内田樹という迷惑・「神の立場」という擬制3

生まれたばかりの赤ん坊が「おぎゃあ」と泣くということは、そこで意識が発生したことを意味する。
意識ははじめからあったのかもしれないが、とにもかくにもそこで新しい意識が発生したことはたしかだ。
その意識は、何もない空間に反応した。
これは、重要なことです。
そのとき赤ん坊は、なにを見たわけでもなにを聞いたわけでもない。赤ん坊にそんな能力はない。それでも意識が発生した。
つまり、意識のはたらきがひとつの違和感だとすれば、そのときその違和感は、何もない「空間=空(くう)」に向かってはたらいていることになる。
意識にとっての違和感の対象は「空間=空」である、ということになる。「物体=色(しき)」ではない。
「空」とは認識しないことだとすれば、認識しないことを認識した、ということになる。
いや、僕は、「認識」という言葉にこだわりすぎている。
意識のはたらきとは、認識することではない、認識しないことだ・・・・・・そういえばいいのだろうか。
違和感とは、「わからない」というはたらきであるはずだ。「わからない」と反応することが、意識の発生である。
わかろうとする「志向性」があったからではない。「わからない」という体験がなければ、わかろうとする衝動なんか生まれてくるはずがない。
まず「わからない」という体験がある。それは「わかる」という体験の反措定ではない。ただもう、「ない」、と驚くのだ。
意識は、身体から発生する。身体は、とりあえず存在する(=ある)というかたちで成り立っている。
「ある」は、意識の発生ではなく、意識が発生するための前提なのだ。
だから意識は、「ない」という体験として発生する。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
認識する=わかる=決定する・・・・・・現象学では、そういう意識のはたらきを根源的というか本質であるかのような前提で考えている。そういうはたらきのからくりが解ければ、意識のはたらきの根源がわかる、と思っている。しかしそんなはたらきは、観念のはたらきであり、社会の構造から生まれてくるはたらきにすぎない。
さいころの目の向こう側を類推するか否かは、社会の構造の問題なのです。原始人は、自分たちが見える景色の向こう側は「何もない」と思っていた。つまり、社会の構造という問題を取っ払ったら(エポケーしたら)、人間はさいころの目の向こう側なんか類推しないのです。
悟りとはすべてのことがわかることだ、というのなら、悟りなんて社会の構造から要請された境地にすぎない、ということになる。
仏教もイスラム教もキリスト教も、共同体(国家)が成立したあとに生まれ、共同体(国家)の要請を満たすようにして発展してきたのです。だから、悟りとはすべてのことがわかることだ、というような俗論がまかり通るようになる。
たとえば、人間と同じくらいの大きさの蟻がいるんだよ、といわれたら、あなたはどう思いますか。僕は、「へえ、そうか」と思う。そんな蟻がいるものか、と思うのは、社会の構造の問題です。社会は、「そんな蟻などいない」という合意の上に成り立っている。しかし僕は原始人だから、信じてしまう。なぜなら、そんな蟻がいることもいないことも知らないからです。
古事記の物語を生み出した古代人は、そこで語られている奇想天外な神の姿を信じていた。なぜなら彼らは、神がどんな姿をしているか知らなかったからです。そんな神がいることもいないことも知らなかった。だから、信じた。
それはたぶん、ギリシア神話の神においても同じのはずだ。
人を信じる、ということでも同じでしょう。相手のことが何もわからないから、信じることができる。「信じる」という心の動きは、「わからない」ということの上に成り立っている。わかっているつもりだから、信じられなくなる。大きな蟻がいないとわかっているつもりでいるから、その話が信じられない。
人間は、根源的な意識のはたらきにおいて、「わからない」という体験をする。
社会の構造によって規定された観念のはたらきによって、「わかる」という決定をする。
原始人は、神がどんな姿をしているのか知らなかった。しかし、すでに神という概念は持っていた。神は人間の姿をしているのかどうかということは「わからない」のです。わからないから、人間の姿をしている、ということが信じられていった。
