内田樹という迷惑・無明

こんなことばかりしていたら、誰もこのブログを見てくれなくなる。気がついたら自分ひとりさびしい原っぱに取り残されていた、という光景が浮かんできます。
まったく、がさつで腰の据わらないブログです。
人の気に触る言い方はつつしもう、という思いは僕にだってあるのだが、まるで実行できていない。
「半覚斎」氏も「もいかい」氏も、どこかしらに社会とうまく和解できない部分を抱えている人たちです。そして、そういう人たちとささやかに連帯していけたらと思っているのだけれど、いつも逆のかたちになってしまう。彼らは僕の敵ではないし、大いに尊敬しあこがれているのだけれど、だからこそちょっとしたことにも引っかかってしまう。
「関係ない」と思える相手なら、たいていのことがどうでもよくなってしまうのに。
まあ、誰であろうと、人間は敵ではない。
ほんとうに「そんなことあるものか」といいたい相手は、この社会の制度性です。たとえ内田氏が相手でも、その人の背後にある制度性に毒づいているだけです。戦うべき相手は、内田氏その人であって、内田氏その人ではない。
誰だって、社会とうまく和解できない部分を持っている。そればかりだとうまく生きてゆけないが、それを失ったら生きている張り合いもない。
「愛」などという言葉はよくわからないのだけれど、人は、社会とうまく和解できない部分で愛し合っているのだと思う。
社会とうまく和解している人は、あまり魅力的ではない。社会的な愛などいうものは、あまり信用できない。
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仏教は、
 世界のしくみを解き明かすものか?
 命のしくみを解き明かすものか?
しかしこの世の「すべては空」であるのなら、「解き明かす」ことなんかどうでもいいだろう。
いったいわれわれは、なぜ解き明かそうとするのか。
解き明かされたら、問題は解決するのか。
われわれにとって「空」は、体験されることではなく、解き明かされるべき問題であるのか。
解き明かされる「空」などというものがあるのか。解き明かされないものを「空」というのではないのか。
われわれはすでに「空」として生きている。それは、解き明かされるべきであるのではなく、「決意」するかしないかの問題なのだ。
そしてそれは、この世のもっとも貧しいものやもっとも苦しむものが、もっとも深く「決意」している。
彼らの生は、卑小だ。生まれてきた甲斐など何もない。いっそ生まれてこなかったことにしてくれたら、どんなにかせいせいすることだろう。
しかしだからこそこの世界の「空」は、そこにおいてもっとも深く決意され、体験されている。
それは、解き明かしたものの手の中にあるのではない。
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「無明(むみょう)」という言葉がある。「わからない」ということ。凡夫の心の状態。
わかることは「明(みょう)」。悟った者の心の状態。
そこで、どのように「わかる」かというと、「無明即明」となる。
凡夫はただわからないだけだが、悟った者は、この世界のわからなさに気づいている。
人間は、「無明」を生きている。そのことに気づけ、と釈迦は言う。それが、「無明即明」。
そこでわれわれがそれを語るとき、「わかる」という心の状態と「わからない」という心の状態をくらべ、けっきょく「わかる」という心の状態が止揚されてゆく。それが「悟り」なのだ、と。
しかしそれはたぶん、釈迦が言いたかったこととは違う。
「わかる」ことと「わからない」ことを比べてはいけない。「わからない」ことそれ自体を生きよ。それが「無明即明」ということなのではないだろうか。
「わからない」ことに気づかないのは、「わかっている」つもりでいるからだ。「わかる」ことが「わからない」ことだ。「明即無明」。
「わからない」ことが「わかる」のではなく、「わからない」ことそれ自体のなやましさくるおしさを生きよ、ということではないだろうか。
