内田樹という迷惑・「神の立場」という擬制2

半覚斎さんへ
僕は今、自分の書くことがどのような方向にむかっているのか、よくわかりません。
通り抜けた先にあなたが立っているのか、それとも別の場所なのか。
だから、ひとまず「犀の角」になって書けるところまで書いてみようと思いました。
すぐ挫折するかもしれないけど。
僕がいま問題にしたいのは、「受・想・行・識」の「受」と「想」の部分だけです。「行」と「識」は、僕の手に負えない。
「空」のかたちも、「受」から「識」に移ってゆく過程でねじれてしまう。「色即是空」の空それ自体がねじれている。「空即是色」の空それ自体がねじれている。あなたがおっしゃるように、「ねじれてゆく」のでしょうね。
空と色は、セットになっているのではないか。「二つ同時に」というのではなく、それ自体で「ひとつ」なのだろうと思います。
貴重なご指摘、ありがとうござます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
釈迦のことを、仏陀ブッダ)、という。
この国では「仏(ほとけ)」という。
釈迦は、悟りを開いた人であって、「神」ではない。「ほとけ」も、「神」ではない。
神は、人間ではない。人間ではない存在のことを、神という。それは、この世界の根源のようなことだ。
神は、存在ではない。存在であって、存在ではない。色(しき)であって、色ではない。空(くう)であって、空ではない。
人間であることの限界、いたたまれなさ、そこから神のイメージが生まれてきた。
だから、神は人間ではない。人間は神ではない。
原初の人類は、まずそういう神をイメージした。
空の鳥を見て、飛べないことを嘆いた。だから、鳥には神が宿っている、と思った。
この世界の森羅万象のすべてに神が宿っている、と思った。
では、人間もまたこの世界の森羅万象のひとつだから人間にも神が宿っていると思ったかといえば、たぶんそうではない。人間と森羅万象の関係として、神がイメージされていったのだ。
人間にも神が宿っていると思えるのなら、嘆く必要はない。人間に嘆きがあるということは、神が宿っていないことの証しである。嘆きが神のイメージを生んだということは、人間は神ではないということである。人間ではないことに対する驚きとときめき、そこから神のイメージが生まれてきた。
したがって神は、人間ではない。絶対的に人間ではない対象として、神がイメージされていった。
「・・・・・・ではない」という違和感、これが、意識のはたらきの根源である。
ソシュールの論に従えば、カラスはトンビではない、という認識からカラスとトンビという言葉が生まれてきたということになるのだろうが、たぶんそうではない。カラスは人間ではない、という認識からカラスという言葉が生まれ、トンビは人間ではない、という認識からトンビという言葉が生まれてきた。つまり、カラスはカラス、トンビはトンビという、それぞれとの固有の関係が体験されて、そこから言葉が生まれてきたのだ。
人間ではない、ということの驚きときめき、そこからそれぞれの名称が生まれてきたのだ。
人類は、進化するにつれて、人間であることの嘆きを深くしていった。知能が発達すれば、そのぶん痛いとか苦しいとか暑いとか寒いという嘆き(ストレス)も深くなる。何より、死に対する怖れを抱えて生きていかねばならない存在になった。これはもう、人間であることの決定的な嘆きであろう。そういう嘆き(ストレス)から、文明が生まれ、神のイメージが生まれてきた。
「あなた」は「私ではない」という認識、「あなた」を抱きしめれば、そういうことを深く思い知らされる。そのとき「私」は、「あなた」の身体ばかりを感じて、自分の身体のことはすっかり忘れている。「意識」は「・・・・・・ではない」という違和感としてはたらいている。そういう畏れやときめきとして、自然と向き合い、神をイメージしていった。
われわれ現代人にだって、そういう意識のはたらきはある。いつの時代も人間は、「神は人間ではない」という原初の意識を抱えている。神が人間の延長なら、神との仲間意識があるだけで、そういう根源的な「畏れ」は生まれてこない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
根源的には、神は人間ではない。真夏の太陽の強い光とか、夜の闇の深さとか、嵐や雷や山火事や地震などの天変地異とか、まずそういう自然に対する畏れから神がイメージされていったのだろう。何か圧倒されて自分を見失ってしまう体験がある。それは、生まれてきて「おぎゃあ」と泣いた体験に似ているのかもしれない。
赤ん坊が「おぎゃあ」と泣くのは、体のまわりの何もない空間に対する違和感とおそれからだろう。
