内田樹という迷惑・「空(くう)」について2

フッサールは、さいころの見えない向こう側の目を類推してゆくのは、先験的(超越論的)な意識の主観性である、といっている。
そうだろうか。そんなものは、「経験知」という、ただの近代合理主義に染め上げられた観念のはたらきにすぎない、と思う。
僕は、あほだから、そんなものを類推しない。
あほだから、僕の主観は、たぶんフッサール先生より先験的(超越論的)なのです。フッサール先生はわかっていない。
この世界も、自分が生きているということも、正しく認識することは不可能なのだ。われわれは、正しく認識することの不可能性を生きている。
ショーウインドウのマネキンを人間だと見誤ることは、誰にだってあるに違いない。
歩いていてビルの窓ガラスに映る自分の姿を見て、なんと貧相な男なのだろう、と愕然とすることがある。それくらいわれわれは、自分の姿を正しく認識していない。
正しく認識していないから、ブスが美人と並んで歩くことができる。正しく認識していたら、恥ずかしくて悔しくて、とてもそんなことはできない。そしてその美人だって、正しく認識していたら、年を取ることなど恐ろしくてできなくなってしまう。
自分も含めて、世の中の大人どもは、よくそんな醜い姿をさらして生きていられるものだと思う。しかし、生きられるのだ。その醜さを正しく認識していないから。
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メルロ・ポンティは、世界の存在を正しく「定立(認識)」していける意識こそ「生きられる意識」である、といったが、正しく定立などしていたら、生きられないのですよ。こういう決めつけを安直にしてしまうのが、キリスト教徒のいやらしいところです。
そこで彼は、「幻影肢」という問題を提起している。戦争や交通事故で手や足を失った人が、そのあとでも失ったはずのその部分を痛みや痒みをともなってありありと感じてしまうという現象のことです。
で、それを、「全生命を上げてその存在の定立を志向している意識である」という。
これはちょっとややこしい問題なのだけれど、「痛みや痒み」は、「存在=物性」の知覚ではなく、たんなる空間感覚なのです。つまりその部分を、「空間」として認識している意識です。それは、「存在(=物性)」を定立している」意識ではない。痛みや痒みという、あくまで「空間感覚」なのです。
人間は、みずからの身体を「物体」としてではなく「空間」として認識している。フッサール流にいえば、これが、「超越論的主観」のはたらきです。
われわれは、みずからの身体を「物体」として認識することの不可能性を負っている。だから、ブスや大人がみずからの姿を正確に把握していない、ということが起きてくる。
それは、ただの「空間」という「輪郭」であり、だから、生きられる。
「空間」だから、その物性を喪失しても、ちゃんと意識に残っている。そうして、「痛みや痒み」という空間感覚としてよみがえってくる。
そりゃあ、その部分を取り戻したいという切なる願いはあるでしょう。しかしそれは、「物性」がよみがえるのではない。もともと残っている「空間」として認識されたその部分が、「痛みや痒み」として浮かび上がってくるだけです。たぶんその空間感覚は、死ぬまで消えない。「物性」ではないがゆえに、死ぬまで消えない。
「物性の定立」であるなら、たぶんよみがえってなどこない。
われわれは、みずからの身体を「空間=空(くう)」として認識している。そして、「存在=物性」を定立することができなくて、「空間=空」として認識する意識こそ「生きられる意識」にほかならない。
われわれは、生きていることを正しく認識することの不可能性を負っている。不可能性を負っているから、僕のようにげすな人間でも「生きられる」のだ。(つづく)