つまり、「わからない」ことを止揚するために、こういう言い方が生まれてきたのではないだろうか。わかろうとすることは、ただ「わからない」ことよりももっとたちが悪い。釈迦は、凡夫の「わからない」という心の状態を否定していない。それ自体悟りである、とも言っている。
わかっているつもりの「わからない」という心の状態が、いちばん始末に負えない。凡夫こそ「わかる」という心の状態を生きている。
わかろうとするな、と釈迦は言っているのだと思う。
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人間は、なぜわかろうとするのか。
知能が高いからではない。世の知識人は、それを自分の知能の高さのように思っているのだろうが、そういうことじゃない。
畳職人は、畳のことをものすごくよく知っている。それは、物理学者が物理のことをよく知っているのと同じことだ。結婚詐欺師は、女のだまし方なら誰にも負けない。それは、歴史学者が歴史の知識を豊富に持っているのと同じことだ。
僕なんか、そのへんの若いギャルの携帯電話に対する高度な知識と扱い方はもう、神の領域だとさえ思う。
この社会は、政治にせよ経済にせよ裁判にせよ、「決定事項」の上で動いている。決定すること、すなわち「わかる」ということ。われわれのわかろうとする衝動は、そうした社会の構造によって培養されている。知識欲は、人間の本性でもなんでもない。社会の構造から生まれてくる、たんなる強迫観念のことだ。
人類の知能は、どのようにして発達したか。
わかろうとしたからじゃない。わかろうとするのは、「わかる」という着地点があるからだ。その着地点があるのかどうかわからない段階で、わかろうとする欲望など生まれてくるはずがない。わかる=決定するという制度を持ったから、わかろうとする欲望が生まれてきたのだ。
原初の人類は、目に見えるまわりの景色の向こうがわは、「何もない」と思っていた。だから、「あの山」の向こうに行こうとはしなかった。「あの山」に登ってその向こうを見晴らしたとき、はじめて行ってみようと思う。「何もない」と思うことのなやましさ・くるおしさを体験した者が、「あの山」に登る。「何もない」とわかったつもりになっている者は、けっして登りはしない。
人類の知能を発達させたのは、わかろうとする欲望ではない。「わからない」ということのなやましさ・くるおしさ、すなわちそうした「ストレス」にほかならない。
人間は、知能が発達したからわかろうとする欲望を持つようになったのであって、わかろうとする欲望で知能を発達させてきたのではない。
「わからない」という心の状態に身を置くことのなやましさ・くるおしさ{=ストレス)がある。恋をすることは、まあそういう体験でしょう。わかって(わかったつもりになって)しまったときが、恋がさめるときだ。
「わからない」ことのストレスが、人類の知能を発達させた。そしてその「無明」こそ、「空(くう)」の体験にほかならない。
わかろうとする知識欲は、社会の構造から生まれてくる。われわれが知識欲を持っているのは、その部分において社会の構造(制度性)に染め上げられているからだ。
であれば、そうした制度性から離れて「ひとり」になったとき、われわれは、「わからない」ことのなやましさ・くるおしさの中に投げ込まれる。そうして、恋をする。世界が輝いて見える。
現代の小・中学生の学力(=知識欲)が低下している、という。それは、彼らがそれほどに社会の制度性から離れ「ひとり」になるなやましさ・くるおしさを体験していることを意味する。そしてその原始的な心性こそ、人間性の基礎なのだ。彼らは、そのぶん他者にときめき、恋をしている。
彼らの学力が低下したからといって、ただ困ったものだと片付けられる問題ではない。「わかる」ことの制度性と「わからない」ことなやましさ・くるおしさ(=人間性)、この両方をどう按配してゆくかということこそ、現代社会のあり方の問題であり、普遍的な「個人」の生き方の問題でもある。
仏教の修行は、ただ単純に「わかる」ことを目指すのではない。それが社会から離れて(出家して)なされるものであるかぎり、「わからない」ことのなやましさ・くるおしさに身を置け、と釈迦は言っているのではないだろうか。それが、「無明即明」ということではないだろうか。