幽体離脱は超常現象か?・神道と天皇(48)

あなたは「国」というものを信じますか?
右翼であれ左翼であれ、「よい国にしなければならない」というとき、自分の存在理由は「国」の上に成り立っている、と信じられている。
全共闘運動に熱中していった団塊世代は、「国」というものを信じていた。その心理においては、右翼が「憂国」という言葉を振りかざして気取っているのと大差はない。
彼らはなぜ「国家」というものが信じられるのか。国家とは、民衆を支配する機関のことをいう。それを信じるということは、人が人を支配することを信じることと同義であり、そうしたみずからの支配欲に突き動かされて「よい国にしなければならない」などと叫び出すのだ。
民主主義なんて、ようするに誰の中にも巣食うグロテスクな支配欲をまるで人間の本性であるかのように正当化し発現させてゆこうとする思想にすぎない。今どきの右翼だろうと左翼だろうと、つまるところそのような戦後民主主義の落とし子にすぎない。
そりゃあ、国や人を支配しようとする衝動は、文明発祥以来権力者たちによって綿々と受け継がれてきたし、それが今、民衆のところにも下りてきている。
憂国」などというグロテスクな支配欲は、江戸時代までは武士という支配階級だけのものだったが、今や名もない庶民でもそうした人に対する支配欲に凝り固まった人間がうようよいる。まあ、そのようにして全共闘運動が生まれてきた。支配階級になれないものたちが支配欲を満たすためにはもう、支配の権利を奪うための「革命」を起こすしかない……それが、全共闘運動だった。
「よい国にしなければならない」だなんて、支配欲そのものではないか。グロテスクな。

宗教だって、ひとつの支配欲から生まれてきた。その対象が、国家であれ、他者であれ、自分に対してであれ、そうした作為=支配欲は、「神がこの世界をつくり支配している」という信憑によって担保されている。
神の支配にもたれかかりながら、神の救済を得ようとしてゆく。支配=被支配の関係によってこの生やこの世界の秩序・安定がもたらされると信じてゆくとき、自分の中にも支配者として振る舞おうとする衝動が生まれてくる。
イスラム教は、おそらく神による支配が地球上でもっとも強い宗教で、それがそのまま、王と民衆や男と女などの、支配=被支配の関係が大げさな社会制度になっている。
そして日本列島は、地球上でもっとも神による支配が希薄な地域だ。日本列島に神がいないのではない。日本列島の「神(かみ)」は支配しない。その「神(かみ)」は、森羅万象をつくり支配している「神」ではなく、森羅万象それ自体が「かみ」になっている。
支配=被支配の関係が希薄な歴史風土なのだ。メソポタミア地方では7,8000年前からすでに人口5000人以上の都市集落が生まれていたが、日本列島では2000年前の弥生時代以降のことにすぎない。大和朝廷という都市国家の成立にしても、中国大陸から3000年以上遅れている。四方を荒海に囲まれていたから、その3000年のあいだ、影響を受けることなく、つまり「神」を知ることなく、独自の文化風土を育ててきた。
縄文時代にはなぜ都市集落が生まれてこなかったのか。集落として結束しようとする意識がなかったからであり、結束するための「安定」とか「秩序」ということに対する意識が希薄だった。彼らは、みずからの生においても、人と人の関係においても、世界=森羅万象においても、「安定」や「秩序」を求めなかった。すべては「移ろい流れてゆくもの」と思い定めて生きていた。それは、この生やこの世界の親鸞万象をつくり支配している「神」という存在を思い描いていなかった、ということだ。起源としての神道の「かみ」は、そのことの上に立ってイメージされていった。
それは、神であって神ではなかった。彼らが神をまるごと信じていったといっても、森羅万象をつくり支配している神ではなく、森羅万象それ自体としての神だった。
「みそぎ」のカタルシス、すなわち快楽。ときめいたり感動したりすることにおいては、原始人も現代人もない。人の心は、自分=この生が森羅万象に溶けてゆく心地を体験するようなはたらきを持っている。むずかしいことじゃない。それはきっと、もっとも原初的な心のはたらきであると同時に快楽というものの究極のかたちでもあり、ようするに「心がときめく」とはそういうことなのだ。そうやってこの生の外に超出してゆく。
二本の足で立ち上がった人類は、自分=この生が森羅万象に溶けて消えてゆく心地を体験したのだ。他者の体とぶつかり合うような密集状態において、二本の足で立ち上がれば、身体が占めるスペースが最小限になってぶつけ合わずに済むようになり、その鬱陶しさが消えてゆく。それはきっと、自分の身体が消えてゆくような心地でもあったに違いない。そうして、世界が輝いて見えた。
快楽というか生きてあることのカタルシスは、この生の「外」にある。いや、この生と死とのはざまの「異次元」の空間で生成している。四次元の世界というのか、なんというのか、われわれ無意識は、そうした「異次元」の場を知っている。心はそこに超出してゆく。そうやって心はときめくのだし、人間の「外」の存在としての「神」という言葉を聞けば、どうしてもそれについて考えてしまう。まあ古代人はこの生の外の存在は思い浮かべなかったが、この生の外の「異次元」の空間については思い当たるふしがあった。そのようにして「神(シン)」という漢字を「かみ」と読み変えていった。

