内田樹という迷惑・彼女の場合

「空(くう)」について4、のタイトルを上のように変えました。なんとなく落ち着きが悪い気がして。
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彼女は、会社で、直接の上司である女の先輩がねちねちと小言を言ってくるのが耐えられない、という。その理不尽な小言に、少しでも反論すれば、ああいえばこういうで、さらにかさにかかって責め立ててくる。もう黙って聞いているしかない。
今まで仲良くしていたのに、どうしてそうなったのか、まるでわからない。ノイローゼになりそうだ、という。
近頃では、こんなようなことに悩んで会社を辞めてしまうことはよくあるらしい。
人が会社を辞める理由は、仕事のつらさよりも人間関係のほうがずっと多い。
どうして仲良くできないのだろう。仲良くさえできれば、少々仕事がつらくても耐えられる。仲良くできなければ、仕事なんか続けられない。
仲間と仲良くするのは、仕事をするもののたしなみだ。たとえ気に入らない相手でも、仕事をしているあいだだけは仲良くするしかない、となぜ思えないのだろう。
こんなところにも、現代の病理は潜んでいる。
仲良くできないのは、他人に対する気持ちが疎遠だからではない。仲良くできないくらい気持ちがくっついてしまうからだ。そうやって必要以上に他人に絡んでゆくなんて、なれなれしすぎる。少し相手との距離をおけば、仲良くするくらいのことはできる。もともと人間は、仲良くしようとする生き物なのだ。だいいちが相手が仲良くしてもらいたがっているのがわかるのなら、かんたんなことだろう。
家族でもないのに、どうしてそんななれなれしいことができるのだろう。
彼女だって、いやなことを言われたら、ついふくれっつらになってしまう。それで先輩はよけいにいらだつ。
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どうすればうまくやってゆけるのか。
そんなことは、僕にはわからない。
いじわるする人はすでにそういう習性を持ってしまっているし、いじわるしたいときはしてしまう。
うまくやっていけることなんか、当てにしないほうがいい。こちらだって不完全な人間なのだから、愛してもらえる資格なんかない。そしてうまく丸め込んでしまうことは、できる人はできるが、できない人はできない。
内田氏は「人間は労働をする生き物であり、労働を通じて人間になる」というが、そんなことを考えて仕事をしていたら、どうしても相手を責めたくなるときは出てきてしまう。仕事を通じて自分の優位性を証明したいから、いじわるをするのだろう。
彼女だって、先輩のいうことが間違っているとわかってしまうから、つい反抗したくなるし、小言を言われることに耐えられなくなる。たかが仕事くらいのことに、どうして正しいとか間違っているということにこだわってしまうのだろう。二人ともたかが仕事、と思っていない。どこかで、仕事をすることにアイデンティティを見つけようとしている。
たかが仕事をする態度くらいのことに、どうして正しいとか間違っているという判断をしようとするのか。
もしもほかに自分の全存在を賭けて問うものを持っていたら、そんなことの正しいかどうかということなどどうでもいいし、わかることもできないだろう。
正しいとか間違っているということがわかること自体が、変なのだ。そのていどのことに、自分のアイデンティティを賭けるなよ。
先輩は間違っているということがわかったら、人間とは何かとか、自分とは何かという問題が解けるのか。
ふだんの暮らしのあれやこれやとか世の中の細部のあれやこれやがわかったら、人間通になれるのか。そんなものにこだわって、そんなものがわかったくらいで満足しているから、人間理解が薄っぺらになってしまうのだ。
彼女も先輩も、そんなことの正しいとか間違っているということなどわからない人間になったら、仲良くできる。
何かにつけて、正しいとか間違っていると判断してしまうことが、現代の病理だ。仕事にアイデンティティを見つけようとするから、意地悪するし、意地悪されて悩まなければならないのだ。
仕事なんか、あなたのアイデンティティの証明にはならない。「労働を通じて人間になる」なんて、嘘っぱちだ。そんなことばかり言うやつがのさばっている世の中だから、人間関係でノイローゼになる人が出てくる。そんなことばかり言うやつらが、彼女らを追い詰めているのだ。
「労働を通じて人間になる」といえば、仕事の人間関係がよくなるかといえば、そんなことはない。よけいぎすぎすしてしまうだけだ。
職場で仲良く仕事をしている人たちを見てみればいい、みんな「金のためだ」と割り切って仕事をしている。仕事なんぞに自分のアイデンティティを賭けていないから、仲良くできるのだ。。
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わかる、ということの病理。
「私」と社会との関係においては、「私」は間違っている。「私」は何もわからない。もう、そう思うしかない。そこからはじめるしかない。いじわるされない方法なんかないし、こちらだって、他人の心を操作しようとなんか思わないほうがいい。
