内田樹という迷惑・「わからない」ということ

「空(くう)」の問題にこだわりながら、意識のはたらきの根源について問うてみたい、と思っています。
なぜならわれわれは、生まれたばかりの子供のような目でこの世界と向き合いたいという願いがあると思えるからです。そういう視線を持てば、この世界は輝いて見える。「あなた」を愛することができる。「愛する」とはなんのこっちゃ、という話ですけどね。でもまあみんな、「愛」がどうとかこうとかと言っているわけで、ひとまずそれにならってそういう言葉をつかってみた、というだけです。
人はなぜ「愛する」のか。そういう清らかな心を持っているからである。清らかな人は、人を愛する・・・・・・内田氏をはじめ世間の多くの人がそういう言い方をする。
つまり、愛するとは、自分の清らかさを確認することである、というわけです。
まったく、何いってるんだか。
清らかな心の持ち主だから愛するんじゃない、「あなた」が輝いて見えるからだ。殺人犯だって、愛することくらいしている。僕みたいに不潔なげす野郎だって、している。
そしてあなたたち心の清らかな人たちだって、殺人犯や僕のようなげす野郎を軽蔑しているじゃないか。そうやって他人をさげすむことが、清らかな心のはたらきなのか。
「愛する」とは、自分が清らかな人間かどうかという問題なんかじゃない。おまえらみたいなあほだって、愛するくらいのことはしているじゃないか。
世界が輝いて見えるかどうか、というだけのことだ。そしてそういう体験は誰だってしているし、それは、生まれたばかりの子供のような視線を持ってしまうことがあるからだ。
殺人犯だって、空の青さや月の輝きを眺めてふと涙ぐむことはある。それは、人を愛する心のはたらきにちがいない。
性善説性悪説も、関係ない。
そして、自分は人を愛することのできる清らかな人間であると確認することくらい、かんたんなことだ。金さえあればできる。そんな確認くらい、金で買える。テレビの24時間何とかに寄付すればいいだけのことじゃないか。
しかし、空の青さや月の輝きを眺めてふと涙ぐみことは誰にでもできることじゃないし、いつでもできることじゃない。と同時に、誰にでもできることでもある。人間の心は、そういうことができるようにできている。
そういう根源について問うてみたいわけです。
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西洋人は、意識のはたらきとは認識することだ、と思っている。
意識は認識の機能として発生する、とか。
たぶん、そういうことではないのだ。
根源的には、意識のはたらきは、「認識不能の体験」である。
それを、仏教では、「空(くう)」という。
意識は、「認識不能の体験」として発生する。
意識のはたらきとはひとつの「違和感」であり、「違和感」とは、「認識不能の体験」である。
意識はまず「わからない」という認識不能の体験として発生し、「わかる」という認識、すなわち「観念」にたどり着く。「わからない」という契機があるから、「わかる」というはたらきが生まれてくる。
この「わからない」と「わかる」のあいだに「言葉」がある。
言葉は、認識のための「フィルター」である。
われわれは、認識の結果として言葉を発するのではない。言葉によって認識するのだ。
したがって、認識する(わかる)ことは、意識の根源のはたらきではない。
言葉は、認識の結果ではなく、「認識不能の体験」の結果として生まれてくる。意識は、「認識不能の体験」をするから、「認識」にたどり着くことができる。
言葉とは社会的合意であり、ゆえに「認識」は、社会の構造の上に成り立っている。
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ところが世間の学者たちは、「人は言葉によって認識する」といいつつも、言葉が生まれてくるためのいわば「プチ認識」のようなものがあると思っている。
それが、ソシュール言うところの「差異化」という概念である。
りんごとみかんは別のものである・・・・・・そういう「差異化」の「プチ認識」から言葉が生まれてきたという。
意識のはたらきの本質は「差異化」にあり、そこから言葉が生まれてきたという。
りんごとみかんを分けるために、りんごという言葉が生まれ、みかんという言葉が生まれてきた、という。
そうじゃない。意識の根源における「・・・・・・ではない」という差異化のはたらきは、AはBではない、という「プチ認識」なんかではない。意識がりんごに気づいているとき、まず自分とりんごとのあいだの「空間」において、空間に対する認識不能の体験をし、それからりんごは「空間ではない」と気づいている。
とにかくそのとき、りんごとみかんを分けているのではない。りんごを見るという体験そのものに「・・・・・・ではない」という差異化のはたらきがある。
「・・・・・・ではない」という違和感、それは、「認識」ではなく、「認識不能の体験」なのだ。
りんごを見ているときのその空間は、自分の「身体ではない」という違和感として体験されている。
