感想・2018年6月30日

<異次元の世界に遊ぶ>


ある人が、生きるのはめんどうくさい、といっていました。
まったく生きることなんか、めんどうくさいばかりです。
それでも生きてしまうのは、世界が輝いているからだ。
生きねばならないわけでも生きたいわけでもないのに、それでも人は生きてしまっている。
生きてあるのは、なやましくくるおしいことだ。
横着でずぼらなようでも、物静かな人のようでも、たとえば水鳥がのんびりと泳いでいるように見えても水の中の足はせわしなく動いているように、人の心の底もくるおしく揺れ動いている。このままでは気が狂ってしまうのではないかと思うことさえある。
だから、癒されたいとか心が安らぐ体験が欲しいとも思う。
ネアンデルタール人縄文人だって、どうしてこの世界に生まれ出てきてしまったのだろう、という感慨はあったはずです。彼らの生きる環境はとても厳しかったし、おまけに生きてある時間なんか30数年のことで、あっという間に終わってしまう。
それでも世界は輝いていて、世界や人との出会いにときめいてしまっている自分がいる。そのなやましさとくるおしさの中で、たとえば見上げる青い空が目に染みるように、人の心は「他界=異次元の世界」を遠く夢見ている。
縄文人のつくった火焔土器や遮光器土偶は純粋に「異次元の世界に遊ぶ」表現だったのであって、呪術のためとか、そんな俗っぽいものではなかった。縄文人をなめてもらっては困る。生きてあることのなやましさやくるおしさは、われわれよりも彼らのほうがずっと深く豊かに知っていた。彼らは土器によって、ほかにも驚くほど多種多様な「遊び」の道具をつくっていた。楽器とか子供の玩具とか装身具とか、今となって何かよくわからないものまで。
「異次元の世界に遊ぶ」ことは、人類普遍の永遠のテーマです。
そしてこの国のアニメやマンガやギャルファッションは、そこのところをものすごく上手にラディカルに表現している。だから世界に伝播して「ジャパンクール」といわれたりもしているわけで、あなたたちの教養主義で「ただのポップカルチャーだ」などと侮ってもらっては困る。この国では、ポップカルチャーこそが、もっとも本質的な問題を担っている。
われわれはべつに一生懸命働いて生きるために生まれてきたのではない。生きることは「すでに生きてしまっている」というたんなる「結果」であって、「目的」ではない。
みんな、なやましくくるおしい生を生きている。人は、正直で率直であればあるほど、ただの「生命賛歌」ではごまかせない問題と出会ってしまう。そうやってアニメやマンガやギャルファッションが生まれてくる。
誰だって、この生を「お祭り」にしてしまいたいと願っているじゃないですか。生き延びるための労働だ、だなんて、そんな辛気臭い物言いはやめてくれ。そんなことをいいたがるのは、文明社会の制度にたらしこまれているだけなのだと思う。大人たちの、その表面的で薄っぺらな思考。思考停止の思考。
おバカなギャルのほうが、ずっと切実にこの生の深淵と向き合っている。