拒否反応は大事だ・神道と天皇(37)

日本列島の住民は天皇に対する無垢な憧れがあり、両者のあいだに立った権力者は、その関係を利用していともたやすく民衆を支配してしまう。この国の権力支配の歴史は、最初からそのような構造の上に成り立っていたのであり、そうやって1500年以上天皇制が続いてきた。
日本列島が国家であるためにはというか、権力者が民衆を支配するためには天皇が必要だった。
民主主義などといわれても、政治なんか煩わしい。われわれは権力者によってかんたんに結束させられてしまうが、結束しようとする「目的」を持っているのではない。まあ人間性の自然として結束しようとする目的を持っていないからこそ、人間集団は無際限に膨らんでいってしまうのだ。猿は、結束できるレベル以上に集団を膨らませることはしない。
「憂き世」という。日本列島の住民は、根源において結束しようという目的を持っていない。だから、宗教や政治支配を受け入れても、宗教や政治支配にまるごと心を染め上げられることはない。まるごと心を染め上げられないから、あっさりと受け入れてしまう。
戦時中の日本人が結束していたかというと、そうではない。結束させられていただけだ。そういう状況になれば、それはもう素直に従う。結束しようとする目的を持っていないからこそ、それがどんなに理不尽なことであってもそれに従ってしまう。これ以上戦ったら集団が滅びてしまうということがわかっていても戦った。それは、集団を成り立たせるために結束する、という目的が希薄だったからだろう。戦うために戦った。あるいは、滅びてゆくことへの誘惑があった。われわれは、根源において集団の存続という目的を持っていない。集団なんか、目的にならない。それはもう縄文以来の伝統であり、だから彼らはついに都市集団を持つことがなかった。三内丸山遺跡のようにそうなりかけたことがあっても、縄文中期にはあっさり解体してしまった。

宗教者は神に救済を願うが、神道においてはただもう無垢に、その願いすら放棄しながら一方的に神に憧れてゆく。生きることだって願わない。そういう地平に立つことを「かみ」という。
「神風特攻隊」とか「腹切り」とか、日本列島には自死を名誉なこととする文化風土があるなどと西洋人からいわれたりするが、べつに「名誉」だと思っているのではない。そうした習俗の根底には、生きてあることに対する「けがれ」の意識が息づいているわけで、それがひとつの「みそぎ」になっている。名誉が欲しいのではない。
名誉を欲しがる自意識で腹切りしたのは三島由紀夫くらいのもので、それは日本列島の伝統的な歴史風土によるのではなく、たんなる近代自我の問題にすぎない。
いや、明治以前と以後では腹切りに対する意識が変わった、ということだろうか。明治以前は、みずからの「けがれ」をそそぐために腹を切った。それに対して明治以後は、みずからの自我を拡張しながら国家と同化(一体化)してゆくようなかたちで腹を切った。
三島由紀夫は、「憂国」という言葉が好きだった。そういう国家意識は、幕末以来の西洋列強国の外圧にさらされたことによって生まれてきた。日本列島の住民全体が国家意識を持つようになっていったのは、明治以降のことにすぎない。そのようにして「国家神道」が本格化し、日本列島の住民の自我意識も肥大化していった。
明治以後はもう、民衆だって戦争に巻き込まれていやでも国家を意識するほかなかったし、国家を意識することは自我が肥大化してゆくことでもある。自我の輪郭を国家の輪郭と重ね合わせてゆくことだ。
自我の肥大化は、文明社会の避けがたい病理であるともいえる。

現在のようにこんなにも地球が狭くなり、いまだにあちこちで国家間の緊張や紛争が起きている状況であれば、国家の運営も個人の人生も、どうしても自我を満足させるかたちで問題を解決しようとする思考が主流になってしまう。
しかし同時に、それでは根本的な解決にならないということも、誰もがどこかしらで気づいている。
アメリカのトランプが世界の救世主になるなんて、誰も思っていない。
現在のこの国では、総理大臣をはじめとする右翼のナショナリストと呼ばれる人たちがえらそげな顔をしてのさばりかえっているが、神道の本質について考えるかぎり、日本中が国家神道に染め上げられる状況が再びやってくるかどうかはわからない。彼らはそうしたいのだろうが、われわれは、あの敗戦のときに国家神道をあっさり捨ててしまったのだ。たとえ再び国家神道に染め上げられる時代になっても、いずれまたあっさりと捨ててしまうこともできるのだということを歴史が証明している。
それは神道の本質でもなんでもないのだから、あっさりと捨ててしまうことができるに決まっている。そしてその反動として左翼思想に染まっても、それもまたあっさりと捨ててしまうことができる。
この国は、政治思想においてまったく無節操な国で、基本的に政治そのものに無関心なのだ。いや、それ以前に政治に対する拒否反応がある。
神道は、政治や宗教に対する拒否反応として生まれてきたのだ。

