内田樹という迷惑・小耳にはさんだ話から

1・・・・・・承前
どうしてみんな、「債権者」のように僕に命令してくるのだろう。
命令されやすいキャラなのでしょうかね。
もう、うんざりだ。
僕は、人間は他者に対する「債務者」として生きている、と思っている。だから、他者にときめきもすれば、うんざりもする。人は、他者に対して根源的な「債務=借り」を負っている。この無防備な二本の足で立ち上がる姿勢は、他者に対して「債務=借り」を負っている姿勢であり、そのことの上に人間社会が成り立っている。
僕は、あなたたちの命令どおりになんか考えない。たとえ稚拙であっても、自分の頭で考える。孤立無援になったってかまわない。孤立無援になって他者に対する「債務」を自覚すれば、きっとそこから新しい言葉も生まれてくるだろう。
僕は、孤立無援になる「無意味」を受け入れる。僕には他者を説得する能力はないし、説得することをアイデンティティにしようとする趣味もない。
このブログは、他人を教え諭すためのものでも、自分を確立するためのものでもないし、自分を救うためでもない。自分という存在が無意味であることの上に成り立った言葉を紡ぎたいと願っている。それは、幻滅するにせよときめくにせよ、「他者」について語ることだ。語ることは、世界や他者に気づくことであって、「自分」を知ることではない。自分を表現するのではなく、自分の、他者や世界に対する感慨を表現したい。
自分がこの世界や他者に気づいているということは、自分の「空」を生きることだ。
2・・・・・・小耳にはさんだ話から
アメリカのドルがどうとかで、現在のこういう状況のことを「世界危機」というのだろうか。
世界危機のことを、英語で「ソーシャル・クライシス」というのだそうです。
テレビは毎日、うれしそうに「危機だ、危機だ」と叫んでいる。
いくつもの大会社が新入社員の内定取り消しをしたり、立派な大人たちの目が血走ってきて、日本人が明日からもう生きてゆけないようなことを言い出す。
それを、若い女子社員が、げんなりして聞いている。
今までは自分がこの国の経済を背負っているようなことをいって威張っていたくせに、この期に及んでどうして被害者づらしてうろたえるのか。どうして、大丈夫、俺が何とかする、という顔ができないのか。
彼女らは、ちょっと景気が悪くなっただけじゃないの、と思っているだけだし、えらい大人たちは「世界危機」だとうろたえている。
大人たちは、景気が悪くなったことにうろたえているのではない。未来の予測がつかなくなったからだ。
「世界危機」とは、未来の予測がつかなくなることをいうらしい。
未来の予測で動いている経済の世界だが、ここ数年か十数年か、なんだか経済評論家の予測がさっぱりあたらなくなってきている。そういう状況の到達点として、現在の「世界危機」意識がある。
それは、「経済」が人間の手に負えないものになってきている、ということだろうか。
たぶん大会社は、「内定取り消し」なんかしなくてもなんとかなるのだろう。でも、怖くなって取り消してしまった。取り消さざるを得ないほど景気が悪くなったのではなく、それほどに大人たちが怖がってしまった、という現象なのだろう。
いい気になっているところに、冷たい水を浴びせ掛けられた。大衆=人間を、なめていた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
現在の世界経済は、財テクというか、ただのマネーゲームで動いているのだから、予測がつかないのがあたりまえだし、予測がつかないとどうにもならない。この自己矛盾。
財テクといえば、ユダヤ人がチャンピオンだ。世界の大銀行家といえば、ほとんどがユダヤ人だろう。
彼らは、世界中にユダヤ人どうしのネットワークを持っている。「グローバル経済」なんて、彼らのためにあるようなものだ。人類はようやくグローバル経済の段階に突入したといっているが、彼らは、二千年以上前からすでに世界中に散らばった「グローバル」で生きてきたのだもの、かなうはずがない。
僕は、すべてのユダヤ人が嫌いだというわけではないが、こと世界の経済に関しては、ユダヤ人にリードされながらユダヤ人によって呪われたものになってしまっている、という気がする。
今回のことの直接的な原因がどこにあるにせよ、つまりは経済がユダヤ人にリードされる構造になってしまっているからだろう。彼らは、自分たちのつくった経済システムに間違いはない、と思っている。ただ、大衆が愚かでこのシステムについてこれないからこんなことになってしまったのだ、という。
愚かで何が悪い。そのシステムを活用できるその賢さこそ、ずっとたちが悪いのだ。そういうかしこさが、この世界をゆがんだものにしてしまっているのだ。賢いユダヤ人ばかりがひとり勝ちするような社会なんか、変ではないか。人間の愚かさを大切にできないから、世界がゆがんでしまうのだ。
世界の経済人みんなが、ユダヤ人化してしまっている。だから、ユダヤ人狩りをすればいいというものではないが、ユダヤ人が経済を呪われたものにしてしまった。
