内田樹という迷惑・関係性に対するセンス

仏道の修行とは、「悟り」を開いて「成仏(じょうぶつ)」を目指すことか。
成仏することを、「涅槃」とか「寂滅」といったりもする。それは、自分が「何ものかになる」ことではなく、たんなる境地(心の状態)のことでしょう。「寂滅」というのだから、むしろ「何ものにもならない」ということかもしれない。「何ものにもならない」のなら、何を目指すわけでもないことでしょう。
たぶん、修行の目的なんか何もないのだ。あえて言えば、修行それじたいが目的なのだ。(道元もそう言っているように思えます)。
修行することそれじたいがよろこびになり、快楽になればいい。言い換えれば、よろこびや快楽にならなければ修行なんかつづけられるものじゃない。この世は「無常」であるといい、明日も生きてあることを当てにするなというなら、何ものも目指しようがないじゃないですか。
だから、「今ここがすでに悟りであることに気づけ」という。
修行に目的なんかない。未来の目的のために今ここの味気なさに耐えるというのは、けっこうしんどいことです。大学合格のために受験勉強をするとか、給料のために働くとか、そんなしんどいことを余儀なくされてわれわれは生きている。この社会は、未来の目的のために生きてある現在を売り渡してしまうことをしなければ生きていけないようにできている。だから人はもう、そうすることが生きてあることの本道だと思ってしまう。そう思わなければ生きてゆけないし、思えばこの社会の勝者になれる。
そうして、生き物には生き延びようとする本能で生きている、というたんなる共同体のコンセプトに過ぎないことを、あたかも科学的な真理であるかのように信じてしまっている。
われわれ凡人だけじゃなく、おえらい学者先生や僧侶だって、あんがいかんたんにこの偽装された真理につまづいてしまっている。
世のため人のため、という目的をもつことが、そんなにえらいことか。そんな目的をもって行動したからといって、あなたが明日も生きてあるという保証なんか、どこにもないのですよ。心が共同体に取り込まれてしまっている分だけは、保証されていると信じることができるだけのこと。
そうして、ふと、自分のしていることはほんとうに世のため人のためになっているのだろうかという疑問が浮かんだりして、やがて挫折してしまう。役に立っていないのなら、する意味なんかなんかなくなってしまう。せっかくの楽しい仕事なのに、よけいな「目的」を持ったばかりに、それを耐えがたいほど味気ないものにしてしまっている。
どうがんばっても関取になれない弱い相撲取りは、相撲が好きだという理由ならつづけられるが、関取になろうという目的のためなら、相撲をとるたびになれないことを思い知らされなければならない。
生き物は、生き延びようとする目的で生きているのではない。生きてあることは、「結果」なのだ。仏道の修行にも、目的なんかない。よろこびがあればつづけられる、それだけのことだ。
仏教ではよく「自分よりも他人のことを優先しなさい(自未得度先度他)」という。「度」は、「わたる」と読む。自分は渡らないで、すべての衆生を先に渡してあげよ、という。では、どこへ「わたる」のか。たぶん、涅槃・寂滅の彼岸に、ということだろう。「自分はない」のだから、「自分の悟り」もない。悟りなどというものは、他者においてしか成り立たない。「自分はない」のだから、「自分の目的」もない。ようするに他人が仏恩にあずかることを優先して助けなさい、というようなことだろう。修行をしているからといって、仏恩を当てにするような考えを起こしちゃいけない、仏恩は修行者のためにあるのではない、修行者である自分以外のすべての衆生のためにあるのだ、という。
「自未得度」、すなわち出家以前の立場に立て、ということ。それは、悟りを開こうとする「目的」なんか持つな、ということだろう。
仏教では、出家することも悟ることも涅槃・寂滅に至ることも、別の世界に「渡る」ことだという。俗世間の価値観なんか全部捨てて渡っていかなければ、仏教には入ってゆけない。
得度というと、一般的には僧侶の免許を受けることのように言われているが、もともとの意味は、「認識の彼岸」に渡ってゆくことを言ったのだろう。
社会の制度は、人間を「目的」に縛りつける。俗人の目的と修行者の目的は違う、というのではない。社会の制度から離れた修行者に「目的」はない。違いは、そこにある。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