まず、「わからない」という体験があった。神は、人間の姿をしているのではない。していないのでもない。神の姿は、「わからない」、のだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
目の前にりんごがある。意識の違和感は、まずりんごと自分との間の「空間」に向かってはたらいている。それは、「空間がある」という認識である、というようなへりくつを言っちゃいけない。「ない」、という体験なのだ。認識ではない。認識なんかしていない。認識できないことの「違和感(意識の揺らぎのようなもの)」がはたらいているだけである。
そうして、目の前のりんごに対しては、「ないではない」すなわち「空間ではない」という体験をする。これもまたたんなる「違和感(意識の揺らぎのようなもの)」であって、認識ではない。で、そこから矢のようなスピードで、「りんごである」という社会的合意にたどり着く。そして、認識された瞬間、りんごに対する違和感が消える。
「それはりんごである」という認識にいたるまでに、意識は、そのような手続きを踏んでいる。
「空間」は、存在するのでもないし、認識されるのでもない。「わからない=ない」というかたちで、「体験」されるのだ。
「空間」は、認識されるのではなく、体験されるのだ。そしてこの体験によって、手を伸ばしてりんごをつかむ、という行為が可能になる。
意識はまず「わからない=ない」という体験をする。
この「体験」に遡行してゆくことを、カタルシス(浄化作用)という。
なぜわれを忘れて「あなた」に夢中になる恋がカタルシスになるかといえば、あなたに夢中になることと自分が消えてゆくことがセットになっているからでしょう。すなわち、色即是空。(あなたを)認識することは、(自分を)認識しないことなのだ。
りんごを認識することは、りんごと自分とのあいだの「空間=ない」を体験することでもある。
イチローは、ボールを見ながら、ボールと自分との「空間=ない」を体験している。ボールを見ることくらい誰でもできる。体を動かす(バットを振る)ことくらい誰でもできる。しかしこの「空間=ない」を体験することは、けっしてかんたんなことではない。
スポーツ選手の才能の多くは、この「空間=ない」をどれだけビビッドに体験できるかにかかっている。それが、運動神経というものだ。
「ないがある」なんてへりくつをいっちゃいけない。「ない」ものは、「ない」のだ。ないものはないと素直に体験できなければ、内田氏のようにいつまでたっても運動オンチでいなければならないし、いつかは鬱病やボケ老人になってしまう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
仏教は、「空(くう)」を説く宗教です。
悟りとは「空」である、とかなんとか、何でも「空である」といっておけば落ち着く。
たぶん、そうなんだと思う。すべては「空」に始まって、「空」に終わる。
ただそれを、仏教とはこうなんだよ、といっておけばいいかといえば、そうじゃないと思う。仏教とは無縁のわれわれこそ、もっと「空」という問題に気づくべきなのだと思う。
「空」とは、赤ん坊がおぎゃあと泣くことであり、わけのわからない手に負えない女ほど好きになってしまうとか、ばかな子ほどかわいいとか、そういう問題なのだ。
人間が、立派であることがえらいのなら、いい大学に入れないような子供などかわいがるな。
じっさい、子供の成績が落ちてゆくにつれて子供に対する愛情が薄れてゆく親というのは、いるじゃないですか。それは、「空」という問題からすっかり離れてしまった観念のかたちになっているからだ。社会がそういう構造になっているのだもの、そういう親はどんどん現れてくる。
社会は、だめな人間を愛してくれない。だめな人間にいい思いをさせてくれない。
頭がよくて性格がよくて人付き合いが上手な人間が、そんなにえらいのか。
僕は頭が悪くて性格が悪くて人付き合いの悪い人間のほうが、人間として本質的だし、魅力的だと思う。そんな人間ばかりだとこの社会はうまくいかないが、そんな人間が現れてくることも避けられないのだ。なぜならそんな人間は、本質的で魅力的だからだ。
「悟りとは空である」「一切は空である」、というのなら、生まれたばかりの赤ん坊がいちばん悟っていることになる。修行とは、そこにたどり着くいとなみなのではないか。
じじつ誰もが、胸の底では、生まれたばかりの子供のような純粋な視線でこの世界を眺めてみたいという願いを持っている。
それは、「空(くう)」を体験することだ。