内田樹という迷惑・無常と我執

仏教でいう「無常」は、べつに日本の専売特許ではない。この言葉は、釈迦のところから始まっている。
日本人が「無常」を語ると、平家物語鴨長明のようについ詠嘆調・美文調になってしまうが、釈迦が実感したそれは、もっと無味乾燥で身もふたもないものであったはずです。
死んでしまうことは、生まれてこなかったのと同じことだ・・・・・・そういう身もふたもないことを、われわれは事実として受け入れることができるか。
受け入れなければ、死んでゆく時間を生きることはできない。死をむやみに怖がらない人は、どこかでそれを受け入れている。むかしの庶民の年寄りは素朴に極楽浄土を信じていたから死が怖くなかったのだ、などとよく言われるが、そんな単純なことではない。そんなふうに他人を甘く見るもんじゃない。彼らがむやみに死を怖がらなかったのは、そうした素朴な信仰の奥に、そうした身もふたもない事実と素直に和解している心映えがあったからだ。
この世のもっとも貧しいものやもっとも弱いものは、そうした身もふたもない事実と和解している。
釈迦が「空」といえば、それをそのまま受け入れる心映えを持っている。
自分が生きてあることの意味や価値を問う妙な自意識にしがみついて受け入れられないものが、言葉遊びをしてそれを納得しようとする。納得なんかしていないのに、納得しているというかたちをひとまずつくろうとする。しかし、彼らより、昔の名もないじいさんばあさんのほうが、もっと確かにそうした身もふたもない事実すなわち「空=無常」と和解している。
つまり、仏教でいう「我執」ということですね。
現代人は、我執すなわち自意識が強い。だから、自分が生きていることになんの意味も価値もないし死んでしまえば生まれてこなかったのと同じことだ、という身もふたもない事実と和解できない。
しかし仏教の修行は、この事実から出発するのだ。
よりよい人生を生きるためでも、悟りを開いて成仏するためでもない。
言い換えれば、スケベったらしくそんなものを目指さないことが成仏することだ、と釈迦は言っているように思える。
それが、「無常」ということだ。
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僕の母親は、もちろん名もなく愚かなただのおばさんだったのだけれど、昔から僕は「こいつはちゃんとわかっているんだな」という負い目がいつもあった。それは、彼女が孤児の生まれ育ちであるからか、気の強い女であるからか、無信仰であったからか、昔の人はみんな心の底にそうした「和解」を持っているからなのか、なんだかよくわからないのだけれど、彼女は確かに、「無常観」や「空」の自覚において、僕よりもずっと格上だった。
僕が「もいかい」氏や「半格斎」氏に反発するのは、おまえらがどんなえらそうなことを言ってもそのような人間的宗教的な「格」においてはうちのおかあちゃんのほうがずっと上だったぜ、という思いがあるからです。
釈迦が釈迦教団の頂点にいたのは、どんな能力があったからというのではなく、この「格」において誰もがかなわないと思ってしまうものを持っていたからだろうと思います。
仏教の修行が「我執」を離れるということにあるのなら、その離れ方に誰もかなわないものを持っていたからでしょう。
だからみんなが、あの人にはかなわない、あの人に付いていこう、と思ったのでしょう。
「半格斎」氏や「もいかい」氏はたしかに高度なことを言っておられるが、彼らの「我執」の離れ方に「格」の高さはなんにも感じない。僕のおかあちゃんのほうがずっと上だった。
この生は救われたものであらねばならないとか、そんなスケベ根性で仏教を語るなよ。
「あなた」は、今ここのそのままで「イエス」なのだ。救われていようといまいと、「イエス」なのだ。
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この世は「無常」であり、誰も明日生きてあることを保証されているわけではない。であれば、そんな存在である他者に向かって、どうして「悟りをめざせ」ということができよう。
「悟りを目指せ」といえる資格のあるものなど、どこにもいない。われわれはもう「今ここ」が悟りであるかたちを模索してゆくしかない。
悟りを目指して修行するのではない。「今ここ」が悟りであるかたちとして修行があるのだ。
悟りを目指すなんてのうてんきなことは、修行者の態度ではない。
この世界の「無常」に気づいてしまったら、もう悟りを目指すことはできない。「契機」を生きることができるだけだ。そして、「契機」を生きることそれじたいが悟りである。この世が「無常」であるのなら、もう、そういうかたちでしか悟りは成り立たない。
仏教の修行は、「無常」という問題をどう克服し和解してゆくかとしてはじまっている。そしてそれはたぶん、人間の歴史のはじめから現在までずっと続いている問題であるのかもしれない。
「我執」の離れ方、すなわち自分の命に対する意識のスタンスの「格」の違いというのはたしかにある。そこにおいてキリストや釈迦を宗教の天才たらしめているのであり、ジュリアス・シーザーが英雄たりえたのも、あの「直江兼続」のドラマの主題だって、じつはそういうところにあるのかもしれない。
「我執=自意識」にけりをつけるという問題は、けっこう切迫した現在的なテーマであるのかもしれない。