感想・2018年7月1日

    〈思想なんかなんの役にも立たない〉

思想を持たねばならない。
きっとそうなのでしょう。でもそれは、生きるための知恵とは違う。思想なんか、生きるためには、なんの役にも立たない。
もしかしたら思想をとことん追求すれば、生きるための知恵とは相反するのかもしれない。そこで、生きるための知恵と折り合いをつけるために「倫理」というものが生まれてきたのかもしれない。
したがって、倫理も思想も、生きるための知恵ではない。
ともあれ古代人は、そこまで考えて倫理というものを生み出したのでしょう。彼らは、われわれよりずっと人間性の自然をよく心得ていたし、じっさい人間性の自然に寄り添って生きていた。
ところが、新しく登場してきた文明制度によって、そうもいかなくなってきた。たとえば、明日のことなど勘定に入れずに「今ここ」だけを大切にして生きてきたのに、文明制度は、未来のことを考えて生きよ、と迫ってくる。それは、死ぬわけにいかない生を生きることであり、それまでの「いつ死んでもかまわない」という勢いで「今ここ」に熱中してゆくような、この生の豊かなはたらきを失うことだった。そこで彼らは、文明制度に従いつつ、人としての自然を守ってゆく方策を模索していった。そのようにして「倫理」が生まれ、「家族」という極小の集団が生まれてきたのではないでしょうか。
人類は氷河期明けに「家」というものを持つようになり、そこに女が住んだ。しかしそこで家族という単位が生まれたかというと、そうではなく、男も子供もどの家だろうと出入りが自由で、子供の父親など誰もわからなかった。だから子供は、集団のみんなで育てた。このような社会のかたちは今でも今でもエスキモーなどに残っているし、日本列島でもツマドイ婚が消えて男も決められた家に入り込んでちゃんとした「家族」を形成する社会のかたちが確立されたのは、中世以降のことにすぎない。
古代は、近親相姦など珍しくもなんともなかった。それは、父親が誰であるかは問わない前提の社会だったからでしょう。父親が誰であるかをはっきりさせる習慣は権力社会からはじまり、やがて民衆社会にも下りていった。
いまでも父親の自覚がちゃんと持てない男はいくらでもいるし、多くの男には、父親であるという家族内の合意がなければ自分の家族内での存在の正当性はない、という不安がある。だから、威張り散らすし、卑屈にもなる。
女よりも男のほうが、「遺伝子」とか「血のつながり」という言葉にしがみつきたがる。
古人類学者はかんたんに遺伝子学のデータに惑わされ、近ごろは素人でもむやみに「遺伝子」という言葉を振りかざしたがるのは、あんがい父親としての不安から来ているのかもしれない。
……
思想とは何か、ということを考えはじめたのに、いつの間にか横道にそれてしまっている。これが、僕の悪い癖です。