なのにご当人たちは「神の子」ををきどって、いかにも何の罪もなくむしろ世界に奉仕しているような顔をしている。それはねえ、ちょっと気に食わない。
かといってユダヤ人がいなくなっても、代わりの人間がユダヤ人のように振舞うだけだから、いまさらどうしようもない。
人類の歴史は、ユダヤ人を生み出した。それはもう、人類の運命なのだ。ヒットラーのようなことを言うわけにはいかない。
しかし世界の経済は、ユダヤ的なものによって呪われている。彼らの、人間の心や行動をコントロールしようとする意欲や能力には、誰もかなわない。しかしそんな賢さが、人間にいちばん大切なものであるのか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
なぜ予測がつかないものになってしまったかといえば、財テクになってしまったからだろうし、財テクになってしまったから、予測がつかないことにおびえなければならない。
こんなことをやっているかぎり、いつまでたってもユダヤ人にしてやられねばならない。
そして彼らは、有り余った金でボランティアの財団を作ったりして、「神の子」を気取っていやがる。
僕は、ボランティアをする金持ちをえらいと思ったことなんか一度もない。独り占めするよりましだろうというが、よけいなことができるほど稼ぐな、という話でもある。
日本の金持ちはボランティア精神に欠けている、だから派遣制度や格差がなくならないのだ、というようなことを誰かが言っていたが、他人の倫理観を当てにしてもしょうがないし、要求する権利なんか誰にもない。
いい社会をつくらねばならないというが、われわれはべつにいい社会をつくるために生まれてきたわけでもないだろうし、それが人間性の基礎だとも思えない。
エッチするために生まれてきた、というほうが、ずっと説得力がある。
なぜ予測がつかなくなったかといえば、経済の動きに論理的な整合性がなくなってきた、ということでしょう。
今までは、論理的な整合性があって、難しい数式を駆使すればあるていど予測がついた。だから、NASAの研究者たちが次々にスカウトされていった。
しかしもう、そんな計算では予測できなくなってきている。
それは、経済がより高度(あるいはモダン)になってきたのではなく、むしろ原始時代化してきたからかもしれない。世界の動きが論理的な整合性を持つかぎり、どんなに高度になっても、ユダヤ人の手の内でしょう。
しかし、だからこそ彼らは、原始的なものにあんがい無力なところがある。
ヒットラーのナチは、非常識で話の通じない原始的な相手だった。だから、いつのまにかいいように蹂躙されてしまった。
生き残ったユダヤ人たちは、あのときなぜもっと抵抗しなかったのだろう、と不思議がっているそうです。
ユダヤ人は知的な人々だから、あんがい原始的なものに弱い。なにしろ話は通じないし、予測もつかない相手だから。「他者」とはそういうものだ、という意識がユダヤ人にはなさ過ぎる。他人の気持ちなんか、自分たちがコントロールできると思っていやがる。
コントロールできると思っているから、ナチのような話の通じない野蛮な原始人に蹂躙されてしまったのだ。
ポストモダン」は、新しいものではなく、原始的なものになるのかもしれない。
ユダヤの銀行家は何に弱いかを探せば、「ポストモダン」が見つかるかもしれない。われわれは、原始的な心性を、野蛮とは別のかたちで見つけ出してゆかなければならない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
もっとも原始的な「交換」のひとつに「沈黙交易」というかたちがある。
たとえば、二つの村の住民が、たがいの村の境界である峠などに、それぞれ勝手に物を置いておき、それぞれ勝手に相手の置いた物を持ち帰る、という交換の仕方のことです。
話もしないし、顔も合わせない交換です。
これは、交換とはいえないかもしれない。たがいに持っていっただけ、持ち帰っただけです。ごみ収集の日に、テレビを捨てにいって、電子レンジを拾ってきたのと同じです。
労働者が働いて、月末に給料を受け取る。働いているときは、交換なんかしていない。一方的に労働を提供しているだけです。そして経営者も、銀行に振り込んでおくだけ。相手に渡してなんかいない。村はずれの峠に置いておくのと一緒です。その給料は、社員の労働と交換されているのではない。心理的には、社員との境界に置いてきているだけです。
そんなふうだから、派遣社員を安くこき使ったり勝手に首を切ったりすることも平気なのでしょう。経営者のモラルが低下しているとか、そんなことを言っても、そういう経済構造になっている、ということもある。
「価格破壊」というが、われわれが量販店で物を買うとき、その品物と自分が払う代金と「等価」だなんて思っていない。品物はただでもらった気分で、お金はなんだか自動販売機にコインを入れるような気分で差し出している。それは、すでにもう「等価交換」といえるような行為ではない。村はずれの峠で、勝手にこちらのもの置いて、勝手に相手のものを持ち帰ってくるのと同じです。
