内田樹という迷惑・「神の立場」という擬制

決定すること、それは、神の立場に立つことだ。わかればいいというものではない、わからないことの快楽というものもある。驚きときめくという体験は、わからないことの「違和感」の上に成り立っている。美人だとわかったからときめくのではない、ときめいたから、美人だと思うのだ。そのときめきは、ひとつの「違和感」である。
その違和感から、言葉が生まれてくる。感動すれば、「ああ」と声が洩れる。それが、言葉の起源だ。その違和感は、驚きであったり、ときめきであったり、嘆きであったり、さまざまなかたちをとる。そのかたちが、言葉になる。わかったから言葉になるのではない、言葉になったから、とりあえずわかったことになるのだ。われわれは、言葉によってわかるのであって、わかろうとする衝動を持っているからわかるのではない。
違和感が言葉を生む。そして言葉が、わからせてくれる。
人間が言葉を持っているということはは、わかろうとする衝動を先験的に持っていることではなく、わかってしまう社会的な「構造」を持っている、ということを意味する。
根源的な意識のはたらきは、わかろうとすることにあるのではない。それは、制度的な、たんなる欲望にすぎない。
意識は、世界に対する「違和感」として発生する。赤ん坊は、生まれてすぐに「おぎゃあ」と泣く。それは、新しい世界が「わかった」からではなく、「驚いた」からだ。
「わからない」から、驚くのだ。意識の発生の瞬間に、「わかる」などということがあるはずない。
「わからない」ことの驚きやときめきや嘆きやとまどい、そういう「違和感」が、意識のはたらきの根源的なかたちだろうと思う。「わかる」という意識は、そのあとにやってくる。それは、「違和感」を打ち消そうとするはたらきだろう。胸に秘めていた恋を誰かに打ち明けると、それまでのどきどきする気持ちが薄らいでしまうということはよくある。「わからない」という違和感は、大切にしたほうがいい。
現象学では、意識は根源的に「志向性」を持っている、という。つまり、わかろうとする衝動が先験的にはたらいている、といいたいらしい。
はじめにわかろうとする衝動があってわかるのなら、感動なんかなくなってしまう。
この社会は、「わかる」ということで動いている。「わかる」ことができなければ、この社会では生きてゆけない。だから、わかろうとする「欲望」が生まれてくるのだし、意識は先験的にわかろうとする衝動を持っている、というような思想も生まれてくる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
精神の病は、「わからない」ことの驚きやときめきや嘆きやとまどいに耐えられなくなったところから生まれてくる。この社会は、「わかる」ことをアイデンティティとして生きよ、と強迫してくる。多くの人々が、「わかった」という達成感を糧として生きている。しかし、そういう「達成感」で生きてきて、達成感が得られない状況になれば、もう生きられない。そうやって鬱病になり、認知症になる。
幸せになりたいと願って生きてくれば、幸せになったとたん、達成感を得るすべを失ってしまう。
定年退職して隠居暮らしになれば、もう達成感を得るための目標がなくなってしまう。そして年とって大病すれば、死という「わからない」ものに直面する。その「わからない」ということの嘆きやとまどいという「違和感」を打ち消そうとして、脳細胞が急速に死滅してゆく。年とってただでさえ死滅しやすくなっている脳細胞だから、かんたんにそうなってしまう。
脳細胞は、「自殺」するのです。本にそう書いてありました。その人の精神生活の邪魔になる脳細胞は、どんどん自殺してしまうのだとか。つまりそうやって「性格」とか「人格」というものがつくられてゆく。たとえば、「怖がる」というはたらきが活発な人もいれば、活発でない人もいる。活発でない人は、発達過程でそういう脳細胞の多くが自殺してしまったかららしい。しかしその代わり、別の部分が発達する。
認知症になれば、悩みは和らぐが、そのために「わかる」という機能まで失ってしまう。
であればこのことは、意識のはたらきはまず驚きときめく「違和感」として発生する、ということを物語っている。「わからない」ことの嘆きを体験できなければ、脳細胞は生きてゆけない。
「わからない」とは、「空(くう)」という体験である。認識不能である、という「空」。
目の前のコップに手を伸ばすとき、コップとのあいだの「空間」がしっかり把握されていなければ、その動きはぎこちなくなってしまう。認知症は、そういう空間認知力を喪失して運動能力がどんどん衰えてゆく病でもある。見えない空間を認知する能力は、「わからない」嘆きを生きる能力でもある。空間は、「見えない=わからない」のです。
「わかる」という労働の能力に長けていても、「わからない」嘆きを生きる「遊び」ができない人は、認知症になりやすい。
「わからない」という「空」を生きることは、現代社会が負っている課題でもある。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
フッサールやメルロ・ポンティなどの現象学者は、意識の本質として、さかんに「対象の定立」というようなことを言う。デカルトだって、「われあり」の証明で有名になった。人間とはこの世界や自分という存在が何であるかということをわかろうとし決定しようとする生き物である、という思い込みが西洋人にはある。
それは、神の立場に立つ、という態度だ。
それに対して仏教では、「空(くう)」という問題を立てる。それは、「わからない・決定できない」ということです。
われわれは、それが何であるかよくわからない、決定できない。そういう「わからない・決定できない」という意識のかたちが、じつは人間を生かしているのではないだろうか。意識のはたらきは、そのように動いているのではないだろうか。
