内田樹という迷惑・「空(くう)」について

「空(くう)」という言葉を聞くと、どきどきしてくる。
それは、仏教の世界だけのことではない。何か、人間存在の根源のかたちを言い当てられているような気がする。
実存意識を揺さぶられる、というのでしょうか。とにかく、どきどきしてしまう。まるで、この世のものとも思えない美女と出会っているみたいに。
人の命ははかないとか、万物は流転するとか、この世は夢まぼろしであるとか、そういうことではない。また、人間はいかに生きるべきかとか、そんなことでもない。そんなことを宗教や哲学にかこつけてあれこれいいたがる人は多いけど、あんたにいちいち指図されたくはない、という話です。
いかに生きるべきか、という問題など存在しない。おそらく、そんなことのために宗教が存在するのでもない。われわれは「すでに生きてある」のだ。確かなことというか、気になることは、それだけだ。そのことと和解するためには、そのことを知らねばならない。未来など、あるのかどうか、よくわからない。いかに生きるべきかということなどどうでもいいが、「すでに生きてある」ということだけは、どうしようもなく知ろうとしてしまう。
本当は誰もがそれを一番に知りたがっているのだけれど、それを差し置いて「いかに生きるべきか」という問題にすり替えてしまっている。そうして、「すでに生きてある」ということのかたちなど、すでにわかっているつもりになっている。
内田氏とか養老先生とか、その他もろもろの宗教者とか道徳家とか思想家とか社会学者とか、誰もが「すでに分かっている」つもりのことを言う。そして、「いかに生きるべきか」とか「この社会はいかにあるべきか」というような説教をたれてくる。
何言ってやがる。そんな問題などないのだ。
人殺しであろうと善良な庶民であろうと、誰もが、「こういうふうにしか生きられない」という生を生きている。そして、こういう社会になってしまったのだ。誰がどうしたからとかそういうことじゃない。そういう歴史の運命がここにあるのだ。その事実はもう、ひとまず肯定して受け入れるしかない。
「いかに生きるべきか」なんて、よけいなお世話なのだ。
そんなことはどうでもいいけど、この生の根源に「空(くう)」というかたちがある。そういう直感が、僕の胸でうずいている。
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内田氏は、目の前に存在するものの見えない向こう側をちゃんと類推できないのは愚かな思考態度だ、とばかにしてくれる。そんなことだから、自分の未来もよく見えないし、いかに生きるべきかということも分からないのだ、と。
見えりゃ、えらいのか。未来に「空(くう)」が横たわっているのを想像できないことが、そんなにえらいのか。
「危機を回避できる能力を持たねばならない」、とえらそうに吹聴しているが、そういうすれからっしの小ずるさのどこがえらいのか。
それは、「今ここ」の危機それじたいを生きることができないということなんだぞ。
冒険家は、今ここの危機を生きている。芸術家だって、精神の危機を生きながら作品を紡ぎ出している。そういうことを想像できないから、内田さん、あなたは文学オンチなのだ。
体を上手に動かすことは、身体の危機を生きることなのですよ。自転車に乗ったら倒れるから、自転車には乗らない。それは、けっこうな危機回避の態度だ。しかし、自転車に乗れるようになろうとトライしてゆくことは、倒れそうな危機を生きようとする態度なのですよ。そうやって自分(の身体)を捨ててしまうことができないから、あなたはいつまでたっても鈍くさい運動オンチなのだ。
二人の飢えた人間がいて、彼らの目の前に握り飯が一個ある。それを、お前が食べろと譲ることができるのは、その「飢えという危機」を生きようとしている人間だ。この社会のリーダーとはほんらいそういう人間であり、そういう他者を助けたいという願いは、誰の中にもある。人間とは、もともとそうやって「危機」を生きようとする存在なのだ。
それは、善とか悪とか、そういう道徳の問題ではない。直立二足歩行とは、そうやって「危機」を生きようとする姿勢なのだ。それは、胸、腹、性器等の急所(弱み)を相手にさらして立つ、きわめて危機的な姿勢なのです。そうやって危機を生きながら、たがいに相手を助けたいと願うことによって、原初の人類の群れにおける直立二足歩行が実現していったのだ。
ほんらい人間は、未来の危機を察知してそれを回避して生きようとする存在であるのではない。危機それじたいを生きようとして、二本の足で立ち上がったのだ。
見えないものは、「空(くう)=わからない」であるのだ。そういう想像力というか覚悟がないから他人を押しのけてでも生き延びようとするわけで、内田さん、あなたの言う「危機回避の能力」とは、そういうことなのですよ。それは、人間であることをやめて猿のレベルに戻ることだ。
未来の危機を察知して人を助けようとするのではない。「今ここ」の危機を生きようと覚悟して、手を差し伸べるのだ。
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僕は、べつにそうした犠牲的精神など持ち合わせていないが、内田氏ほど見えない向こう側を類推していける能力もない。
すぐ、人にだまされる。情けないくらい、だまされる。
夜中にひとり部屋の中にいると、窓の外に昼間見た街の景色がそのままあるのかどうか分からなくなるときがある。窓を開けたら、砂漠かもしれないし、アメリカかもしれないし、何もない宇宙空間が広がっているかもしれない。この部屋は今、天王星海王星のあいだをさまよっているのかもしれない……なんだかほんとにそうかもしれないと思えてくるときがある。
そんなふうに思ってしまうやつは、あほなんだってさ。
たしかに、あほかもしれない。いやきっと、僕はあほだ。
二十代のころ、彼女と一緒に部屋で抱き合っているとき、彼女が「幸せになりたいわ」といった。しかし僕は、そのとき、うまくその言葉に反応できなかった。一緒にいるだけでいいじゃないか、と思った。今この部屋の中に二人がいること、それ以上のことは何も考えられなかった。それ以外のことは何も信じられなかった。
いや、今にして思えばの話ですけどね。そのときはただ、「この女、何を言っているのだろう?」と不思議な心地がしただけです。そして黙っていると、「冷たいのね」といわれた。
冷たいのではなく、あほだっただけの話だ。
また、これはそう遠くない過去の話だが、ソープランドに行って、帰ろうとするとき、脱衣籠の前で僕は固まってしまった。
女が「どうしたの」と聞いた。
僕は「いや、何から着ていいのか分からないんだ」と答えた。
もしかしたら、まだ余韻が冷めなくて、帰りたくなかったのかもしれない。
「ばかねえ、パンツからに決まってるでしょう」と女は笑いながら、「はい、これ」と言って、それを渡してくれた。
生きていて、認識不能におちいることはないですか。
僕は、いくらでもある。
それはたぶん、「空(くう)」の問題だ。(つづく)