内田樹という迷惑・しょうがないと思ったら、なぜいけない

僕は、生きてあることなんかくだらない、生きていてもしょうがない、と思っている。
しかし、だからといってそのことに思い悩んでいるわけではない。それでかまわない、と思っている。それでも生きてあることには甘美な味わいがあるわけで、「あなた」や世界にときめいてしまう体験はしている。
生きてあることの味わいは、自分が生きてあることの意味や価値の充実を実感することだとは思っていない。そんなふうにして生きてあることを納得しようなんて、グロテスクなことだ。そんなふうにして人生の充実を実感したいのなら、他人をさげすめばいいだけのことだ。というか、人生の充実を実感しているということそれじたいが、他人をさげすんでいる態度なのだ。そう思いたければ思えばいいが、そんなことを僕がうらやましがらねばならない言われもなかろう。
僕自身もふくめて、この世の中の醜い行為のほとんどは、自分の人生の充実や安心を欲しがるところから起きてくるのだ。
自分の人生の充実や安心を自慢しているのをはたで聞いていると、僕はもううんざりしてしまう。
自分の人生に充実や安心がないと生きていけないなんて、お気の毒なことだ。僕が生きていてもしょうがないと思っているからといって、生きていることに悲観しているとなんか思わないでいただきたい。あなたたちなら悲観するかもしれないが、僕はそれでいいと思っている。
生きていることなんか「あなた」や世界が輝いて見えればいいだけのことだし、自分の人生の充実や安心にこだわるから、世界がくすんで見えるのだろう。
僕自身、二十代のはじめのころにある女性と同棲し、やがて、この女と一生一緒に暮らしてゆくことなんか牢獄に閉じ込められるのと同じだと思うようになっていった。けっこういい女だったし、今にして思えば、そのまま結婚すればいいだけのことだったのだけれど、あのころ僕は、グロテスクなくらい自分にこだわっていた。
自分が生きてあることなんかほんとにどうでもいいことで、それでも自分を生かしている命のはたらきはあるのだ。みんなそうやって生きているというのに、あのころの僕は、ものすごく自意識過剰になっていた。
いろいろあってそのあと、捨てたはずのその女を恋しいと思うようになっていったのは、ひとまず肥大化した自意識が抜け落ちたからだろう。そのとしの冬、僕は、女からもらった辛子色のセーターをずっと着ていた。そうして生きることもほかの女の子と付き合うことも、どんどん怖くなっていった。もともとひといちばい楽天的で女の子にもすぐあつかましくなついてゆくタイプだったのに、なんだかしらないけど、その罪の意識を手放すまいとしていた。自分は、人生の充実や安心を欲しがってはいけないと思った。欲しいという気持ちが湧いてこなかった。
自分の人生の充実や安心を欲しがることは、人間の本性でもなんでもない。たんなる、社会の構造によって培養された意識傾向にすぎない。そういう意識が、われわれの「生きていてもしょうがない」という感慨を救われないペシミズムのように決め付けてくる。大きなお世話だ。あなたたちのその人生の充実や安心をアイデンティティとしようとするスケベ根性こそ、救われない強迫観念なのだ。何が悲しくて、そのスケベ根性を尊敬しなければならないのか。
われわれの思想は、この「生きていてもしょうがない」という感慨のところで踏ん張ることができなければならない。それが、釈迦の教えだと僕は思っている。
僕は、宗教をけなしてなんかいない。けなさなければならないようなルサンチマンを宗教に対して持っていない。自分の人生の充実や安心を宗教に求めたことなんかないし、そんなのものを欲しがってもしょうがないよ、と釈迦は言っているのだと思う。
釈迦がなぜ「空」だとか「無常」だといったのか、そのことをいま少し考えてみたいだけだ。