内田樹という迷惑・自性と自制

釈迦が生きていたころは、コンピューターなどなかった。だから、悠々とひとり孤独のの修行に邁進できた。
でもわれわれは、ネットのあちこちが気になって、腹の座った独歩行の道を進めない。
それでも進める人は進めるのだろうけど、僕のようなふらついた人間にはとうていできない。
夕べは徹夜して寝てないというのに、夜の八時になっても、まだ寝ないでこんなことをしている。
寝てない頭で考えたってろくなことが書けるはずもないのに、どうしても気になることがあって、これを書いてしまうまでは寝ることができない。
寝てもいいのだけれど、気になってしょうがない。
この一週間、オーバーペースで書いてきたから、明日からは少しペースダウンしようと思っています。
書きたいことは山ほどあるのだけれど、少しは自分をコントロールすることも覚えないと。
いい年して、われながら、節操がなさ過ぎる。
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仏教では、愛することは「自制する」ことなのだそうです。悟りにいたる修行も、この心構えが求められる。
愛とは自制である・・・・・・これはもう、仏教を研究する人たちの定理のようになっているみたいです。よくは知らないが。
「自制」とは、自分をコントロールすること。仏に近づいたとうぬぼれないこと、そして俗人の欲や執着は捨て去ること、そうやって自制することこそ、人を愛することになり、仏の道への修行にもなる。
しかし、自分をコントロールする「愛」って、いったい何なのでしょう。僕にはさっぱりわからない。
愛する心というのは、自分の意思や思考でつくり出せるものなのですか。
僕は、愛することなんかしょうもないことだと思っている。したがって、自分の意思や思考でつくり出すことはできない。
つくり出すことができないから、僕にそういう心の動きがないかといえば、まあ人の半分くらいは持っている。
そんなことなどどうでもいいと思っているけど、気がついたら人に見とれてしまっていたり、ひざまずいたりしていることは、ときどきある。
そういう僕の他人への気持ちなんか、凡夫の我執や我欲にすぎない、といわれれば、そうかもしれない。おそらくそのていどのものです。
したくてしてるわけじゃない。知らぬまにそうなってしまうことがときどきある、というだけのことです。
僕は、清らかな心の人間ではない。自分でもいやになるくらいスケベであさましい人間です。
だが、僕のようなゲス野郎でもたまにはそんな気持ちになるのだから、徳の高いあなたたちなら、一年中そんな気持ちで生きているのでしょう。なんにも「自制」する必要なんかないじゃないですか。
黙っていても、愛してしまうのでしょう?
逆にいえば、「自制」しなきゃ人を愛せないなんて、ずいぶん安っぽい愛でいらっしゃる。
僕は、愛する方法なんか知りたいとも思わない。知ったからといって、僕は意志薄弱だから、それらの何ひとつ実行できないだろう。
僕はあほだから、人間なんて愛してしまうようにできている、と思っている。そんなことのためにいちいち自分を按配していかなきゃならないなんて、信じられないし、信じたくもない。
僕は、人間というのはどうして人を愛してしまうのだろう、と問いたいだけだ。
人を愛さなきゃならない理由なんか、何にもないのだ。
人間という存在がいがみ合うようにできているのなら、いがみ合って自滅してしまえばいいだけのことだ。人間が滅んでほっとする生き物は、いくらでもいるだろう。地球だって、ほっとする。
しかし、たぶんそうかんたんには滅びないだろう。それは、文明や思考力を持っているからではない。
けっきょくのところ、仲良くして助け合って生きてゆこうとする生き物なのだろう、と思えるからだ。その習性によって地球上のあらゆる地域に拡散し、直立二足歩行以来の700万年を生き延びてきたのだ。
文明が発達し、この忌まわしい共同体(国家)が生まれてきたのも、つまりはその習性を持っているからだ。知能が高いとか思考力があるということなど、それらの歴史の「結果」であって、知能や思考力が歴史をつくってきたのではない。
すなわち、「自制」という知能や思考力で人を愛そうなんて、倒錯以外の何ものでもない。
愛そうとする必要なんか、何にもない。それでも人は愛してしまうのだ。僕はあほだから、わりとあっさりそう信じてしまっている。
「自制」してまで愛そうとたくらむのは、愛することに「価値」があると思っているからだろう。そういう価値のあることをすれば、自分の価値も上がる。けっきょく、自分の値打ちを上げたいだけじゃないか。
そうやって自分の値打ちを上げれば、心穏やかに生きていけるってか。
僕なんかくだらない人間だから、心穏やかに生きてゆく資格なんかないと思っている。あほはあほらしく、身もだえして生きてゆくしかない、とあきらめている。
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それからもうひとつ「自性」というキーワードがある。
この世のすべてのものに「自性(=自分)」は存在しない、なぜならすべてのものは存在しない「空(くう)」であるからだ、と仏教は教えてくれる。
僕は、この教えと出会ったとき、胸が震えた。
「ああそうか、なるほどそうだ」と思った。大げさに言えば、世界のなぞが解けたような気がした。というか、世界がなぞであることを、あらためて思い知らされたような気がした。
この世のすべてのものに「自性なし」ということ。