自分がブスであることに思い悩む必要はない。あなたは、自分がどれほどブスであるかということも、それほどでもないということも、よくわかっていない。ほんとにわかっているなら、美人と一緒に歩くな。美人なんかいない世界に行け。そうでなければ、あなたは生きられない。でも、美人と一緒に歩いているではないか。美人のいる世界で生きているではないか。それは、あなたじしんが自分がどれほどブスであるかということよく把握していないからだし、それでいいのだ。人間の意識は、よく把握できないようにできている。
あなたは、鏡を見ないかぎり、自分がブスであるということがわからない。いや、そのとき比べているものが映っていないのだから、ブスであるという判断はしようがない。あなたは、ブスであるのではない。ブスだと思っているだけだ。それは、正しい認識ではなく、ただの制度的な認識にすぎない。正しい認識などというものはない。
人間は、判断できない生き物なのだ。判断できないというそのことが、われわれを生かしている。
現象学なんて、くだらない。「わかる」とか「知っている」ということを自慢するなんて、くだらない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
われわれはふだん、自分の体を「物体」として認識していない。触ってみて、初めてそれがわかる。
われわれは、この身体を、「空間」として認識し扱っている。
抱きしめあえば、「あなた」の身体ばかり感じて、自分の身体のことは忘れてしまう。もともと自分の身体を物体と認識していないから、「あなた」の身体の物性だけを感じてしまう。
自分の身体と「あなた」の身体の物性とを同時に感じることなんかできない。だから「一体感」などというものは生まれ得ないのだ。
そして「あなた」の身体にしても、「やわらかい」という感触だけで、その中に内臓があることがわかるわけではない。弾力がまったく同じのダッチワイフを抱いても、たぶん感触に違いはない。それがシリコンであろうと生身の肉であろうと、感触は同じなのだ。それで、はたして「物性」を認識しているといえるだろうか。
「あなた」を抱きしめれば、「あなた」ばかりを感じて、「私」は「空」になってしまう。「空」になってしまうことのカタルシスがある。なぜカタルシスになるかといえば、自分なんかどうしようもなくうっとうしい存在だという思いが根底にあるからだ。だから仏教では「一切皆苦」という。人間の根底には「苦」がある。だから「あなた」にときめくのだし、自分が消えてゆくことがカタルシスになる。
そして、抱きしめて感じる「あなた」の存在だって、物性のようでいて、じつはたんなる「感触」という「空間感覚」にすぎない。それは、「あなた」の肉や内臓の「定立」ではなく、たんなる「空間」の感触である。
一切は「空間」であるということ、それが「空(くう)」という概念である・・・・・・僕は勝手にそう解釈している。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
われわれがふだん眺めている景色は、たんなる「画像」であって、その「物性」が把握できているわけではない。そこに見える木やビルは、たんなる画像に過ぎない。それがただの「立体映像」ではないと証明できるものは、何もない。人間は、すでにそういう本物と寸分たがわぬ立体映像をつくりだすことができるようになっている。
見えているものは、すべて「画像」なのだ。「物体」ではない。目の前のさいころが石でできているのか、それともプラスチックであるのかということなどわからない。そしてその裏側に目の数が刻まれているということも、やっぱりわからない。刻まれていることを信じたければ信じればいいが、われわれの意識の根源的な主観性においては(胸の底では)、「わからない」という認識がある。だから人は、それに触りたくなるのだし、「あなた」を抱きしめたくなってしまう。
そして抱きしめてわかるのは、あなたの肉や内臓ではなく、あなたの体の「感触」だけだ。それは、空間の感触にすぎない。すなわち、色即是空、ということ。
葉っぱであることの「物性」は、見たり触ったりしただけではわからない。それは、たんなる「画像」であり、「感触」に過ぎない。
では、化学や物理学でわかるのか。わかるはずがない。根源的な主観性においては、見たり触ったりして認識されることがすべてだ。科学でわかるのは、ひとまずそれを「わかる」ということにしているからだ。それは、「物性=わかる」ということに対するたんなる「信仰(あるいは迷信)」であって、根源的な「知覚」ではない。
僕は、「物性」などというものはない、といっているのではないですよ。それを「わかる」ことはできない、といっているだけです。
「わかる」という前提を持っているから、「わかる」と思い込むことができるだけだ。
葉っぱが物体であるのかどうか、僕にはわからない。自分がこの世界に存在しているのかどうかなんて、わからない。この生の一切はゆめまぼろしである、ということも、やっぱりわからない。
けっきょく「わかる」ことなど何もないのだろう。どのレベルまで「わかる」ということを信じるか、という問題があるだけだ。そして、見たり触ったりする体験を信じないことは、僕にはできない。ひとまずそれだけは信じてしまうように僕の心はできているらしい、というだけのことです。
科学とか物性ということは、信じてしまうときもあれば、信じないときもある。しかし、見たり触ったりする体験は、いつだって信じてしまっている。だから、ひとまずそういう体験のことを考えたい。ここでいう「根源的な主観性」とは、そういう体験のことです。
そしてそれを、フッサール先生は、「超越論的主観性」といっておられる。しかし先生、あなたは、ただの観念性も根源的な主観性も、みそもくそも、ごっちゃにしてしまっている。それは、意識は「わかる」というはたらきである、と決めてかかっているからだ。それがキリスト教徒やユダヤ教徒のいやらしいところだ。
意識はまず、「なんだろう?」という「違和感」として発生する。その「なんだろう?という違和感」が意識の根源的なはたらきであるのなら、それは「わかる」というはたらきではないし、そのあとにやってくる「わかる」というはたらきにしても、根源的には見たり触ったりする体験の範囲でしか成立しない。
とりあえず見たり触ったりする体験だけを信じる、ということが、神の声を聞く、という体験だろうと僕は思っている。