現代人のように「生命賛歌」をしながらこの生や自分に執着したり縛られたりしていたら、この生や自分の外に超出してゆくという心のはたらきが希薄になってしまう。そうやって意識が「この生=自分」に張り付いたまま、世界の輝きにときめかなくなり、心を病んでゆく。そうして、死がますます怖いものになってゆく。
幽体離脱」という心的現象が起きるのは、「意識」が脳のはたらきとは「異次元」の場で生成しているからであり、べつに不思議なことでもなんでもないのだろう。意識が脳=身体の外の「異次元」の場ではたらいていることは、疑いようのない事実なのだ。そんなことくらい、無意識的には、子供でも原始人でも、みんな知っている。
不思議というのなら、意識のはたらきそれ自体が不思議なのだ。意識がはたらいている「異次元の場がある」と思っているが、それがどこかということは、まるでわからない。われわれは、意識のはたらきの場を、頭痛のように察知することはできない。それはもう「非存在」の場というしかない。
人が衣装をまとうということは、「身体の輪郭」に対する意識があるからで、この「画像」としての「身体の輪郭」を環境世界にさらしてしまうのはどうも居心地が悪いからだが、この「身体の輪郭=画像」は「物質」ではない。物質ではないのなら存在しないはずなのに、存在するかのように感じて、とても居心地が悪い。存在するかのように感じてしまうこと自体が、居心地が悪いのだ。
意識は、この世界の「画像」と向き合っている。「画像」は「物質」ではない。したがって「存在」ではない。存在ではないのに、存在であるかのように思っている。その「画像」こそが、われわれの心を一喜一憂させている。世界は「画像」である、といえるくらい一喜一憂している。
「意識=心」は、「画像=非存在」と向き合っている。
目が見えない人だって、「身体の輪郭」に対する意識はある。彼らだって、世界を「輪郭=非存在」としてとらえている。彼らこそ、もっと生々しく「非存在=異次元の場」をとらえているのかもしれない。
だから神道においては、「神は隠れている」という。「隠れている」のなら、その「輪郭」をめくれば正体があらわれるのかといえば、そうではない。「輪郭」それ自体に「隠れている」のだ。
まったく、この問題はややこしい。しかし、子供だってこの問題と向き合って生きている。誰だって、「非存在=異次元の場」と向き合って生きている。

幽体離脱においては意識が体から離れてしまっている、といっても、それはあくまで「この生の現場」で起きていることであって、「死後の世界」でも、ここでいう「異次元の場」でもない。そして「自分(=身体)」を見ているのが「自分」なのだから、けっきょく「自分=この生」の外に出ることはできていない。それは、「超常現象」のようでいて、じつはあくまで現世的な「この生の現場」に閉じ込められた体験にすぎない。「異次元」の体験でもなんでもなく、そのときこそより生々しく「この生の現場」があらわれているともいえるわけで、もしかしたらふだんのくらしで他愛なくときめいているときのほうが、よほど確かに「異次元の場」に超出しているのかもしれない。
宗教者も含めた幽体離脱愛好者は、「他愛なくときめく」ということができないし、総じて人に対して鈍感である。意識が始終自分に貼りついているのだから、とうぜんだ。そして、鈍感なくせに憎むことだけはひといちばい旺盛なのだからかなわない。この世の中で生きて暮らしていれば、誰のまわりにもそのような人間の二人や三人はいるだろう。なんといってもスピリチュアルや生命賛歌が大手を振って跋扈している世の中だもの、自己愛ばかりが強くて鈍感な人間はいくらでもいる。
まあ幽体離脱なんて生命の危機に陥れば誰でも体験するわけだが、それを御大層な体験であるかのように思い込むのは、ただの自己愛(ナルシズム)にすぎない。それだけふだんから意識が自分に貼りついて離れない状態でいるからそこまでいかないと解き放たれた心地になれないし、それでもまだ自分から離れられない。けっきょく自分が自分を見ているだけのことで、「異次元の場」はそんなところにはない。「異次元の場」への超出は、自分が自分の「外」の森羅万象に溶けて消えてゆくことによって体験されるのだし、普通の人は、それくらいのことはただ他愛なくときめくというかたちですでに体験してしまっている。
人は、神の支配とか共同体の支配とか親の支配とか病気や疲れなどによる身体の危機とか、この生がそうした「支配」に囲い込まれていると、意識が自分から離れなくなってしまい、幽体離脱を起こしやすい状態になる。ただそれだけのことで、それによって心が解き放たれるわけではない。
「異次元の場」は、幽体離脱の、さらにその向こう側にある。
神に支配されている宗教者は幽体離脱を起こしやすく、彼らは、それによって救済を得たと信じている。

