆく機会を持たない人間が、そんなにえらいのか。
僕は、ひざまずく心ををもつべきだというつもりはない。しかし、ひざまずくしかない立場で生きている人はいるわけで、そういう機会のないおえらい人格者よりも、ひざまずくしかない立場の人こそ尊敬に値すると思っているだけです。
いやいやでもなんでもいいんだ。ひざまずくのが、人間のもっとも本性的なかたちなのだ、ということを、もう少し探っていければ、と思っている。