宗教は人を俗物にする・神道と天皇(49)

民主主義とは、いったいなんだろう。
猫も杓子も政治がどうたらこうたらと大騒ぎして語っているが、政治がそれほど立派なことだとは思わないし、国を背負って国の将来を決定する資格や権利や能力がいったい誰にあるのかとも思う。彼らは、権力が欲しいのだろうか?国家の未来を構想することは、そのようなかたちで国家を支配したがっているということでもある。ふだんは善男善女の顔をして暮らしていても、心の奥にそうしたえげつない欲望を飼い慣らしているのかもしれない。未来のことなど誰にもわからない。わからないのにそれをあらかじめ決定してしまおうとするのは、「わからない」ということと向き合う覚悟がないということだ。わかっているつもりになって安心したいのだろう。
すべての人にとって好都合な未来などつくれるはずがないし、誰もが納得できる理想をいったい誰が提出できるというのか。また、未来の社会において最善の選択は、未来の社会においてしか決定できない。未来の人たちの社会のかたちを、われわれが勝手に決定して押し付けてしまっていいのか。
誰の脳みそだろうと、未来を決定できるほどの能力なんかないのだ。あなたの脳みそが、いったいどの程度のものだというのか。たとえ大天才だろうと、そんな能力はない。いや、大天才はそのことをちゃんと自覚していて、凡庸な脳みその持ち主ほどエラそうなことをいいたがる。そこのところでわれわれは、もう少し謙虚になってもいいのではないだろうか。

「われわれは何処から来て何処に向かうのか?」などという。
しかし、どんなにたくさんの記憶があっても過去のことなど再体験できないのだし、過ぎてしまえばなかったも同じなのだ。そして、未来が存在するかどうかなんて、誰にもわからない。確かなことは、「今ここ」にこの世界がありこの生があるというだけのこと。どこまで生きたって、「今ここがある」ということしかわからないのだ。われわれは、そういう「今ここがある」ということの不思議と輝きに驚きときめきながら生きているだけではないか。
政治家も宗教家もどうしようもない俗物ばかりだし、民衆だっていっぱしの政治評論家のような口を利く。彼らはみな現在の呪術師であり、その「現実を考える」ということそれ自体がオカルト以外の何ものでもない。現実とかかわらない呪術師など、世界中のどこにもいない。「社会をよくする」とか「病気を失くす」とか、そうやって作為的に現実を変えようとする動機(モチベーション)を持っていない呪術がどこにあるのか。頭の中を呪術に冒されて政治評論家になるのだ。どうしてそんな動機(モチベーション)で頭の中がいっぱいになってしまうのか。これもまあ歴史の流れの避けがたいなりゆきであるのかもしれないが、少なくともそれは古代の民衆のメンタリティではなかった。彼らは、政治や宗教を受け入れつつ、しかしそれに対する拒否反応も守りながら神道を生み出していった。
日本列島の民衆の伝統においては、けっして「今ここ」を否定しない。嘆きつつ受け入れてゆく。たやすく外来文化を受け入れてしまうのは、良くも悪くもこの島国の伝統であり、伝統なんか守らないのが伝統なのだ。そうやって明治維新以来の近代化に成功し、敗戦後のアメリカ文化受け入れもスムーズに進んでいった。
今どきの原発問題にしても、民衆の無意識というか社会的な情況においては、否定も肯定もされていない。積極的に推進しようとしている金や権力の亡者たちだけでなく、拒否反応を隠しつつ受け入れている民衆がたくさんいる。これはもう、仏教伝来を契機にして神道が生まれていった情況ととてもよく似ている。
日本列島の民衆は、けっして決定しない。「わからない」という問いの中にたたずんで(あるいは、飛び込んで)生きようとする。いまのところ原発問題は、もっとも素朴な感想においても、もっとも高度な科学的思考においても、けっして解決することのできない問題になっている。

