おみくじ考・神道と天皇(50)

仏教は疫病を鎮めるための呪術として輸入された、と歴史文書には書かれてあるらしい。そのとき既成の神道と新規参入の仏教が呪術力を競ったのだとか。ばかばかしい。そのころの民衆は呪術などというものは知らなかったし、呪術としての神道など存在していなかった。権力者が勝手に「仏教の呪術を導入すれば疫病は鎮まるかもしれない」と発想しただけのこと。権力行使して作為的な生き方をしていれば、どうしてもそういう発想になってくる、というだけのこと。民衆は、そんな横着なことで疫病が鎮まるということなど信じていなかった。感染者は家の外に出さない……昔も今もそれがまず第一のことで、それが「生活の知恵」というものだろう。
自然というのは人間の手に負えることではなく、呪術に頼りたくなるのが人情だといっても、それで文明・文化が進歩するはずもない。四大文明発祥の地がその後の歴史においてしだいに世界から取り残されていったのは、いち早く「権力志向」や「呪術志向」を発達させてしまったからだ。そこではそのような志向が権力社会だけでなく、民衆にも共有されていた。そうやって西アジアではイスラム教一色になっている。
どんな考え方をすれば女を黒いベールの中に閉じ込めてしまうような社会をつくれるのか、日本人にはさっぱりわからない。
まあヨーロッパでもキリスト教一色だともいえるわけだが、彼らはつねに無神論者との確執を抱えて歴史を歩んできた。ヨーロッパにおける無神論神道みたいなものだし、学問の世界においては、キリスト教の世界観を否定するような学説を次々に提出してきた。彼らは、キリスト教に対するカウンターカルチャーとしての「学問」を進化発展させてきた。

古代の日本列島の民衆は、仏教に対するカウンターカルチャーとしての神道を生み出していった。そしてそれが権力によって駆逐されなかったのは、天皇を祀り上げ天皇と共有している文化・習俗だったからだ。権力者はもう、両方を共存させるしかなかった。そうやって「神仏習合」が進んでいったし、それによって神道にも「呪術志向」が加わっていったわけだが、もちろんそれは起源としての神道のコンセプトではなかったし、今でも日本人全体としては宗教=呪術に染まりきっていない傾向を残している。
神社のおみくじなんか、ただの遊びだと思われているから成り立つのであって、本気で信じてしまうような人間ばかりなら、そのうち神社に火をつけられるだろう。他人の運命をそんな紙切れ一枚で決定してしまうなんて無礼もいいとこだし、その無礼を受け入れることができるくらい宗教心が薄いのだし、そうした理不尽を受け入れてゆくところに日本的なメンタリティの基礎がある。
日本列島は、世界でもっとも支配しやすい住民の土地柄かもしれない。何しろここでは、権力者との「契約関係」もないままやすやすと支配されてしまう歴史を歩んできたのだ。
たとえば、民衆と天皇とのあいだにはなんの「契約関係」もないし、天皇に何かをしてもらうことを期待している民衆などひとりもいない。天皇だって、何かができる権力を持っているわけではない。権力者はちゃんとべつにいるし、彼らはつねに天皇の支配を偽装しながら民衆を支配してきたし、それがもっとも強く支配できる方法だということを本能的に知っている。そうやって彼らは、神道成立の最初からもう、「神仏習合」を進めていった。
民衆は、天皇のいうことならなんでも聞く。日本列島の歴史において天皇は、民衆の前に支配者として現れ立ちはだかってきた存在ではない。民衆が勝手に祀り上げていった対象として登場してきたのだし、祀り上げられていることを受け入れている存在なのだ。
権力欲が旺盛な支配者とはわけが違う、好きで天皇をやっているのではない。しかし、いやがっているのでもない。そんな「自分」など捨てて粛々と天皇をやっている。天皇ほど「自分」を捨てている存在もない。だから、苗字もないし、人間であることすら捨てている。無為の人として、ただニコニコしている。だから民衆も、権力の支配に対して無防備になってしまう。権力なんかいやでいやでしょうがないけど、それでも無防備に他愛なく支配されてしまう。そういう拒否反応を持っているから、無防備になれる。それは、神なんか信じていないからおみくじを引けるのと同じだ。神なんか信じていないから、神を信じることができる。そういうアクロバティックな思考や感受性こそ、日本列島の伝統的な精神風土なのだ。
そのようにしてあの戦争のときは、多くの兵士が「天皇陛下万歳!」と叫んで死んでいった。
運命を受け入れるということ、天皇だって天皇である運命を受け入れて生きている。そういう文化というか精神風土の土地柄なのだ。だから、「おみくじを引く」という遊びができる。おみくじ信じつつ信じていない。神を信じつつ信じていない。運命なんか信じていないから、運命を受け入れることができる。よい運命だろと悪い運命だろうとどうでもいいから、運命を受け入れることができる。神頼みをしてよい運命だけが欲しい、というような厚かましいことは願わない。どんな運命でもかまわないと思い定めて生きている。それは、神を信じないと同時に、信じている態度でもある。