意識は、身体から発生するはたらきであり、「身体という前提」をもっている。
遠いとか近いとか大きいとか小さいと感じるとき、自分の身体が物差しになっている。そんなようなことだ。
蟻から見ればねずみは大きいものであるが、人間から見ればただの小動物である。
そのようにして、りんごとのあいだに横たわる空間に対して、「身体(存在=物体)ではない」という違和感を体験している。
意識の根源における「差異化」のはたらきとは、認識不能の「違和感」のことであって、AはBではないという「認識」ではない。
りんごという言葉は、りんごとの直接的な固有の体験から生まれてきたのであって、みかんのことなんか関係ない。みかんなどなくても、「りんご」という言葉は生まれてくる。
意識は、身体から発生する。したがって、基本(根源)的には、みずからの身体以外のものは、すべて「認識不能」の対象なのだ。
意識とは、根源的には「認識不能=空」のはたらきである。
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青い空を見上げて、空が青い、と思う。
これは、「認識」という体験か。
そうではない。空が青いから「青い」と思っただけのことだ。
つまり、生物学的なただの「知覚」である。生物学的なただの目のはたらきにしたがっただけのことだ。
自分の判断なんか、何もない。その「青い」という事実をそのまま受け入れただけで、いかなる認識のための「フィルター」も機能していない。
むしろ、フィルターをはずす、という心のはたらきによって、その青さの知覚がより鮮明になる。すなわちそれは、認識不能の体験として、空の青さが受容されているのだ。
そのとき上位の意識(心)は、認識不能のなやましさ(=違和感)に浸されている。そうして、ふと涙ぐむ。
ある不幸な体験をして、人の心やこの世の中の何もかもがわからなくなったとき、人は認識のためのフィルター(=言葉)を失ってしまう。そのようにして、空の青さが目にしみるという体験をしている。
それは、言葉を失って、言葉が生まれてくる「契機」に立つ体験である。
人は、そういう体験をしたから「あおい」とか「そら」という言葉を生み出したのだ。
「わからない」ことの悩ましさ。生きてあるとはなんだろうという思い、死ぬとはどういうことだろうと思い、どうして「あなた」のことをこんなにも思ってしまうのだろうとという思い、この赤い果実(りんご)はなんと愛らしい存在であることかという思い、どうして空はこんなにも青く広いのだろうかという思い、それらはすべて、「わからない」ということのなやましさの体験である。そのなやましさから言葉が生まれてきた。そういう契機がなければ、言葉なんか生まれてこない。人類学者が言うように、ただ「知能」が発達したからとか、そういうことではない。
知能が発達したから言葉が生まれてきたのではない。生きてあることの「嘆き」を体験するようになったからだ。原始人の「嘆き」は、われわれよりずっと深く純粋だったのだ。知能が発達しからだなんて、そんな原始人をばかにしたようなことをいうものじゃない。だいいちあなたたちのような知能指数の高い連中が、どれほど言葉にたいする豊かな感受性を持っているというのか。あなたたちは、じぶんのその不細工な脳みそをもっと反省するべきである。そして、原始人にひざまずいてゆくように原始人のことを考えるべきだ。
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人間は、「わからない」という体験に浸されてしまう生き物なのだ。
だから「学ぶ」という体験をする。言葉が生まれてくるとは、「学ぶ」という体験である。
「わかる(認識)」ことのよろこびが言葉を生み出したのではない。「わからない(認識不能)」ことのなやましさから言葉が生まれてきた。
「わからない」ことのなやましさが、人間を生かしている。
空の青さが目にしみて、ああやっぱりもう少し生きてみようかと思う。
そういう体験をしなければ生きていけない。うまいものを食いたいという欲望だけで生きているのではない。誰もが心の底にそういう「わからない」ことのなやましさを抱えている。そしてそこから「学ぶ」という体験をするから生きていられるのだ。
それは、上位の意識(心)が、「わからない」と自己否定して、下位の意識(根源=無意識)にひざまずいてゆく体験である。
「無心になる」とは、そういう体験のことだ。
人間の心の動きは「わかる」という立場を否定して(あるいは失って)、「わからない」という立場に立ってしまう傾向を持っている。「わからない」というところから心の動きがはじまる。心の動きの底には、つねに「わからない」という体験がはたらいている。
それは、「ひざまずく」という態度である。学ぶとは、ひざまずくことだ。愛するとは、ひざまずくことだ。「わからない」という体験に浸されたら、もうひざまずいてゆくしかない。しかし、世界はそこで輝いている。ひざまずくものにしか世界の輝きは体験できない。
「空(くう)」を体験するとは、ひざまずくことである。(つづく)