修行とは、とりあえずの「方便」を積み重ねながら一段一段ステージを上がってゆくことか。
そうじゃない。
いきなり「自分はない」ということを受け入れ、そこからはじめるのだ。
だから、悟りからはじまる、という言い方もできる。
学問だって、データを積み重ねてゆけば何かがわかるというものでもなかろう。はじめに直感による「仮説」を立て、それをデータによって検証してゆくのがほんらいのかたちであるはずだ。
データの解釈なんか、場合によっては、どのようにもできる。最初の直感や仮説のところでつまづいていれば、データによってかえって真実から離れてしまう。ネアンデルタールは滅んだ、という世の学説なんか、まさにこのパターンです。彼らは、5万年前のアフリカのホモ・サピエンスがいかに拡散しない人種であったかということに対する想像力も直感力も、まるで持ち合わせていない。ひたすら遺伝子学のデータに寄りかかって安易な結論に居座っている。
現在のアフリカには、ひとつの国に言葉の通じ合わない数百の部族が混在しているという例もある。それが、何を意味するのか。彼らは、この5万年を、たがいにすぐそばにいながらほとんど没交渉で暮らしてきた。それほどに拡散しない人々が、どうしてヨーロッパの北の果てまで拡散してゆくことができよう。データ以前に、まずそこのところでわれわれに語りかけてくるものをちゃんととらえきることができなければならない。
このナイフはおまえのものだからおまえが殺した、ともいえないでしょう。へぼ探偵め。
仏道の修行は、まず出家するところからはじまる。それは、俗世間とはまったく違う心がまえに入ってゆくことであって、俗世間の延長でやっていける世界ではないにちがいない。
まず自分を見極めてから、などという「方便」からはじめるのではない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「自分はない」のだから、自分に気づくとか自分がわかるというような境地はないのだ。
そして「自分はない」とは、「他者に気づく」という心の状態にほかならない。だから、他者を優先せよ、という。
意識は、他者と自分を同時に認識することはできない。
修行とは、他者に気づく体験を生きることである。「ひとり」になって修行せよといいながら、釈迦は、他者との関係に対するセンスを教えている。だから、「托鉢」という行為が修行のひとつになっていった。
西洋では、「他者の差異性」とよく言う。彼らは、他者と自分を見比べながら、自分は他者とは違うというかたちで自分を確立してゆこうとする。彼らは、自分の得度を優先する。
しかし仏教では、その違いは、自分の「ない(空)」と他者の「ある」というかたちで認識せよという。
仏教の修行においては、自分を確立するとか自分が救われるというテーマはないのだ。それが「自未得度」という言葉の意味だろう。
人は、自分を肯定するために、見比べる他者を否定する。これが、西洋流の自己確立だろう。
そしてわれわれは、自分のことを棚に上げたまま、他人にうんざりしたりする。で、僕などは、その態度は自分にはね返ってくるのだぞ、とよく叱られる。それはたしかにそうかも知れないが、こちらははね返ってくる自分があいまいだから、いまいちぴんとこない。つまり、あなたほどの自分に対する執着など持ち合わせていないからよくわかりません、といいたくなってしまう。
他人に気づきながら生きていれば、ときめきもするし、うんざりもする。それはもう、しょうがないことだろう。いつだってときめいていたいけど、そればかりではすまない。
「王様は裸だ」と、つい言いたくなってしまう。
債権者と債務者の立場の違いだろうか。
西洋人は、債権者の立場に立って自己を確立してゆく。彼らにとって議論をすることは、債務を取り立てる行為と同じだ。自分が間違っているという余地はない。正義は自分にある。債権者は、他者を強迫する。自分にこだわって生きている人は、どうしても他者を強迫したがる。そういう人たちが集まって社会をつくっていれば、そりゃあしんどいだろう。
それに対してわれわれ債務者の立場に立つものは、いろいろ教えていただいた(貸していただいた)と感謝もすれば、なんてひどい取立てをしてくるのだと、うんざりもする。うんざりはするが、自分がないから、「自分にはねかえってくるのだぞ」という強迫のカードも持たない。
債務者は「王様は裸だ」というし、債権者は、「私が王様=神だ」という立場に立つ。
これは、他者との関係に対するセンスの問題だ。
