内田樹という迷惑・いのちの甘美さ

僕は、ついこの前まで仏教のことなんか興味がなかった。しかし、だから今のこの記事が気まぐれな軽口かといえば、そうではない。自分なりに賭けるものは賭けている。
仏教のことに熱心で造詣が深いからといって、わからない人はいつまでたってもわからない。
釈迦だって、凡夫の「無明」それじたいがひとつの悟りでもある、といっている。このページが宗教的考察からほど遠いものであるか否かは、僕が気まぐれで無知な凡夫であることとは関係ない。
僕は、気まぐれで無知な凡夫であるところに踏ん張って、ひとまず宗教的考察をしてみたいのだ。
エキスパートだからわかっているとはかぎらない。
ひとりでもいい、僕と同じように、自分なんか生きていてもしょうがないと身もだえしながら生きている気まぐれで無知な凡夫の人に読んでもらいたいと願っている。われわれには宗教的考察はかなわない、などとは思いたくない。その人とささやかに連帯してゆくために、われわれが無知で気まぐれな凡夫であることそれ自体のレベルで宗教的考察は可能なのだ、ということにトライしてみたい。
このページが宗教的考察からほど遠いものだと思うのなら、見なければいいのだ。
ただの無知で気まぐれな凡夫の宗教的考察です。それは確かにそうなのだ。
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この記事のいちばんのテーマは、「空(くう)」という問題です。そしてじつは、この問題はずっとむかしから僕の中にあり、根源的な意識にとっての身体は「空=空間」であるということは、直立二足歩行の問題としてずっと考えてきたことです。ヴァレリーの「第四の身体」すなわち「非存在としての身体」という概念は、十年以上前からいつも頭の隅に引っかかっていた。G・ドゥルーズの「器官なき身体」ということでも考えた。
僕にとって「空」という問題は、ただの言葉遊びではないし、こうして仏教のことを書く以前から、ずっと考えてきたことです。たぶん、誰だって、意識の根源で「空」を体験しながら生きている。僕が「空」といったからといって、それはただの気まぐれではない。
僕は僕なりに、切実な問題として考えてきた。身体の「空」は、無知な凡夫だって気づいている。いや、たぶん無知な凡夫のほうが切実に気づいている。
身体を支配することばかりに忙しくて「身体が消えてゆく」という問題意識のない人間の語る「空」など、僕は信用しない。
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仏教の修行が、この生の何たるかというような形而上学的な問題を納得してゆくことだとは思わない。釈迦は、そういう問題には何も答えなかった。そして、死の直前にこういった。
「この世界は美しいものだし、人間の命は甘美なものだ」と。
死んでゆく人は、死という知らない世界に旅立ってゆくのではない。この生に溶けて消えてゆくのだ。仏道の修行とは、この生に溶けて消えてゆくタッチをトレーニングすることである。それこそが、生きてあることの醍醐味であり、死んでゆくことのまっとうなかたちであるらしい。
人間は、死ぬ。人間から、苦を取り除くことはできない。苦の中から命のはたらきの甘美な味わいを汲み上げてゆくことができるだけだ。
生きることなんかたぶんそれだけでいいのだし、それは、死んでゆく人がいちばん深く体験している。
死んでゆく人、すなわちもっとも「無力」な人が、もっとも深く命のはたらきの甘美な味わいを知っている。
それは、この世界に対する名残を惜しんでいる言葉ではない。「これでもういい」という感慨なのだ。「朝(あした)に道を問わば夕べに死すとも可なり」・・・・・・「道を問う(悟る)」とは、そういうことなのだ、と思う。死んでゆくことは、この世界の美しさや命の甘美さに溶けてゆくことだ・・・・・・この世の中には、そういうかたちで死んでゆくことのできる人がいる。そういうかたちで生きて、そういうかたちで死んでゆく。それは、この世でもっとも無力な人の生き方であり、死んでゆき方である。
逆にいえば、この世界がくすんだものにしか見えないから、人より上に立とうとしたり、人をやっつける力を欲しがる。そういう自分を確認してゆくことで、この生を納得しようとする。
自分にこだわる人は、自分を確認するための道具として他者を欲しがる。そんなものは、愛でもなんでもない。
そして、自分が消えてゆくことを知っている無力な人の前には、すでに他者がいる。その人は、すでに他者を祝福しているし、すでに他者から祝福されている。だから、「ひとりぼっち」になることを怖れる必要はない。人は、その気配を祝福し、その気配がすでに人を祝福している。
