「超越的」ということ・神道と天皇(166)

今どきの政治家や官僚が嘘をほんとうのように言いくるめてくる態度はとても不愉快だし、それでいいのだと応援している一部の右翼勢力もいる。そしてこれは、宗教者と非宗教者、権力者と民衆との対比でもある。
権力志向が強いから、そういう卑劣なことができる。彼らにとって権力は、オールマイティの正義であるらしい。
宗教者は神が存在することは真実だと信じているし、政治家や官僚は何がなんでもそこにスキャンダルがないことは真実だと強弁する。どちらも大した違いはない。どちらもそれを真実だということにして生きようとしている。自分の頭の中で真実をこさえ上げてしまうことに変わりはない。彼らには、客観的な真実に対する謙虚さがない。自分の脳内世界に対する執着が強い。つまり、自我の問題というか、自意識過剰なのだ。
嘘をほんとうのようにいうことと、嘘を嘘と承知しながら楽しむこととは違う。虚実の被膜……この問題はややこしい。
古事記の物語なんかぜんぶ嘘に決まっている。「神武東征」の話は、古事記が生まれてきた時代の千年前の話である。べつに千年前から語り継がれてきたわけではない。そのとき千年前を想像しただけであり、嘘を承知でおもしろい話を思い浮かべただけのこと。
古事記の記述に隠された史実を探るというのはナンセンスであり、そこに隠されてあるのは、史実ではなく、古代人の心映えなのだ。
まあ、天武天皇のそばの権力者たちが仏教推進派の蘇我氏一族を排除するためのプロパガンダとして編纂された、というようなことはあるのだろうが、ここでのいちばん大きな問題は、古事記に記されている神道の「迦微(かみ)」とはどのようなイメージだったのか、ということにある。

そのとき古代人は、「この島国の千年前は<かみ>の世界だった」と想像した。しかしその「かみ」を語るのに、古事記ではなぜ外来の「神」という字を使わなかったのか。
それは「かみ」であって、「神」ではなかった。そのとき彼らは、「かみ」という音声の言葉で遊んだだけであって、「神」を信じたわけではなかった。彼らは、仏教が教えるところの仏の弟子としての「神」という存在に興味はなかったし、もともと土着の「かみ」という概念があったのなら、仏教の教えのそれとは違うのだから、「神」という漢字なんか当てない。
そのとき古代人は「神(ジン)」とは何か、と問うた。そしてそれをやまとことばに直すなら、「かみ」というようなニュアンスのものか、と思った。
というか、彼らは遠い昔のことを「上代(かみよ)」と呼んでいた。もともとやまとことばの「かみ」は、「遠い昔」とか「奥地」とか「おおもと」とか「本質」とか「証拠」というようなことをあらわしたのであり、それは、古代以前の日本人は「神」という固有の存在など知らなかったことを意味する。
「かみ」とは遠い昔の森羅万象の本質である……ということだろうか。
この生この世界は夢まぼろしであり、その実体=真実=本質は「遠い昔」すなわち「異次元の世界=他界」にある、と彼らは思っていた。「今ここ」の目の前にあるのは、「実体」ではなく、「実体の残像」にすぎない、と。
まあ目の前の世界の画像は、網膜に映ったものを脳で処理したあとに浮かび上がっているのだから、われわれが見ているものはすべて「残像」であるともいえる。目の前のすべての画像は、一瞬遅れて脳内で認識される。とすればわれわれの無意識は、そうしたリアルタイムを生きられないことのもどかしさを本能的に感じているのかもしれない。
この生は、「一瞬の遅れ」として生成している。街角で出会った知り合いの人に、一瞬のタイミングを逃して挨拶しそびれてしまう……まあそのようなことで、後悔の連続こそが人生だ、ともいえる。
われわれは、この世界の「残像=面影」の中で生きている。すべては「夢幻(ゆめまぼろし)」であり、「真実=本質」はつねに「今ここ」の過去もしくは未来のもとにある。そのもどかしさの中で古代人は、千年の未来を夢見、千年の過去を追憶した。
古事記は千年の過去に思いを馳せる物語であり、法隆寺薬師寺を建てた大工たちは千年先の未来まで残ることを想定して細工を施していた。
千年前の過去も千年先の未来も、「今ここ」から見れば「他界=異次元の世界」でしかない。「かみ」はそこにいるし、その遠い異次元的な隔たりのことを「かみ」という。