世界規模のマネーゲームならなおさらのこと、勝手に置いてきて、勝手に持ち帰ってきているだけでしょう。「交換」なんか、誰もしていない。
「等価交換」という幻想。人間は「交換(コミュニケーション)」などしない。しないから「貨幣」が生まれたのだ。貨幣は、交換しないための道具である。品物を勝手に持ってくる権利の担保なのだ。
人間は、相手とのあいだに交換不能の緩衝地帯を持とうとする。「交換(コミュニケーション)」不能の緩衝地帯=境界を止揚する道具として、「貨幣」が生まれてきた。そこに、勝手に物を置き、勝手に持ち帰る。他者とのあいだに緩衝地帯=空間をつくることによって、たがいの安全が保証される。それが、直立二足歩行する人間性の基礎にほかならない。
人間は、相手の身体とのあいだの「空間」を保とう(確認しよう)として、そこに物を置こうとする衝動を持っている。トランプや将棋やメンコやお手玉だけでなく、サッカーや卓球やテニスだって、人間のするほとんどの「ゲーム」は、この衝動の上に成り立っている。
マネーゲームだって、本質的には同じでしょう。物を置こうとする衝動が冷えてくれば、景気も冷えてくる。
グローバル経済という。世界が狭くなって、人と人の関係も近くなった。他人の心理なんか、簡単にわかる。人々の消費活動をあおったりコントロールしたりすることなんかかんたんだ。ユダヤ人が、こういう思想を世界中の人間に植え付けた。というか、人々がそういう思想を持つようになってゆく歴史のトップランナーとして、ユダヤ人が活躍してきた。
原始人は、「等価交換」なんかしない。勝手にものを置いて、勝手に持って帰ってくるだけだ。相手の気持ちなんかわかろうとしない。相手の欲望をあおって「等価交換」に持ち込むというようなことはしない。しないことによって、たがいの信頼と安心を得ていた。そうやって、たがいのあいだの「空間」を止揚していった。
そういう原始的な心性が人々のあいだに芽生えてくれば、ユダヤ人の牙城もあやうくなる。
原始人の集団であるナチスの台頭は、ユダヤ人に世界をコントロールされることに対する拒絶の宣言だったのかもしれない。
それは、世界が狭くなり、人と人の関係が近くなりすぎたことに対する反省であるのかもしれない。人間が人間をコントロールして動いている世の中が、健全であるはずがない。そういう能力を持っている人間がのさばっている世の中が、健全であるはずがない。
もう、「等価交換」という合意(幻想)は成り立たない。消費者は定価など認めないし、売るほうもダンピングを前提の定価を設定する。
「貨幣」は、「等価交換」のための道具ではない。「等価交換」しないための道具なのだ。そこに等価交換の成り立たない「空間」が存在することの証しとして「貨幣」が機能しているのだ。それを等価交換の道具にしてしまったのは、ユダヤ人の陰謀だ・・・・・・と僕はひそかに思っている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今やもう、ユダヤ人をはじめとする財テクのプロフェッショナルたちといえども、世界の大衆の消費行動をコントロールできなくなってきている。
サブプライム・ローンというのは、ようするに、財テクのプロフェッショナルが庶民に金を貸して儲けさせてやり、その儲けを利子として巻き上げてゆく、というシステムのことでしょう。経営者が従業員に働かせるのも同じことだ。世の中はそうやって動いてきた。人間の豊かになりたいという衝動があるかぎり、そのシステムは安泰だった。
しかし、庶民のあいだに、豊かになりたいとか儲けようという衝動が希薄になってくれば、どうなるか。
それは、金を使いも稼ぎもしないニートや引きこもりの若者の影響かもしれないですよ。ほかの一般市民も、だんだん稼いだり使ったりすることがばかばかしくなってきた。
金なんかなくても、好きな女とエッチしていればそれだけでいい。パソコンをいじっていれば、一日なんかいつのまにか過ぎてしまう。大人たちが尊敬されなくなったから、若者が大人たちの生活感覚や価値観を目指さなくなった。尊敬されない大人たちも、そのせいでがんばる張り合いがなくなってきた。
大衆ががんばらなくなったら、プロフェッショナルのコントロールも及ばなくなる。水温が低くなれば、魚がえさに食いついてこなくなるようなものだ。
プロフェッショナルたちだって、いながら金儲けしている時代なのだから、大衆だって、動き回らなくなる。
バブルのころに比べたら、人間が動き回らなくなった。だから、車も売れなくなってきている。もう、車を持っていないと女にもてない、という時代でもない。動き回るのは面倒だ。その辺の居酒屋で気持ちよく酔っ払えれば、それでいい。そういう人間たちをコントロールしようとしても限界がある。
コントロールできなければ、予測がつかない。
不景気になるとは、一部のユダヤ人みたいな連中が人間をコントロールできる時代ではなくなる、ということかもしれない。
原始人の心や行動は、高度で複雑な数式を使っても予測できない。
そしてどんな高度な文明も、人間のすることであるかぎり、原始人の痕跡はある。
パソコンのキーボードにしがみついている原始人、それは「あなた」です。