内田樹という迷惑・「空(くう)」について3

養老孟司先生は、現代人は「万物流転」という「無常」の意識を喪失している、という。つまり、「個性」という言葉にしがみつくと、昨日の自分と今日の自分は同じだと思ってしまう。人々は、自分は変わらなくて、世の中の情報の意味が変わっていっている、と思っている。それは、倒錯した意識である。情報の意味は変わらない。ただ、昨日の自分と今日の自分は違う、というだけのこと。そこのところが分かっていない。人間は、意識も体の細胞もどんどん変化していっているのだぞ、というわけです。
ほんとに、人間は「変わっていっている」のだろうか。僕は、過去の自分というのは、果たして存在したのだろうか、というような思いがある。もしも存在していないのなら、今の自分と比べようがない。「変わっていっている」と自覚できるのは、過去の自分がありありと感じられ、今の自分につながり、そして未来の自分になってゆく、というイメージできるからでしょう。そうやって、「時間」は過去から未来に向かって飴のようにつながり延びている、という前提が養老先生にはあるらしい。
しかしそういう「時間」が、僕はどうも信じられない。
「無常」とは、「万物流転」ということだろうか。僕は、そうは思わない。「流転」なんかできない。昨日の自分が「時間」の中に消えてしまう、という感覚って、あるじゃないですか。そんな簡単に昨日の自分と今日の自分を比べられるということが、僕にはよくわからない。今の自分だって、ほんとに「今ここ」の自分かどうかわからない。そういう生きてあることのいたたまれなさのようなものは、ないですか。
「無常」とは、「存在」として信じられるようなことなど何もないのだ、という認識のことではないのか、と思う。
だから仏教では、「色即是空」といい、「空」の問題にこだわるのではないだろうか。
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われわれは、ひとまず「ある=色(しき)」の認識を前提にして生きている。しかし、何かを「ある」と認識することは、そのほかのことを忘れてしまっている状態でもある。そこにコップがある、と認識すれば、そのまわりの世界はぼやけている。認識されていない。
「ない=空(くう)」とは、「ない」と認識することではなく、認識しないことそれ自体のことを言うのではないだろうか。
「ない」と認識すれば、「ない」が「ある」、という認識になってしまう。
「私」の前のコップとのあいだには、「空間」が存在する。何もない「空間」。しかし、何もない空間が存在する認識してしまえば、それは、何もない空間が「ある」という認識になってしまう。
「ない」という認識は、「認識しない」というかたちでしか成り立たないのではないだろうか。そして、何かを「認識する」ことは、それ以外のものを「認識しない」ことでもある。
「認識する」ことは、「認識しない」ことである。つまり、色即是空
また、目の前のコップを見ることと、コップであると認識することのあいだには、一瞬の時間差がある。そのコップは、一瞬前のものであって、「今ここ」のものではない。
するとわれわれは、「今ここ」においては、何も認識していないことになる。われわれが認識している対象はすべて過去のものであって、「今ここ」のものではない。意識は、「今ここ」を認識できない。「今ここ」は「空」である。
一億光年先の星の光は、一億年前のものであって、今その星は、すでに消えてしまっているかもしれない。
同様に、今、そのコップは存在していないのかもしれない。
世界は「ない」のではないが、「ある」と認識することもできない。やっぱり、色即是空だ。
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われわれは、「今ここ」から置き去りにされている。人間は、どこかしらにそういういたたまれなさを抱えて存在している。なんだか知らないが生きているのはいたたまれないことだ、という思いがある。
そのいたたまれなさが、「時間」を、過去から未来に向かって飴のように延びたものとして考えてしまう結果を引き起こしている。
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「川」が流れている。過去から未来に向かって流れている。
われわれは、川の流れを眺めながら、そういう「時間」を感じている。
そして、その流れを「川」だと認識することは、「水」であるという認識を失っていることでもある。「流れている」と時間を認識するとき、それが「水」であることを見失っている。
認識することは、認識しないことでもある。
抱きしめた「あなた」の体の柔らかさに驚くことは、自分の体に対する認識を失っていることでもある。オルガスムスとは、硬いペニスばかりを感じたあげくに、自分の体が消えてしまう感覚のことだ。
「ない=空」の状態に身を置くことのカタルシスがある。なぜなら、それが、もっとも確かな存在の仕方だからだ。
川の流れに諸行無常を感じるというのは、それを「ある」と認識している意識である。
それに対して、その諸行無常という時間の流れを忘れてただの「水」だと思ってしまうことは、「今ここ」に立ち尽くす感覚である。
どちらが、世界がクリアに見えている態度だろうか。
橋の上から、その川に鯉が泳いでいるのを見ているとき、われわれは「時間=流れ」のことを忘れている。そのとき人は、「時間=流れ」を忘れて「今ここ」に立ち尽くすカタルシスを体験している。
カタルシスとは、「今ここ」と出会う体験である。消えてゆくこと、すなわち認識することの不可能性の中に身を置くことこそ、カタルシスなのだ。
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諸行無常を認識したって、どうということもない。そんな観念ゲームが人間を救うのでもあるまい。
「無常」とは、万物流転の「時間」のことではなく、「時間」を忘れて「今ここ」に立ち尽くし、「今ここ」に消えてゆくことをいうのではないだろうか。少なくとも「空」というかたちは、そこにしかない。
万物は流転するのではない。「今ここ」において生起し、消えてゆく。
昨日の自分と今日の自分は違うのではない。昨日の自分はないのであり、「今ここ」の自分もまた、生起し、消えてゆくのだ。
「色=ある」という認識それ自体が「空=ない」の認識でもある事態を、「無常」という。
生きてあることのカタルシス(=根源的なかたち)は、万物は流転すると認識することではなく、女のオルガスムスのように、「今ここ」において生起し消えてゆくと認識する体験にある。われわれは、意識の奥のどこかしらで、この生をそんなふうに認識している。
われわれの意識は、瞬間瞬間、つねに認識し、認識不能に陥っている。それが、色即是空だ。
認識不能のいたたまれなさと、そこからカタルシスを汲み上げてゆくこと、それが人間を生かしている。
「空」の問題は、たぶん現代社会の問題でもある。(つづく)