「かみ」とは、森羅万象の「真実=本質」のこと。そしてそれはけっして「今ここ」にあらわれる「存在」ではなく、つねに遠い過去あるいは未来の「他界=異次元の世界」に「隠れている」ところの「非存在」の対象だった。
つまり「かみ」は、「実体」としてではなく、「残像=面影=夢幻」としてあらわれる。
本居宣長小林秀雄は、「かみ」は「かむ」の体言である、といった。
「かむ」とは「気づく」こと。「考える」の古語は、「かむがふ」。
食い物を噛めば、食い物の「味」に気づく。その「味」は、食い物の「残像=面影=夢幻」にほかならない。そうやってこの生は一瞬遅れて体験されるのであり、「実体=真実=本質」はその向こうの「他界=異次元の世界」に「隠れている」のだ。
まあ能の舞台のクライマックスは、「今ここ」が「他界=異次元の世界」に溶けて「残像=面影=夢幻」が出現する体験にあり、この生が避けがたく「一瞬の遅れ」として体験されるほかないことの「なやましさ・くるおしさ・もどかしさ」をあらわしている。
ともあれキリスト教や仏教の「神・仏」が「実体」であるとすれば、神道の「かみ」は、永遠に「実体」と遭遇することができない絶望(=なやましさ・くるおしさ・もどかしさ)の中で、その「真実=本質」を追憶し憧れることにある。
つまり、「真実=本質」を問い、探究することを、「かむ」という。
日本人は、探究心は旺盛だが、「存在」に対する執着はない。「自己」や「存在」に執着し縛られることは「けがれ」であり、「非存在」としての「他界=異次元の世界」に超出してゆくことを「みそぎ」という。
「何もない」ことほど「清浄」なものはない。これが日本列島の伝統文化の美意識というか価値観というか、その究極のかたちであり、そこに「かみ」がいる。
日本列島の「かみ」は「存在」ではなく「本質」であり、それは、古代および古代以前の民衆は「物」を「所有」することよりも「物の本質」に「気づく」ことすなわち「ときめく」という体験を生きてあることのよりどころにしていた、ということを意味する。彼らにとって確かなことは「この命」ではなく「この心」だったのであり、それはデカルトが「われ思うゆえにわれあり」というような一種の普遍的な実存体験だったのであり、もともと人類は世界中どこでもそのようにして生きていたのだ。

人は根源において、「所有」することよりも「気づく=ときめく」体験をよりどころにして生きている。そしてこれは「もの」だけのことではなく、「知識を所有する」ことよりも、「なんだろう?」と驚きときめきつつ問うてゆくことのほうが知的な体験としてより深く充実している、ということでもある。
人は「自然」を愛しているのではない。「自然」に宿っている「本質」を問うて歴史を歩んできたのだ。そうでなければ、木を切って家を建てることも土を耕して田や畑をつくるということもしない。ひとまずそれは、自然破壊なのだから。その行為は、自然の本質に気づいてゆくことのときめき=よろこびの上に成り立っている。
日本列島の古代および古代以前の民衆は、「自然の本質」および「自然の本質に気づくときめき」を「かみ=かむ」といった。彼らは、自然だろうと神(仏)だろうと、「存在」そのものにはあまり関心がなかった。人類普遍の「無意識=本能」として、「何もない=青い空」に対する「遠い憧れ」があったわけで、それはつまり空の青さの「本質」を問うている態度にほかならない。
二本の足で立ち上がって青い空を見上げた原初の人類は、そこに宿っている「本質」という名の「非存在」に驚きときめきつつ「なんだろう?」と問うていった。
人類学者は、人類の知能の進化の契機を「象徴思考」を持ったことにあるというが、「本質」を問うことは、具体的な「存在=物質」を離れたひとつの「抽象思考」であり、「象徴思考」とはちょっと違う。
たとえば、言葉はひとつの「象徴」であるというが、言葉が生まれてくる前に言葉を「象徴」として思い浮かべた、ということは論理的にありえない。言葉を知らない段階で言葉を思い浮かべることなどできるはずがないではないか。それは、思わず口の端から漏れ出た音声が何かの「本質」を表出していることに気づいていったのがはじまりだった。言葉を「思い浮かべた」のではなく、この世に言葉が生成していることに「気づいた」のであり、「抽象思考によって、その音声という「非存在」の現象に何かの「本質」が宿っているのではないかと問うていったのだ。
「非存在」、すなわち人は、この生この世界の外の「他界=異次元の世界」について考えることができる。そうやって思考を飛躍・展開させてゆくことができる。
日本列島は、世界でいちばん遅く「神」という概念と出会った地域のひとつである。そして、だからこそその概念をもっとも正確にとらえることができた。
もしも神が「超越的」な対象であるのなら、現世的な「存在」であってはならない。仏教伝来のときの日本人は、そう考えた。すなわち、徹底して「抽象的」「異次元的」に考えた。そうして、神道および古事記の「迦微(かみ)」という概念が生まれてきた。
まあ、イスラム教徒もキリスト教徒も、われわれの神こそが本物の神だというのだろうが、もっとも「超越的」であるのは神道の「かみ」であろうと思える。
人や世界を「裁く」神など、あくまで現世的な文明国家の制度・権力とたいして変わりはない。
超越的な「かみ」は、何も裁かないし、何も救わない。救われないというそのことを肯定している。「何もない」ことこそもっとも「清浄」である、ということ。それが、神道の「かみ」だ。