あの人は間違っている、というあなただって変だ。
神は、何も決定しない。
あの人は間違っている、と決定できるのは、あなたが神の立場に立っているからだ。
あなたは、神ではない。
神は、人間ではない。
あなたの決定が、あなたを追い詰めている。
蛇ににらまれた蛙が取るべき最善の方法は、逃げることではない。今ここで消えてしまうことだ。何もわからなければ、消えていることと同じだろう。わかる、というアイデンティティなど持たないのが、消えることだ。ああだこうだと判断する「自分」にしがみついているから、消えられない。自分を捨てることが、消えることだ。
彼女はもう、消えてしまうしかない。
他人がどうだというような判断しないこと、それは、思考停止することではない。「聖なるもの=神」に気づくことだ。気づけば、判断できなくなってしまう。判断できなくなるくらいに深く気づくことができるか。
神は、何も判断しない。判断するな、と宣告する。
判断するのは、自分が神になってしまうからだ。現代人は、自分が神になって生きている。神になっている人間ほど、あさましい存在もない。神を忘れた人間が、神になる。
神は、「自分」など持っていない。なぜなら、神だからだ。世界そのものだからだ。神は、ひとりだからだ。
「ひとり」の存在は、自分など持っていない。
「自分」という意識は、他人を判断することの上に成り立っている。他人を判断して、自分を確認する。内田氏は「人間とは自己意識である」というが、そうやって自分を確認してゆくためには、たえず他人を判断し続けていなければならない。
あなたは間違っている、と判断することは、自分は正しいと確認することである。
他人を判断してはいけないということは、自分を確認するのではなく自分を捨てよ、ということである。釈迦は、そういっている。「諸法無我」と。
空が青いと認識するのは、空が青いからであり、その認識に「自分」などない。「法」とは、そのようなものだ。「自然=神」の声を聞くことだ。他人を判断して自分を確認することとは違う。
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他人を判断することは、心が他人にくっついてゆくことだ。くっついていったら、仲良くなんかできない。
「私」と「あなた」のあいだには、判断することが不可能な空間が横たわっている。その「空(くう)」を大切にすれば、仲良くできる。仲良くするとは、そういう判断不能になってしまう「空間」を祝福してゆくことだ。
仕事における言葉は、用事を伝える道具として機能している。それに対してプライベートな場での会話は、たがいに自分の心を表現し合っている。その表現をたがいのあいだの「空間」に投げ入れあっている。伝えなければならない用事などないのが、恋人どうしや飲み屋での会話である。彼らは、伝えようとしているのではない。ひたすら表現しようとしているのだ。仕事における「コミュニケーション」と、遊びの場での「語り合う」ことの違い。前者は、「空間」を埋めようとし、後者は「空間」を祝福し合っている。
遊びの場では、「あなた」を判断なんかしない。表情や身振りを加えて「あなた」に対する気持ちを表現してゆく。そのとき言葉は、たがいのあいだの空間で生成している。
この「空間」がなければ、言葉は生まれない。くっついてキスしてしまえば、言葉が生成できる場所など、もうない。言葉は、この「空間」を祝福してゆくかたちで生まれてきた。「語り合う」とは、表現し合うことであって、伝え合うことではない。表現し合うものたちに、伝えるべき用事などない。
そこで言葉が生まれるということは、そこに「神」がいる、ということだ。言葉には、「神」が宿っている。それを、「言霊(ことだま)」という。
言葉の神は、「あなた」を裁かない。「私」に代わって「私」の心を表現する。そのとき「私」は、言葉の背後に消えてゆく。「あなた」は言葉を聞いているのだし、「私」は言葉の背後に隠れている。
黙っていたら、仲直りできない。「語り合う」ことができるか、それが問題だ。
コミュニケーションという「空間」を埋めてしまう関係などいらない。「空間」を止揚する表現の言葉が必要なのだ。
それは、「あなたを判断しない」という「決意」でもある。
共同体の発生・発展は、人間の心を、「空=空間」を埋めてしまおうとする衝動と、止揚してゆこうとする衝動とに引き裂いた。
現代社会において、ばかでぐうたらなニートや引きこもりは、たぶん「空」を生きようとする「決意」をしている。そして多くの大人たちは、「空」を埋め尽くし排除しようとする強迫観念に浸されている。
われわれは、いろんな意味で「空」を怖れている。たえず「判断」することに駆り立てられているのも、おそらくそうした兆候のひとつだろうと思える。
いじめとは、他者とのあいだに横たわる「空=空間」に怖れいらだち、いじめてもいいと他者を判断してゆく行為なのだ。
これから日本経済がさらに冷え込んでゆくのなら、「空」の問題はさらにリアルになってくるのだろう。もう誰かさんみたいに、自己意識をまさぐることに熱中している場合ではないのだ。