なぜ嫌われるかというと、人に干渉してゆくからだ。人を、自分を確認するための道具にしようとしているからだ。
「ひとりぼっち」になりたくなかったら、「ひとりぼっち」になることだ。われわれは、そういう人に向かって微笑みかける。世の中には、人に微笑みかけられる気配を、たくまずしてすでに持っている人がいる。生まれたばかりの子供のようなというか、途方に暮れた子供のようなというか、そんな気配を持っている人がいる。めったにいないけど、たまに電車の中でそんな表情を持った若者を見ると、ほっとする。
いずれにせよ人は、「ひとりぼっち」の気配を持った人に微笑みかける。なぜなら、そういう人からすでに祝福されていることに気づくからだ。
祝福されているとは、許されている、ということでもある。われわれが他者を祝福するのは、根源的に罪の意識を抱えて存在しているからであり、人は許しを乞う存在なのだ。
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無力な人は、無力であるがゆえに、納得する自分を持っていない。持つことができない。その人にとって、自分も身体も「空」である。その人をここまで生かしてきたのは、この世界の美しさと命の甘美さだけである。そして、それに溶けてその人は死んでゆく。
意識は、死を体験することはできない。死んだら、意識ははたらいていないのだから。
この生に溶けてゆくことができるだけだ。そして無力な人は、この生に溶けて生きている。
たぶん、生きているだけで十分だと思える人が、もっとも上手に死んでゆくことができる。死んだら意識もなくなってしまうのだから、われわれは、死んでゆくことなんかできない。生きてあることに溶けてゆくことができるだけだ。
死のことなんか、何もわからなくていい。生きてある「今ここ」を味わい尽くすことができればいいだけだ。意識は、それ以上知る(体験する)ことはできない。
この世界の美しさや命の甘美さを知らないものが、死のことを考えたがる。自分のことを考えたがる。自分をあの世まで持っていきたがる。
自意識は、命のはたらきの甘美な味わいを知らない。それは、自意識が消えてゆくことと引き換えに体験される。「消えてゆく」から、「甘美」なのだ。
無力な人は、「自分が消えてゆく」という体験を知っている。それは、この世界の美しさや命の甘美さを体験することでもある。意識は、そういう体験しかできないようになっている。だからきっと、死のことなんかわからなくてもいいのだ。
命のはたらきは、「甘美」なものであるらしい。それは「溶けてゆく=消えてゆく」感触であろう。はっきり現れてくる体験は、「甘美」とは言わない。
みずからの身体をこの世界の「異物」として自覚しているものは、「溶けてゆく=消えてゆく」ことの「甘美」な心地を、カタルシス(浄化作用)として体験している。
もっとも無力な人が、もっとも深く命のはたらきの甘美な味わいを知っている。
そしてこの社会は、それを知らない人間どうしが「自分」を競い合って動いている。でも、競い合っているばかりではうまくいかない。人は、無力な気配を持っている人に、つい微笑みかけてしまう習性を持っている。たとえば、赤ん坊を前にしたときのように。
われわれは、無力な人と出会ったとき、命のはたらきの甘美な味わいに気づかされる。
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命のはたらきは、生き延びようとすることにあるのではない、すでに生きてあることの甘美な味わいにある。それが人を生かしているのであって、生き延びようとがんばることではない。
人は、がんばる心だけあって命の甘美な味わいを失ったとき、殺人や自殺を考える。自分を殺すにせよ他人を殺すにせよ、それは、命と関わることだ。命の手触りには、甘美な味わいがある。その甘美な味わいに引き寄せられる。甘美な味わいがあるから、自殺や殺人ができるのだ。
秋葉原事件の若者は、命はたらきの甘美な味わいに飢えていた。
そして鬱病患者の発作的な自殺も、その甘美な味わいに対する飢餓感によるのだろう。彼らはもう、死によってしか命と関わることができなくなっている。
死にたいと思っている人や、死にそうになって混乱している人には、がんばる心を取り除いて、「いまここ」の命のはたらきの甘美な味わいに気づかせてやらなければならない。具体的なことは僕にはよくわからないが、がんばる心が人を混乱させる。生きることは、がんばって何かと戦うことではない、世界や他者にひざまずいてゆく甘美な味わいにある。戦っても、世界の美しさも、命の甘美な味わいも体験できない。
生きることは、未来に向かう労働ではない。「今ここ」の遊びなのだ。
人は、命のはたらきの「甘美な味わい」なしには生きてゆけないし、その「甘美な味わい」を求めて死を選択する。