古代人は「蘆原の瑞穂の国は神ながら言挙げせぬ国」といった。それはどんな運命も受け入れるという覚悟であり、もともと人は、そうやってこの世に生きて存在しているのだ。
この世の運命は受け入れるが、この世の運命なんかどうでもいい、「意識」は、この世の外の「異次元の場」に超出してゆく。脳を離れて、脳の外の「異次元の場」で生成している。
心は、「脳=この世」の外の「異次元の場」と向き合っているから運命を受け入れるのであり、すでに心は「ここ」にないのだ。「ここ」にないから「ここ」を受け入れることができるのだ。すべては運命だと信じつつ、運命なんかどうでもいいと思っているから運命を受け入れることができる。おみくじが「凶」と出ても受け入れる。受け入れつつ、心はすでに「運命の外」の「異次元の場」に向いている。
われわれはこの生のさなかを四苦八苦しながら生きてあるわけだが、それを受け入れることができるのは、心がすでにこの生のさなかにはないからだ。
自分が自分であることは受け入れるしかないが、心がときめくことができるのはあくまで自分の外の他者や世界の輝きにある。まあ、そのようにして「自分」というものが成り立っているわけで、自分を知ることは、自分を忘れることだ。「意識」は「自分」の外で生成している。つまり、自分に向きながら停滞し、自分の外に向きながら活性化してゆく。
神道においては「自分=この生」の外の「異次元の場」のことを「かみ」という。「自分=この生」を支配している「神=運命」は、「かみ」とはいわない。政治権力もまあ、「自分=この生」を支配してくる対象であるが、「かみ」とはいわない。「神=運命」と同様に、「自分=この生」を支配してくる対象であるがゆえに「かみ」とはいわない。
天皇は、「自分=この生」を支配してくる政治権力の外にいる対象だからこそ、「かみ」という。古代の民衆と天皇は、「自分=この生」の外の「異次元の場」を共有していた。権力者ばかりが「自分=この生」に執着しながら、「自分=この生」の支配者としての「神・仏」にすがりついている。