心の中に神との関係を持っているものは、意識が自分に貼りついたまま、この生の中に閉じ込められている。彼らは、心が他愛なくときめいて「異次元の場」に超出してゆくという体験ができない。
伊勢白山道とか江原啓之とか、スピリチュアルのものたちほど「異次元の場」というものを知らない。「神が見える」とか「霊魂が見える」とか「前世が見える」とか、その「見える」ということ自体が「この生の現場」の体験でしかない。「この生の現場」から見えるものなどすべて「この生の現場」の現象であり、「この生の現場」から見えないものを「異次元」というのだ。
幽体離脱したところで、べつに「あの世=異次元の世界」から自分を見ているわけではない。「自分が見える」ということ自体が、「この生の現場」の体験にすぎないことをあらわしているのであり、それくらいのことはじつは誰でも体験している。ただそれは瞬間的なことで、彼らほどの自己撞着や思い込みを持っていなければ、すぐに忘れてしまうだけのこと。
意識のはたらきは「脳=身体」において起きていないのだから、自覚されない幽体離脱はいつでも日常的に起きている。それが意識のはたらきの自然なのだもの。脳で意識が発生していたら、そちらのほうがずっと不自然で非科学的なことだ。
「神との関係」を持った自己撞着の強い人間は、かんたんに「神」や「霊魂」や「前世」が見えた気になってしまう。
少なくとも古代神道においては、「見えない」のが「神(かみ)」なのだ。
人は、「見えないもの」「わからないもの」と向き合う心の動きを持っている。それが、人間性の自然であり、人間的な知性や感性の源泉なのだ。われわれは。「意識が生成している場」も「死後の世界」も、永久にわからない。その「わからない」という心の動き人間性の自然として持っているから、「神」という概念が本能的に気になってしまうわけで、神道においては、「見えないもの=わからないもの」であることこそ、「かみ」であることの証しなのだ。
そして、「見えない」「わからない」ということと向き合う態度なしに人類の知性や感性の進化発展はなかった。

