内田樹という迷惑・生きていてもしょうがない

「自分なんか生きていてもしょうがない」とか「自分は生きていてもいいのだろうか」という思いは、きっと誰の中にもある。
この社会の制度は、誰の中にもあるそういう気持ちに付け込んで成り立っている。この社会の制度に従った生き方をしていれば、生きていてもいい人間になれる。自分は正しく清らかな人間であると思うことができる。そう思うということは、胸の奥に「自分は生きていてもいいのだろうか」という思いがあるからだ。そうやって人は、その不安を振り払って社会生活をいとなんでいる。
生きていてもいい人間であると自覚すること、すなわち許された存在であると自覚すること、それじたいが不安を振り払おうとする強迫観念にすぎない。そう思って生きているからこそ、ちょっとした挫折で、必要以上に混乱しなければならなくなる。また、生きていてはいけない人間を見つけ出して、自分はそういう人間ではないと確認し安心しようとする。
もし僕が、このブログの記事によって誰かを説得していると思えるなら、それによって自分は生きていてもいい人間であるという自覚を持つことができる。ひとまず、誰も説得できないといじけて書いているのだが。
他者を説得するとは、神に許された存在になることだ。だから、みずからを「神の子」であると自覚しているユダヤ人は、説得してしまうことがとてもうまい。他者を説得することは、「神の子」であることの資格であり、特権なのだ。
社会的地位を持つことは、それ自体で他者を説得し、みずからの生の正当性の証明になっている。
人は、他者を説得する存在であろうとする。しかしそれは、社会の制度性によって培養された欲望であって、人間の本性であるのではない。この社会に自分のポジションがあるとか、社会の役に立っているとか、しっかり家族を養っているとか、そういう事実は、他者に対しても自分自身に対しても、みずからの生の正当性を説得している。
人は、みずからの生の正当性を持とうとする。
しかし、「無力」な人は、けっしてそれを持つことができない。持つことができないという現実を受け入れるしかない存在である。親は、家族を養っているという正当性を自覚して生きてゆけるが、子供は、養われているという負い目を抱えて生きていかなければならない。そんなの、不公平だ。
無力なくせに、自分がしょうもない存在だという事実を受け入れることのできない人もいる。それが、一部の老人である。
人間なんか、社会や家族の役に立っていようといまいと、じつは誰もが生きていてもしょうがない存在である。死んでしまったら、生まれてこなかったのと同じことだ。この社会に痕跡が残るといっても、死んでしまった自分がそれを確かめられるわけでもない。いつか地球がなくなってしまえば、もはや痕跡はどこにもない。
誰であろうと、生きていてもしょうがない存在なのだ。その事実を受け入れている人と、それを振り払って生きている人がいるというだけのことだ。振り払って生きようとそんなの嘘っぱちであるであるし、いつかはそれを思い知らされる。
自分が生きていてもしょうがない存在だと受け入れることができるかどうか。「空(くう)」であるとは、その事実を受け入れることだ。しょうがない存在でも、生きていれば、そのことの甘美な味わいがある。息をしているだけでなんだかうれしくなってしまう人もいる。生きていてもしょうがないと思うほかない悲しみ(=ストレス)からカタルシスを汲み上げることのできる人がいる。
「シジフォスの神話」を書いたカミユは、こういっている。実存主義をはじめとするどんな反理性主義的な哲学も、最後の最後で「わかる」とか「正当性」ということにつまずいてしまう、と。つまり、けっきょくは「人間は生きていてもしょうがない存在である」という事実を受け入れられなくなって、理性で生きてあることの価値を付与してしまっている、と。
「生きていてもしょうがない=空」という事実を味わい尽くすことができればいいだけなのに、とカミユはいう。
ギリシア神話のシジフォスは、大きな岩を山の頂上まで転がしていってはそれがまたふもとまで転がり落ちてゆき、また頂上まで転がしてゆく、ということを永遠に繰り返す刑罰を科せられた。生きてあることもそんなようなどうでもいい繰り返しに過ぎないが、その繰り返しこそが生きてあることの醍醐味であり、それを味わい尽くせばいいだけだ、というわけです。
生まれてきたことはひとつの刑罰であり、その刑罰を生きることの醍醐味がある。それが、「空」ということであり、「息をしているだけでなんだかうれしい」という体験なのではないだろうか。
生きてあることの確証なんかどこにもない。しかしその「どこにもない」という事実を受け入れたとき、「息をしているだけでなんだかうれしい」というカタルシスが体験される。
「空」を形而上学的に認識しようと、感覚的に体験しようと、ひとまずどちらでもいいのだけれど、問題は「生きていてもしょうがない」という事実を受け入れることができるかどうかだ。そのことを否定して何ものかになろうというのなら、それはもう仏教でもなんでもない。
救済も解放もないことが、救済であり解放なのだ。
僕は、仏教を賛美しているのでも仏教にひざまずいているのでもない。「生きていてもしょうがない=空」という事実を受け入れようとしているだけだ。この世に仏教が存在しようとするまいと、この生を「空」として受け入れてゆくしかない現実は確かにある、と思っているだけだ。
べつに仏教だろうと仏だろうと、それによって自分が救済されるというご利益があるとなんか思っていない。
釈迦はちゃんと、「私が救ってやることはできないよ」といっているし、そのとおりなのだろうと思う。
知識人はすぐに「民衆は、ご利益を当てにして宗教にとびつく」という論理で語ろうとするが、民衆の本心はそんなところにあるのではない。「生きていてもしょうがない」ということを深く思い知らされている存在であるがゆえに、それと和解してゆくために宗教に帰依するのだ。そこからカタルシス汲み上げてゆく行為として、念仏を唱えるのだし、だから、一遍のような「踊念仏」も生まれてきたのだろう。それは、ご利益を求めるムーブメントではない。カタルシスの体験なのだ。
民衆は、いつだってご利益よりもカタルシスの体験を必要としている。
ご利益がだいいちなのは、支配者や知識人のほうなのだ。
われわれが初詣に行くのは初詣の高揚感があるからであって、そのついでにちょいとご利益を願ってお賽銭を放り込んでくるだけのこと。