まあこの世界はわからないことだらけだし、宗教者をはじめとしてわかったようなことをいいたがるのは、「わからない」というレベルまで深く問うてゆけるだけの思考力や探求心がないからだろう。
何はさておいても、われわれに意識のはたらきがあるということ自体が、まるでわからないことではないか。意識のはたらきが起きている場所なんか、誰にもわからない。われわれの思考は、その「わからない」というかたちで「異次元の場」を思い描いている。「神」のことにしろ「死後の世界」のことにしろ「霊魂」のことにしろ、わかっているつもりの宗教者よりも、「わからない」と問うているもののほうが、ずっと確かに「異次元の場」をとらえている。
「わかっている」ということは、思考が現世の場に閉じ込められているということだ。「わかる」というそのことが、現世の場の出来事にすぎない。
たとえば、今どきのスピリチュアリストたちは、「ヒーリング」などと称して「意識」を「物質」であるかのように信じている。彼らは、そういう「呪術」を科学であるかのように語る。
「神は存在する」という思考だって、神を「物質」として扱っているからそういうことがいえるのであって、物質はあくまで「現世」の存在にすぎない。
スピリチュアリストをはじめとする宗教者たちの思考は、「あの世」を語りながら、じつは「あの世=異次元の場」に届いていない。
意識を物質だといっている時点で、すでにもうじゅうぶん政治的現世的なのだ。
スピリチュアリストなんて、薄汚れた俗物根性の塊なのだ。彼らの思考=精神に、他界性も純粋さも清らかさも、何もない。金や政治権力の亡者の思考=精神と、何も変わるところがない。そりゃあ、精神が物質であるのなら、支配しコントロールすることもできるだろう。しかしその支配しコントロールしようとすること自体が薄汚れた俗物根性であり、精神が「非存在」の対象であること、すなわち「異次元の場」と向き合うことに耐えられない強迫観念なのだ。

現代社会の高度な制度性は、人の心を「現世=この生」に閉じ込めてしまう。その構造がスピリチュアリストの大量繁殖を生み出した。彼らの心は、世間の垢にまみれて汚れきっている。伊勢白山道も江原なんとかも、どうしようもない俗物ではないか。「霊感がある」というそのことが、その「わかる=見える」というそのことが、「見えない=わからない」という「異次元の場」と向き合う人間としての自然を失っている証拠なのだ。見えてしまったら、わかってしまったらいけないのであり、それは「見えない=わからない」という「異次元の場」と向き合うことができない強迫観念なのだ。
彼らの語る神も霊魂もあくまであくまで「物質」であり、あくまで「現世」の「存在」にすぎない。神道においてそれらは、「存在しないもの=非存在」として認識されている。「神は隠れている」のだ。
スピリチュアリストにとっての神も霊魂も「物質=存在」なのだから、おそらく「物理学」として語ることができるに違いない。神も霊魂も信じない物理学者にとってはいい迷惑だろうが、宗教だって物理学に負けないくらい現世的なものなのだ。
神や霊魂や生まれ変わりが「見える=わかる」だなんて、どうしようもない俗物のいうセリフなのだ。そんなことくらい、思い込みさえ強ければ、誰でも体験できる。そんなことをいいたがるすれっからしの俗物なんか、世の中には掃いて捨てるほどいる。
まあ昔も今も、呪術師・霊媒師になる修行は、徹底的に自分の心=意識を支配しコントロールしてゆくことにある。つまりそれは、心=意識が自分に貼りついて離れなくなってしまっているところの「けがれ」の状態なのだ。
べつに呪術師でなくても、たとえば世の中の人格者ぶった俗物たち、彼らの、人に対する憎しみを持たない方法は、徹底的に自分は正しく清らかで選ばれ存在だと思い込むことによってその憎しみを心の奥に封じ込めてしまうことにある。
しかし、最初から憎しみなんか持たなければ、そんな必要もない。生まれたばかりの子供のように、自分を忘れて他愛なく世界や他者にときめいてゆくことができるものたちはそんなややこしい手続きなど何も必要としていない。それに対してややこしい手続きで無理やり封じ込めていても、あるとき突然吹き出したりするし、いつも吹き出しそうな自分と戦っていなければならない。そうやって心が停滞し病んでゆく。
自分の心=意識を人間性の自然に向かって解き放ってしまえば、世界は何もかもわからないことだらけで、ただもう無知な存在としてその不思議に他愛なくときめいてゆくだけになる。そしてそれが、神道における「みそぎ」にほかならない。
スピリチュアルの人たちは、「わかる」ということの「けがれ」をなぜ思わないのだろう。
「神」を知っていることなんか、なんの自慢にもならない。
神は「存在=物質」であるのか。
「神は存在する」だなんて、なんと通俗的な認識であることか。

