感想・2018年7月2日

     <生きていれば思想家になるしかない>


思想とは何かということをまだ考えています。
それが、
人はいかに生きるべきか、
この社会はいかにあるべきか、
というようなことを問題にするものであるのなら、よくわからないし、興味もありません。
よい人間と悪い人間、よい生き方と悪い生き方、そんなことはよくわからないし、どうすればちゃんと生きてゆけるかということも、さらにわからない。
思想なんか、生きるために役立つものであるとは思わない。
それでも世界は輝いている、ということ。
どんなに生きるのが下手で生きることなんかろくでもないものだと思っていても、やっぱり人や世界について考えてしまう。それだけはやめられない。そういうことを思想というのなら、僕も思想家のひとりかもしれない。
この生やこの社会がろくでもないと思うなら、人は思想家になるしかない。
よい生やよい社会があると思えるのなら、それを語ればいいのだろうが、そんなことをいったい誰が決められるのか。たとえ神が決めたことでも、僕は信じない。
権力社会とか文明制度とは「神の教え=法」をわれわれに押し付けわれわれを思考停止に陥れようとしている装置のこと。
古代の民衆だって、権力社会が輸入した「仏の教え」なんか信じなかったから、「神道」を生み出したのです。彼らだってこの生もこの社会もろくでもないものだと思っていたけど、それでも人も含めたこの世界の森羅万象のすべては輝いているとも思ったし、そんな森羅万象の「本質」が知りたいしそれを祝福したいと思ったから神道を生み出していった。彼らは、森羅万象の「本質」を問う「思想家」だった。
僕だって、
人間性とは何か、
人の世はどうなっているのか、
ということなら大いに関心があるし、いつも考えています。生きているかぎり、考えずにいられない。それはやっぱり、世界は輝いているわけで。