現在は民主主義の時代で、誰もが支配者のメンタリティになっているから、誰もが「自分=この生」を支配してくる「神・仏」との関係を結んでしまっている。古代神道はそこから超出した「異次元の場」としての「神」を認識して生まれてきたのだし、その思考こそが日本列島の伝統の精神風土であるというのに。
心は、「この生=自分」を支配してくる「神・仏」との関係を結んでしまうことによって意識が「この生=自分」に滞留しながら病んでゆく。「死後の世界」だの「生まれ変わり」だのといっても、それ自体が「この生=自分」の延長にすぎないのであり、そうした肥大化した自意識とともに心を病んでゆく。彼らの心は、それこそ人間性の自然としての、「この生=自分」の外の「異次元の場」に超出してゆくだけの「飛躍」がないし「覚悟」がない。つまり「自分=この生」の外の他者や世界に対する「反応」を失っている、ということだ。「反応」しないで「支配」することばかり画策して生きている。鈍感なのだ。一日市場世界や他者との関係に積極的でありながら、「反応」しないで、もたれかかって「支配」しようとすることばかりしている。積極的だから、鈍感なのだ。まあ「憎しみ」というのは、支配しようとする衝動が自分の中で逆流している状態なのだ。支配できれば愛だのなんだのというかたちで自己満足してゆけるが、そうやってもたれかかることができないとなると、とたんに憎しみに変わる。
もたれ合って(支配し合って)民主主義の世の中をつくろう、てか?
やめてくれよ、と思う。
民主主義を嫌う右翼のものたちだって、自衛隊の施設に乗りこんで大演説をぶったあげくに腹を切ってみせたあの高名な小説家のように、声高でヒステリックな支配欲の塊みたいな人間ばかりではないか。彼は、何もかもよくわかっていたが、「わからない」という「知の荒野=異次元の場」に立とうとする「覚悟」がなかった。怖くて立てなかったから、何もかもわかっているかのようなことばかりいっていた。
「反応する」とは、「わからない」ことの出現に驚きときめくことであり、この世界は「わからない」ことだらけなのだ。
「意識」が「自分の外」に「反応」できなければ、この生は成り立たない。それは、人間だろうと他の生きものだろうと同じであるに違いない。それが、生きものの「意識」や「命」のはたらきの本質であり、「反応」できなければ生きられるはずもない。自分を愛したり自分に充足してしまったら、外の世界は自分への愛や充足を成り立たせるために支配するべき対象であり、その「わからなさ」に驚きときめくという「反応」ははどんどん失われてゆく。

神は見えない、神はわからない。日本列島の古代の民衆は、そういうかたちで神を信じていった。それは、「わからない」という場に立とうとする「覚悟」の問題だった。
「わからない」すなわちこの生の外の「異次元の場」に立とうとする「覚悟」を持っているから、この生の出来事にすぎないおみくじの「凶」だろうと権力者のひどい支配だろうと受け入れてしまうことができる。
神道では、そういう「異次元の場」のことを「かみ」という。それは、この生を支配する「神」が存在する場所ではないし、現代人の好きな「自己充足」とか「自尊感情」とか「アイデンティティ」というようなものを満たしてくれる場所でもない。
アイデンティティなどないことが、アイデンティティすなわち自己が存在することの証明にほかならない。古代人は祭りの習俗とともに自己の存在がこの世界の森羅万象に溶けて消えてゆくことのカタルシスをすでに知っていたし、そういう生命観や世界観を縄文以来の伝統文化として、きわめて洗練発達したかたちですでに確立していた。
たぶん一神教の人たちは、「おみくじ遊び」に耐えられない。彼らの心は「この世」に閉じ込められていて、「異次元の場」に超出してゆく体験が上手くできない。だから彼らは良くも悪くも大げさな態度で反応するわけだが、それによって「細部」に対する反応が雑になるし、たかが「おみくじ」という細部にすら耐えられなかったりもする。
自分の運命をたかが紙切れ一枚に決めれるいわれはない、といわれれば、まさしくその通りであるのだが。
人間なら誰だって「異次元の場」に超出してときめいてゆくという体験をしているわけだが、一神教が身に沁みついている彼らの心は、日本人ほどそれを細部において体験することはできない。自意識が強いから、細部において自分を消して反応してゆくことができない。大げさなことを大げさに反応してゆくことで自意識を振り切ってゆく。宗教がというか、一神教のタイトな世界観が、人の心を縛っている。そのために、どうしても細部の扱いが大雑把になってしまう。
まあ宗教による締め付けがあいまいなに日本列島では、そのぶん人と人の関係においても社会の仕組みにおいても、一神教の国よりも「細部」を整えることができている。治安がいいとか、きめ細かいサービスの文化を持っているとか、まあそのようなことだ。
日本列島に比べると、宗教による締め付けが強い欧米や西アジアやインドのほうがずっと治安が悪くレイプ事件も多い。閉塞感(フラストレーション)の強い社会だから、サディズムが肥大化する。
自意識が強いから閉塞感が募る。運命を受け入れることができない。自己実現のために運命を支配しようとする。
まあ現在のこの国でも、クレーマーとかモンスターペアレンツというような人種が増えてきているらしいが、それでも欧米ほどではないだろうし、「おみくじ」という理不尽な習俗もいちおう残っている。