神道の本領は、「わからない」という場に立って、無心になって「神とは何か?」と問うてゆくことにある。だから「神は隠れている」という。神道における神は、「非存在」で「非物質」なのだ。
神は、「言葉」である。すなわち、「非存在」の対象であるということ。「言葉=意識」が生成する「異次元の場」こそが、この生をこの生たらしめ、この世界をこの世界たらしめている。仏教伝来とともに「神」という概念と出会った日本列島の古代人は、本能的にそうした哲学的な問題と向き合った。彼らは、この生やこの世界の本質を言い当てる言葉を模索した。そうして、「神(ジン)」という漢字を「かみ」、「仏(ぶつ)」を「ほとけ」と、やまとことばのニュアンスに添うように読み換えていった。
「ほとけ」の「ほと」は、「中心」「本質」「根源」の語義。だから、女の性器ことを「ほと」という。「ほんと」は「ほと」から派生した。「ほとほと」とは、「まったくもって」ということ。
そして「け」は「蹴る」の「け」、「分裂」「異質」「異次元」の語義。
「ほとけ」が「異次元の場」をあらわす言葉だとしたら、「かみ」は、「かむ」という動詞をそのまま名詞として使ったりするように、「異次元の場に気づく体験」をあらわしている。
仏教の教えがなんであれ、日本列島の住民は、「悟りをひらく」ことは「異次元の場に超出する」ことだと考えている。まあ「みそぎ」という体験が、ひとつの「悟入=涅槃」だといえる。あるいは、「みそぎ」とは「自分をそぎ落として森羅万象に溶けて消えてゆく体験」のことをいうのだとすれば、そこに「寂滅」という仏教用語を当てることもできる。
仏教伝来に際して日本列島の民衆は、仏教を受け入れつつ、それを宗教としてではなく、哲学的な問題として読み換えてゆき、神道を生み出していった。
仏教が「悟り」を説いても、そのときすでに「みそぎ」の文化を洗練発達したかたちで持っていた。
「ほとけ」という読み方の起源は、もしかしたら仏教が説く「悟り」とか「解脱」とか「涅槃」とか「寂滅」といった境地のことを指しているのかもしれない。つまり、たとえば阿弥陀如来そのものではなく、阿弥陀如来のキャラクターのことを「ほとけ」といったのかもしれない。阿弥陀如来による救済や恩恵が欲しいのなら、阿弥陀如来そのもののことを「ほとけ」というに違いない。しかし日本列島の古代の民衆は、そんなことよりも、仏や仏の弟子の神がそなえている「キャラクター」に関心があった。そしてそんな「キャラクター=悟りの境地」は、自分たちの歴史風土である「みそぎ」の文化・習俗で間に合うと持った。そうやって神道が生まれてきたのではないだろうか。彼らは、「異次元の場への超出」としての「悟り」に興味はあっても、仏との「支配=被支配」の関係による「戒律」とか「救済」というようなことはどうでもよかった。それまでの日本列島の歴史に「呪術」など存在していなかったからだ。彼らには、神仏の恩恵を欲しがったり、戒律に縛られたりするようなメンタリティはなかった。
今でも日本人は「悟り」という言葉が好きだし、仏教の「戒律」なんか、僧侶の世界でも歴史とともにどんどん有名無実化していった。それはつまり、仏に支配されることも仏の恩恵を受けることどうでもいい、ということだ。
現代人はけっこう「神頼み」をするが、古代の民衆は、われわれよりもずっと知的で哲学的に仏教と向き合っていたのだ。そうでなければ神道が生まれてくるはずがない。