神道の神は、西洋の「ゴッド」のようなこの世界をつくった存在ではなく、この世界(森羅万象)の「はたらき=現象」を指しているのであり、それは「かみ」という名詞で呼ぶよりも「かむ」という動詞で呼んだ方がしっくりする場合も多い。もともとあった「かむ」という動詞を、「かみ」という名詞にしていっただけのこと。
おそらく「神(かむ)ながら」などという言葉は、神道が生まれる前からあったし、それを動詞の「かむ」であらわすということは、そのとき「創造主としての神」という存在は意識していなかった。
「かむながら」の原義は、「神の御心のままに」というようなもったいぶったことをいっているのではなく、ただもう「自然ななりゆきのままに」とか「率直な心のままに」とかというようなニュアンスをあらわしているだけだったのだ。「そんなものさ」とか「世の中うまくできているもので」というようなニュアンスで「かむながら」といっただけのこと。
「あの夫婦は喧嘩ばかりしているけど、かむながら別れることはないだろう」とか「あそこの家の葬式には、かむながら参加するしかない」とか「この溜池を掘るのはずいぶん苦労したけど、かむながらようやく出来上がった」とか。
「かむ」とは、「自然の摂理」あるいは「自然の摂理に気づく」こと。
古いやまとことばでは、「離れる」ことを「かる」といった。草を「刈る」ことは、草を地上から離すこと。「貸す・借る」は、所有の所在が離れること。「駆る」は、足が勢いよく地上から離れること。「狩る」は、それをもとの場所から切り離して持ってきてしまうこと。
「カッとなる」といえば、自分を見失ってしまうことをあらわしている。
やまとことばの「か」という音声には「離れる」という意味があり、自分の外のこの世界の森羅万象に「気づく」ことは、心のありかが「自分」のもとから「離れる」ことだ。そして「み」は、「中心」とか「本質」とか「大切なもの」とか「充実」というようなニュアンス。すなわち「森羅万象」あるいは「自然の摂理」、そういうもの「気づく」体験を「かむ」という。そしてそれは心のありかが「自分」から離れてゆくことであり、そこにおいて「みそぎ」が体験される。
まあ、ものごとが上手くいったり心がさっぱりしたりすることを「かむ」といっただけのことで、べつに「神という存在」をあらわす言葉だったのではない。

やまとことばの「かみ=かむ」という言葉には、政治や宗教に対する無意識的な拒否反応がこめられている。その拒否反応とともに神道が生まれてきた。
拒否反応は大事だ。人は、心の奥のどこかしらに、この生に対する拒否反応を持っており、しかしそれが人の生きるいとなみや頭のはたらきを活性化させている。つまり、そういう拒否反応がはたらいて、「生命賛歌」としての政治や宗教にどうしてもなじめない部分が残ってしまう。
宗教があたりまえのように定着している欧米やイスラム圏の人たちからしたら少々奇妙なことかもしれないが、われわれ日本列島の住民の多くは、宗教にのめり込むことに対していささかの気味悪さというか違和感のようなものを覚えてしまう。僧侶としてそれを職業にしているなら宗教に対する客観的で冷静なスタンスを持っているのだろうから、それは認めもするし尊敬もするが、一般人が盲目的にのめり込むのはなんだか気味が悪い。
日本列島の住民にとっての宗教は、盲目的にのめり込むものではない。それはそれでこの世のいとなみの一部として機能しているものであろうが、それがすべてでそれによってこの世が動いていると決めつけられるとなんだか気味悪い。
政治だって同じこと、政治をたんなる職業として割り切っているのならそれはそれで結構なことだが、素人のくせにそれがこの世のもっとも大事なことであるかのようにのめり込んだ物言いをされると、やめてくれよと思ってしまう。そうやって素人が政治の場にしゃしゃり出る民主主義というのは、なんだか気味が悪い。まるで自分が世の中を背負っているかのような顔をして「こうすればいい」とか「ああするべきだ」とかと吠えまくっているマスコミ評論家も、それに乗せられて大騒ぎしているネトウヨや左翼系市民運動家たちも、彼らのその過剰な自意識はそうとう胡散臭い。
悪いけどわれわれ団塊世代は、あの全共闘運動のそうした政治主義がいかにブサイクでグロテスクかということをリアルタイムで目撃してきたのだ。まあその運動に参加したものたちは、それぞれ個人的にはさまざまな「青春」を体験していたのだろうが、全体の動きそのものは、列島中の共感を呼ぶものではなかった。多くの日本人は、民衆が政治の場にしゃしゃり出てゆくことに対するどうしようもない違和感があった。
政治や宗教は、自己(自我)の充足安定を求める。国家の自我も個人の自我も、この生の安定充足を求める。それに対して起源としての神道、すなわち日本列島の伝統としての「みそぎ」の作法は、この生に貼りついた自意識(自我)を洗い流すことにある。もともと人は、そこから生きはじめるのだ。
今どきは、半端なマスコミ評論家とかネトウヨとか市民運動家とか、右翼も左翼も素人が寄ってたかって政治のことに口をさしはさんで正義ぶっているが、この国の歴史の無意識においては、そういうことに対するどうしようもない違和感というか拒否反応がある。
なんだか「やめてくれよ」と思うし、「まあ、勝手にやってくれ」とも思う。そんな大騒ぎしている彼らの知性や感性が、彼らがうぬぼれるほど優秀だとも思えない。カッコつけて「ポピュリズムは困ったものだ」などと嘆いてみせても、彼ら自身の知性や感性がすでに停滞衰弱してしまっている。