仏教においては、それは、「ある」と「ない」の問題として説かれている。どう違うのかではない、「ある」と「ない」という絶対的な違いを意識せよ、と釈迦は言っているのではないだろうか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
インド哲学では、その差異性を、よく「縄と蛇の違い」に例えられるらしい。
縄と蛇の絶対的な違いはどこにあるか。
縄は動かないただの無機物であるが、蛇は動く生き物である。両者の絶対的な違いは、そこにあるのか。
たぶん、そういうことではない。
西洋的な自分に対するこだわり(自我)はそうやってすぐ優劣で違いを判定しようとするが、そういうことじゃない、優劣や性格の違いは「絶対的な違い」ではない。
これは、他者との関係性に対するセンスの問題でもある。
柄谷行人氏は、「他者の絶対的な他者性は、説得不能のわけのわからない相手として自分の前に立ち現れることにある」などというが、そういうことじゃない、説得不能だろうとわけがわからなかろうと、そんなことは「絶対的な違い」ではない。まあ、柄谷氏だけじゃなく、西洋人はみんなそういうことを言っている。E・レヴィナスは、「他者は、神のように絶対的な畏敬の対象であると同時に、救いの手を差し伸べずにいられない迷える子羊でもある」というようなことを言っている。そんなおためごかしで気取って見せても、言ってることは柄谷氏と同じだ。それは、絶対的な違いではない。
どいつもこいつも、みな「債権者」の立場で他者を判定しようとしていやがる。仏教が「自未得度先度他」というとき、他者を神のように扱っていないし、自分よりもあわれな存在だとも思っていない。ただもう、自分はこの世に存在しないもの(=空)として振る舞え、といっているだけである。
自分が他者に気づいているとき、自分に対する意識は消えている。したがって、そのような自分との比較は成り立たない。そのとき自分は「ない(=空)」のだ。であれば、自分と他者との「絶対的な違い」は、自分の「ない」に対する他者の「ある」という関係として成立している。
「ない」と「ある」、「ゼロ」と「一」、それが他者の他者性であり、絶対的な違いなのだ。
それに比べたら、レヴィナスのいう他者の差異性など、目くそ鼻くそに過ぎない。
蛇と縄の違いは、生物と無生物の違いであると同時に、人間に恐怖を与えるか与えないかの違いでもある。レヴィナスが言っているのは、まあそんなようなことだ。「蛇の恐怖」なんか、どうでもいいではないか。橋の上から蛇が川を泳いでいるのを見ても、そう怖くもない。蛇が大好きな人だっている。縄を見て、蛇だと思って怖がるときもある。
橋の上から見下ろしたその蛇がじつは縄であったとしても、その人は「蛇」だと思ったのである。そのとき、その人の意識に縄は存在していない。
蛇を見て、蛇だと思いながら、同時に縄だと思うことはできない。縄を見て、縄だと思いながら、同時に蛇だと思うことはできない。
蛇を見て蛇だと認識することの絶対的な固有性がある。それがじつは縄であったとしても、そんなことは関係ない。その体験の絶対的な固有性がある。蛇だと思えば、縄は「空=ない」なのだ。
そのりんごを眺めながら、そこにもうひとつ同じりんごを重ね合わせて思い描くことは絶対できない。まあ、そんなようなことだ。
その人の他者との関係に対するセンスが、その人の「空」の思考にあらわれる。
他者との関係だって、「空」の問題なのだ。
「あなた」に気づいているとき、「私」は、自分のことを忘れている。「あなた」という認識に「自分」という認識を重ね合わせることはできない。
「あなた」と「私」の関係は、「ある」と「ない」の関係である。そういうタッチの世界観として「自未得度先度他」という教えが生まれてきたのだろうと思う。べつに道徳や悟りの問題だとは、僕は思わない。われわれ凡夫にだって、そういうタッチはある。それはきっと、誰の中にもある根源的な意識のはたらきにちがいない。
キリスト教が「普遍性」の宗教であるといえるのなら、釈迦からはじまった仏教は、「根源性」に遡行する宗教であるのかもしれない。
西洋人の「債権者」的なタッチが、社会生活をいとなむ上での普遍的な他者との関係性だとすれば、仏教のタッチは「債務者」的であり、それはひとまず共同体を離れた根源的な他者との関係性であろう。
「普遍性」を得て他者との関係の勝者になるか、「根源性」に遡行して他者にひざまずいてゆくか、つまりはそういう問題だと思う。