スピリチュアルの体験なんか、どうしようもなく現世的で自閉的であり、そんなもののどこに神秘や聖性があるというのか。近代合理主義というか現代社会の制度性の垢にまみれた俗物どもが、寄ってたかって空騒ぎしているだけではないか。その俗物根性は、金や権力の亡者たちのそれ以上でも以下でもない。
神や霊魂や死後の世界など、わかるはずのないものをわかっているかのように思い込むなんて、ただの思考停止じゃないか。
あなたたちは、なぜ「わからない」ということ向き合えないのか?それは、心の「ときめき」を喪失していることと同義であり、宗教こそが、人類の知性や感性の進化発展を阻み、世界の平和を阻んでいる。
宗教には、「異次元の場」に超出してゆく契機がない。この生を、歴史を、この世界を、神による支配に閉じ込めて、平板なものにしてしまう。宗教人の鈍感な俗物根性には、ほんとにうんざりさせられる。まあ今どきは俗物の大人ばかりの世の中だから宗教だけの責任ではないともいえるが、宗教がこの世の中をおかしなものにしてしまっているともいえる。
宗教は、人の世というか人類の歴史に停滞と衰弱をもたらす。「調和と安定」という美名のもとに、停滞と衰弱と混乱と破壊をもたらす。彼らは、神との関係にしがみつきながら、「すべては移ろい流れてゆく」というこの宇宙の森羅万象の自然を受け入れることができない。
この生やこの世界は「調和と安定」の上にしか成り立たないのか。そんなことをいったって、この生やこの世界が、神の定めた規格通りに動いてゆくはずがない。誰の存在も誰の人生も、すべては「規格外」ではないか。この身体が動くとかこの心が動くということは、規格から外れてゆくということだ。そうやって「移ろい流れてゆく」のが、この生やこの世界ではないのか。
この生やこの世界を支配しているものなど何もないからこそ、なりゆきのままに「移ろい流れてゆく」という現象が起きるのだし、心がこの生やこの世界の「外」の「異次元の場」に超出してゆくことができる。
宗教は、心をこの生やこの世界に閉じ込めてしまう装置なのだ。彼らにとっては「神」も「死後の世界」もこの生やこの世界の延長であり、この生やこの世界の範疇のことにすぎない。彼らは、その向こうの「異次元の場」を思い描くことができない。
つまり、「わからない」ことと向き合うことができない。「問う」という態度がない。神がすべての問題を解決してしまっているのだから、問う必要がない。
人類は、「死後の世界」とか「意識の場」とか、永遠に解決できない問題と出会ったことによって、それらの問題を解決している「神」という概念を生み出した。それが「宗教の発生」であり、それによって人類の知能の発達が止まってしまった。知能そのものに原始人と現代人の差はない。
少なくとも日本列島の歴史においては、古代人よりも現代人のほうがずっと迷信深い。そしてそれは、民衆よりも権力世界のものたちのほうがずっと迷信深いということであり、民衆だって、権力欲の強いものほど迷信深く、その思考は停滞し澱んでいる。つまり、「わからない」ということと向き合っていない。彼らは、この生やこの世界を「わかる」というかたちで支配しようとする。「わからない」というかたちで問うてゆくことができない。
政治も宗教もひとつの呪術であり、現代社会は呪術によって支配されている。まあだからこそ人々は、他愛なくときめき感動し合う「祭り」の場に身を置こうとするわけで、そこに立たなければ人は生きられない。心のはたらきも命のはたらきも、そこでこそ活性化する。

「死後の世界」や「生まれ変わり」が存在するとか、彼らの思考はどうしてあんなにも現世的で通俗的なのだろう。人は避けがたくそんなことを考えてしまう生きものではあるが、そんなことが「わかる=存在する」と決めつけてしまったらおしまいなのだ。人の心は、そんなことは「わからない」というところに立ってときめき感動してゆくのだ。その不安と嘆きこそが、ときめき感動する体験の基礎なのだ。なのに彼らには、その不安と嘆きに耐えようとする覚悟がない。覚悟できるだけの知性や感性が停滞し衰弱してしまっている。
人はそんなことを避けがたく考えてしまうけど、そんなことはわからない。わからないとわかる。永遠にわからないと覚悟しつつ考え続けている。そこに人間性の自然があり、心はそこからときめき感動してゆく。
人は避けがたく「神(かみ)」について考えてしまう。そこで古代の日本列島の住民は、神は存在しない、と考えた。存在しないというかたちで存在する、と考えた。そのようにして「異次元の場」について考えていった。そのようにして「神」という漢字を、「かみ」と読み換えていった。そのようにして神道が生まれてきた。
「かみ」の「み=身」は「存在」というような意味で、「身を立てる」とか「身から出た錆」というときの「身(み)」はそのような「存在=身体」をあらわしているわけだが、「身に覚えがない」とか「親身になる」とか「身にしみる」というときは「心」という意味にもなっている。「心=意識」は「存在」ではない。したがってやまとことばの「身=み」は、「存在ではない存在」という逆説的な思考が含まれている。そこに「み」という言葉の豊かさと奥深さもあるのだが、「かみ」の「み」だって、ただ「存在」と解釈してしまうだけではすまないニュアンスがある。それは「存在しない存在」なのだ。そして「かみ」の「か」は「気づく」とか「出現する」というような意味であり、神道の「かみ」は「出現する」のであって「存在する」のではない。
神道の「かみ」は「存在ではない存在」であり、存在ではないから「出現する」という「現象」になる。「かみ」は、「存在」ではなく「現象」なのだ。古代神道は宗教とはいえない、といわれているゆえんがそこにある。宗教学者が考えているのは、神道には開祖も教義も救済もない、というようなレベルまでだが、もっと根源的に宗教とは決別したところに立っているのだ。
「神=かみ」についての思考は、古代人よりも現代人のほうがずっと平板で通俗的で迷信深い。もともと「神という存在」を知らなかった古代人は、それについて現代人よりもずっとアクロバティックな飛躍をともなった思考をしていた。すなわち、「異次元の場への超出」という試みを持っていたということ。