内田樹という迷惑・身体の空

このブログが公共性をもったものだという実感などありません。
むなしく「空」に向かって言葉を吐いているだけです。
そりゃあ、読んでくれている人もいるのかもしれないが、それは、読んでくれるその人の体験であって、僕がその現場を体験できるわけではない。
読者を説得できるという自信なんかまるでないし、説得しようというつもりもない。
むなしく「空」に向かって言葉を吐いているだけです。しかし、それでいいとも思っている。僕にとっては、それが考えることであり、生きることになっている。
説得するために書いているのではないし、書いたものが説得できるほどの代物だとも思っていない。
僕はすぐ人になついてゆく性分だから、それは自戒しないといけない。
他人に干渉するということは、他人を支配しようとすることだ。
「ひとり」の立場で考えることができないといけない。
人間は、たがいに「ひとり」でいられるように、たがいのあいだに「空間」をつくろうとする生き物だ。
「あなた」を抱きしめることは、あなたの身体ばかりを感じて、自分の身体を忘れてしまうことだ。それは、自分の身体がただの「空間」になってしまう、ということでもある。
僕は、このブログを「あなた」に読んでもらいたいと願っている。しかしその「あなた」は、物体ではない。ただのイメージであり、「空間」にすぎない。
ネット社会に、「物性」としての「公共性」はない、良くも悪くも。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「私の身体」は、この世界にうがたれた「空間」として存在している。
われわれは、この世界を「空間」としてとらえている。抱きしめている「あなた」の身体の感触は、「空間」の感触なのだ。
根源的な意識は、目の前に見えるものを、「空間」として定立する。
「物性」なんかわからない。触ってみたって、それはただの「空間の感触」に過ぎない。
この世界の物性を認識するのはたんなる社会的合意であって、意識の根源においては、この世界は「空間=空」として体験されている。
われわれは、社会的合意に浸された観念において身体を「物体」として取り扱い、社会的合意から離れた意識において、身体の空性を体験している。
根源的な意識にとって目の前に見えるものは、ただの「画像=空間」である。それを「物体」と決め付けるのは、社会的な合意なのだ。触ってみても「感触」があるだけで、物体であるとは、ついにわからない。
われわれは、あたりまえのようにこの身体を「物体」として認識している。しかし、意識が社会から離れてしまっているものにとっては、その認識はそれほどかんたんなことではないのです。
共同体から離脱してあるもの、置き去りにされてあるものたちは、あなたたちほど安直にこの世界の物性を信じているわけではない。
「空」という問題は、ただの言葉遊びではない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
秋葉原事件の若者は、目の前の群集がどのように見えていたのだろうか。
それが、ただの「空間=画像」ではなく「物体」であることを確かめようとしたのだろうか。
物体であることを確かめることができたのだろうか。そのナイフは、思いのほか抵抗感もなくずぶりと深く突き刺さって、けっきょくついに確かめることができなかったのではないだろうか。
確かめることができたら、驚いてすぐに止めてしまっただろう。
むかし金属バットで父親を殴り殺した少年は、何度も何度もバットを振り下ろした。数年前、知り合いの少女を包丁で数十回突き刺しつづけた少年もいた。
彼らはたぶん、それでもついに「物性」と出会えなかった。
殺しのプロフェッショナルなら「殺した」という手ごたえを感じることができるのだろうが、彼らはついにそれを実感することができなかった。
根源的な意識にとって身体は、「空間」なのだ。
身体を物体として認識することはこの社会の合意であって、根源的な意識のはたらきではない。
そのとき社会的な合意から離れて「ひとり」になってしまっているものは、身体の物性を認識することができない。
「ひとり」にならなければ、根源的な意識まで遡行することはできない。「ひとり」になったときに見えてくる世界がある。だから釈迦は、「犀の角のようにひとり修行にはげめ」といったのだろう。「ひとり」にならないと、「空」は体験できない。
そしてだれもがその胸のどこかしらで、「ひとり」の存在として「空」を体験しながら生きている。
なぜなら人間は、たがいの身体のあいだに「空間」をつくりながら、たがいに「ひとり」の存在として向き合おうとする習性を持っているからだ。