原始人が生きてあることの心もとなさを覚えるのは、たぶん空を見上げたときだ。地上にある自然は、とりあえず関わることができる。しかし空は、飛べない人間が関わってゆくことのできる世界ではない。しかも、昼になり夜になり、風が吹き雲が出て嵐になりと、地上の景色以上に千変万化する。そうして、雨が降って川になり、暖かくなれば花が咲き木の葉が茂り、冬になれば草も枯れ、木は裸になってしまう。地上の自然は、空に支配されている。
原始人は、空を見上げながら、生きてあることの心もとなさやいたたまれなさを思った。
空は、神のすみかである。そういう空との関係を想像すれば、原初の神が人間の延長であったという推測は成り立たない。
人間は、空と関わってゆけない。それでいて、つねに空から見られている。それはそのまま「聖なるもの=神」との関係でもある。
「聖なるもの」というより、「圧倒的なもの」といったほうがいいのだろうか。
二本の足で立ち上がって胸・腹・性器等の急所(弱み)をさらしている人間は、もともと生きてあることの心もとなさやいたたまれなさを深く感じないではいられない存在である。
そして立ち上がることは、空に気づいてゆく姿勢でもある。四足歩行の姿勢は、ほとんど空を見上げることがない。立ち上がらなければ、真上の空は、見ることができない。
原初、空との関係が、神との関係であった。
人間は神ではないし、神が人間をつくったとしても、神に似せてつくられているのでもない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
そういう根源的な神のイメージを心の底に抱きながら、人間は、人間の姿に似せて神をイメージしていった。それが、ギリシア神話の神であり、古事記の神であり、キリスト教の「神」や仏教の「ほとけ」のイメージでもある。
人間の歴史は、時代を経るにつれて人間は神に近づき、神もまた人間の姿に近づいてくる。
そのきっかけは、たぶん共同体の発生にある。そして、共同体の発展とともに、神との関係がなれなれしいものになっていった。
しかし、むやみに神の立場に立って物事を決定しようとする現代においても、誰もが心の底に原初の神のイメージを抱えている。なぜならわれわれは、今なお二本の足で立ち上がっている生き物だからだ。
われわれの人生においても、そうそういつまでも、神との馴れ合いの関係を続けられるものではない。死が近づけば、神がどんなに遠い存在かということをいやでも思い知らされる。そのとき人はもう、何も「決定」できない。地にひれ伏し、ひたすら神の声に耳を傾けるしかない。
それは、人間の手でこねくり回されてきた神のイメージではない。
原初の神は、われわれが人間として生まれてきて最初に気づく神でもある。母親の胎内を抜け出し、体のまわりに何もない空間が広がっていることに気づく体験、それが、最初の神との出会いだ。げんみつに言えば、それは、気づいているのではない。純粋な「違和感=畏れ」である。
われわれは、人間であるという自覚を持つ前に、すでに「聖なるもの=神」との出会いを体験している。人間であることを自覚する前に、人間であることの心もとなさやいたたまれなさを体験してしまっている。
生まれたばかりの人間の乳児は、歩くことはおろか、自分でおっぱいにつかまってゆくこともできない。それはきっと、いたたまれないことに違いない。
人生は、はじめに「苦」があり、終わりに際しても、さらに切迫した死という「苦」を体験しなければならない。
人間ほど不完全な生き物もない。少しの暑さ寒さや痛みや空腹にも耐えられない。そうやってあれこれ嘆き、不満を募らせして生きている。生き物が「進化」することは、不完全になってゆくことである。単細胞のアメーバこそ、完全な存在なのだ。
人間が神の立場に立って物事を決定しようとしたり、悟りを開こうとすることじたい、人間が不完全な存在であることを意味する。
アメーバは、すでに決定し、悟って生きている。だから、何も決定しようとしないし、悟りを開こうともしない。
神の立場に立とうと、悟りを開こうと、しょせんは人間でしかない。
神は、それらの「決定」を「無効である」と宣告する。
人間は、神ではない。人間は「苦」を背負って生きるしかない。楽になんかなれないし、ならなくてもいい。苦を背負っているから、そこからカタルシスを汲み上げることができる。それでいい。人間には、人間の領分がある。
「神は、神に似せて人間をつくった」なんて、神に対する冒とくだ。しかし、冒とくしてもかまわない。神は、それすらも許している。
神は人間を許しているがゆえに、人間は神に似せてつくられているのではない。
われわれは神に許されているのであって、神のように生きられる存在であるのではない。
神は、人間には似ていない。人間の理想でも、完全な人間でもない。
「人間ではない」ということ、それが、原初的根源的な神の姿だ。