内田樹という迷惑・仏の慈悲

我ながら罪深い生き物だなあ、と思う。
太宰治は「生まれてきてしまってごめんなさい」といったが、自分は生きていていいのだろうかと問わずにいられない思いは、たぶん誰の中にも多かれ少なかれあるのではないだろうか。それを振り払おうとして、人は、社会に奉仕し、家族を養うことにがんばる。
社会に奉仕し、家族を養うことにがんばれば、そういう罪の意識を忘れていられる。
それに対して社会に奉仕することも家族を養うこともしない者は、たえず罪の意識と向き合っていなければならない。
つまり出家した修行者は、われわれ俗人よりももっと深く人間としての罪の意識と向き合っていることになる。
修行者は、狂おしく身もだえして生きている。そうしてじっと座っていれば、深い恍惚=カタルシスがやってくる。
遊びもセックスも金儲けもしない単調な暮らしがよくできるものだ、と俗人は思うが、修行することの快楽はきっとあるのだ。
深く罪の意識と向き合っている者ほど、修行のカタルシスを深く体験する。
「人間であることがどんなに罪深いことであるか、あなたたちはわかっていない」と言ってくれればいいのだ。
なのに、よい行いをすれば極楽浄土に行けるとか、彼らがそんなことばかり言ってくるから、われわれは「よい行い」をして罪の意識を忘れてしまう。そうして、ますます凡夫の道に落ちてゆく。
罪の意識をもっていないから「罪がない」ともいえないでしょう。罪の意識をもっていないことは、もっと罪深いことかもしれない。そうして、深い快楽=カタルシスを喪失している。
どうして「仏の慈悲」という言葉があるかというと、もともと人間という存在が罪の意識の上に成り立っているからでしょう。
慈悲とは、「許し」のことだ。
すでに許されてあるつもりの者に、仏の慈悲など必要ない。
修行者ばかりが、それを独占している。それでいいのか。 
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この胸の奥をちくちく突き刺してくる罪の意識とは、いったい何なのか。
生きて存在していることの罪とは、いったい何なのか。
自分は死者ではない、ということの後ろめたさだろうか。
歴史というものを考えるなら、この世の外に無数の死者が存在することになる。いや、死者なんか存在するものではないのだけれど、われわれは死者のことを意識して生きている。どこかで、死者の霊魂を意識している。そこから罪の意識が生まれてくるのだろうか。
歴史を考えるとは、死者のことを考えることだ。
われわれは、無数の死者に囲まれて存在している。
生きていることは、なんだか無賃乗車しているような後ろめたさがある。自分は、乗っていてはいけない乗客なのだ、とどこかで思っている。
そしてそれは、この世界に対する疎外感という実存意識でもある。
自分はこの世界の「外」に存在している、という感覚。それが、この胸をちくちく突き刺してくる。
自分の「この身体」は、この世界におけるいわば異次元空間であるという感覚と、この世界の「異物」であるという感覚がある。そういう「疎外感」を、誰もが胸の底に持っていて、それが「罪の意識」になっているのかもしれない。
人間は、「許しを乞うている」存在である。そこに、「神の慈悲」がありつづけるゆえんがある。
キリスト教では、「父殺しの衝動」を「原罪意識」として説いている。そういうことではない。それは、たんなる共同体の構造の問題であって、人間としての根源的な意識ではない。「神は神の姿に似せて人間をつくった」ということだって、ただの共同体の問題にすぎない。共同体は、人間を神の立場にしてしまう構造を持っている。
人間に許しを乞う根源的な罪の意識があるということは、神は人間の姿に似ていない、ということである。人間に似ていない神だから、その「慈悲」がたしかなものになるのだ。
「慈悲」は、神において発動しているものであって、人間が持つことのできるものではない。「慈悲の心を持ちなさい」だなんて、そういう俗っぽくて安易なことを言っちゃいけない。それは、仏にたいする冒涜である。そうやって、宗教は堕落してゆく。
僕は、人間に慈悲の心があるなんて、ぜんぜん思っていない。だから、他人に慈悲の心を要求する資格はない、と思っている。
だからこそ、もし他者に許されていると思える瞬間があるのなら、それは他者の背後の神に(あるいは他者の中に宿っている神に)許されているのだと思ってひざまずいてゆきもする。
自分には慈悲の心があるとうぬぼれている(勘違いしている)俗物が、他人に対しても「慈悲の心を持ちなさい」などという無造作で横柄なことを言い出すのだ。