しかし、僕が尊敬する仏教研究者である「半覚斎」氏も「もいかい」氏も、それは「方便」であるという。つまり、仏教のたてまえというか説得のための仮説である、というようなことらしい。
二人とも、自分をどうするかということが、愛することであり悟り(真理)への道である、とおっしゃる。
僕なんか、胸を震わせてああそうだな、と思ったのに、ただの「方便」なのだそうです。
けっきょく「自分はない(自性なし)」ということは真理になりえない、「自分がある」という認識に真理性がある、とおっしゃる。
たとえば、「自分が消える」という体験なんかあるはずないじゃないか、スポーツでもセックスでも、みんな自分の身体を感じながらやっているじゃないか、という。
そりゃあ、スポーツの運動オンチや、セックスのときの男のように観念的な生き物は、自分の身体を残していますよ。だから僕は、身体が消える体験は、女のオルガスムスに学ぼうよ、といったわけで、べつに誰もがそういう体験ができるとはいっていない。
ただ女の深いオルガスムスは、自分の身体が消えてゆくひとつの悟りの体験だろうと僕は思っている。
スケベなやらせ女が「悟り」を体験しちゃいけないのか。
そしてスポーツのナイスプレーは、意識のはたらきにおいては、リアルタイムではなく「過去」として体験されるのです。ナイスプレーをしたあとに、「ああ、ナイスプレーをした」と感じるのです。じっさいにナイスプレーをしているそのときは、体が勝手に動いて、意識は「空間」に向かってはたらいているだけで、体のことは忘れている。運動神経とは、空間認知力のことです。そうして、あとになって、ナイスプレーをしたことに気づく。
だから、選手は、ガッツポーズをする。彼は、ガッツポーズをしているときにこそ、みずからのナイスプレーを実感しているのです。
身体のことも自分のことも忘れている瞬間というのは、運動オンチにはわからない。
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われわれの身体は、「消えてしまう直前」の状態で存在している。それがもっとも正確な身体に対する認識だろうと僕は思っている。
われわれの身体は、ほとんど「空間」として意識されている。その不安を抱えているから人は衣装をまとわずにいられないのであり、それが、直立二足歩行する身体の与件なのだ。その「消えてしまう直前」の身体を出し入れしながらわれわれは生きている。「空間」として「消えてしまっている」のではない、「消えてしまう直前」だから、消えてゆくカタルシスを体験できる。
身体をまるごと「存在=物性」として認識することは、ひとつの病理なのです。
そりゃあ、「自分」なんかなくならないですよ。しかしその「自分」が消えたり浮かび上がったりするバイブレーションがなかったら、生きられないですよ。そして、消えてゆくときにこそ、カタルシスがあるのです。
いやいや浮かび上がってしまうから、消えてゆくことがカタルシスになる。
あたりまえの健康な感性を持っていたら、自我が肥大化してきたらうっとうしくなるに決まっている。そしてその肥大化した自我を保つ装置として、共同体の制度性が機能している。
どうして「自分がある」ということにこだわらなきゃならないのか。
「半覚斎」氏も「もいかい」氏も、「消えてゆくカタルシス」なんかないとおっしゃるが、われわれあほな庶民は、そういうカタルシスを体験しているし、そういうタッチで生きているのですよ。
いや、誰だってそうだ。誰だってそういう「存在」と「非存在」の出し入れで生きているのだ。
あなたたちは、「すべてのものに自性なし」という教えを甘く見すぎている。あなたたちのほうが正しいのかもしれないが、僕から見たら、あなたたちはこの教えの深さとありがたさがわかっていない。あなたたちは、僕より千倍も仏教について語ることができるが、僕よりもあなたたちのほうがずっと仏教をこけにしている。
何が方便なものか。この世界は、ちゃんとそうなっているじゃないか。
「空(くう)」ということなんか、「論理」の問題という以前に、考えるまでもなくそうなっているじゃないか。われわれあほな庶民にとってそれは、「論理」じゃなく、実感なのですよ。
仏教に親しむ人が、「自分はある=自性」をアイデンティティにしようだなんて、正直言ってがっかりです。ブルータスよおまえもか、て感じです。
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僕は、悟りも安心立命も救済もいらない。誰も、僕のような愚かな人間を救うことなどできないし、ぼくに未来のそれを願う資格はない。
僕は、この世の最低の人間として、すべての人の「今ここ」を肯定し、すべての人にひざまずいてゆくものになりたい。
悟りなんかいらない。悟りからもっとも遠い人間でありたい。僕は、深く絶望する人間でありたい。
宗教が救済を目指すものであるのなら、そんなものはいらない。
宗教の契機として「神」に気づく体験があればいいのだし、それがなければ僕は生きられない。
「あなた」の背後で神が見守っていることに気づく人間でありたい。
「今ここ」の「あなた」や世界が輝いて見えればそれでいい。
僕は神の慈悲に許されたいと願っているが、救われたいわけではない。救われるべきは「あなた」であって、僕ではない。
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半覚斎さん、もいかいさん、生意気で失礼なことを書いて、ごめんなさい。あなたたちに嫌われたくて、こんなことを書いてしまいました。僕は、もう一度「ひとり」にならないといけない。
でも、これからもずっとあなたたちのページは追いかけてゆくつもりです。