内田樹という迷惑・雑感

飯島愛が死んだことに、「女36歳、マリリン・モンローもこの歳で死んだ」と自分のブログでコメントしている人がいる。
へえ、世の中には同じようなことを考えている人がいるものだ、と思った。僕も、真っ先にそのことが思い浮かんだ。
人は、死に向かった生きている。しかし、そのように生きられる人はまれだ。誰もが、たとえば「原初の人類は手に棒を持って戦うために直立二足歩行をはじめた」というような「目的論」で生きている。生きることに向かって生きている。そうやって、死ぬわけにいかない生を生きている。
われわれは「すでに生きている」のであって、生きるために生きているのではない。しかし「すでに生きている」ことに気づくことは、とてもむずかしい。死んでしまうことを体験しないと気づけない、というくらいにむずかしい。
彼女は、「すでに生きている」生の状態を生きていた。死にそうになりながら生きていた。
世の中には、そういう人がいる。
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このブログを開いて、二年が過ぎました。
ネアンデルタールのことを書けるだけ書いてみようというつもりだったのだけれど、いつのまにか行き当たりばったりの内容になり、気がついたら二年です。
そう長くつづけられるとも思わなかったのに、どんどんやめられなくなっていった。しんどくて、もうやめようもうやめようと思いながら、やめられなくなっていった。
はじめたとき、コメントなんか一年に一つか二つあるくらいのものだぞ、とこの道の先輩からいわれていたからそれはまあ当てにしていなかったのだけれど、けっこういろんな人からコメントがきて、それがきっかけになってじぶんの書きたいこともどんどん変わっていった。
なんだか、あっちふらふら、こっちふらふら、という進み方になってしまった。そしてそれは、思いもよらぬ胸躍る体験であると同時に、書きつづけることはこんなにもしんどいことか、と思い知らされることでもあった。
いや、ほんとにしんどいです。しかし、しんどいからやめられないわけで、退屈して虚脱感に陥るということがない。
何を書いてもいいのなら、書きたいことはいくらでもある。
ただ楽しいだけだったら、とっくに飽きていたと思う。もともと、そういうタイプの人間です。
うれしいコメントもあれば、うっとうしいコメントもあり、なんだかちょっと悩ましいコメントもあった。
僕の書くことは、ある種の人たちの気持ちを落ち着かなくさせてしまうところがあるらしい。
守るべき「自分」を持っている人には、たぶん不愉快な書きざまなのでしょう。
それは、これまで生きてきた体験上でもそうです。そう人に嫌われるタイプでもないのですけどね。ときどき、ものすごく嫌われる。
僕がなついてゆくからいけないのです。
僕のような人間は、ひとりになってしまうことをいつも覚悟していないといけない。そこが、自分のような偏頗な人間に似合いの場所だ、たぶん。
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このところ僕は虫の居所が悪くて、つい過剰に反応してしまうということを繰り返してしまった。
個人的な事情で、自分に対しても人間に対しても「もううんざりだ」という気分を引きずっていた。
その人は、とても誠実でかしこい魅力的な人間だった。世の中の俗物どもなんかとはぜんぜん違う。なのに、その人に反発してしまった。
思春期の子供が、いらいらしてつい親に食ってかかってしまう、というような行為だったのかもしれない。
分をわきまえろ、もう仏教のことを書くのはやめておけ、といわれても、そんなことができないのが僕の性分です。だぼはぜみたいに、あっちこっちの問題に食らいついてゆくのが、このブログのスタイルです。
自分の世界やスタイル(方法)なんか、あるようでない。ないようで、ある。
僕みたいに愚かな人間は、いつも「ここから出直しだ」という気分を持っていないと生きられない。だから、すぐ方針を変えてしまう。「内田樹という迷惑」というサブタイトルを外さないのは、問題からから外れすぎないようにしたいからです。僕がいいいたいのはこのことだ、というテーマ(主題)は、ないわけではない。ただ、毎日が一から出直しだ、という気分を持っていないと、僕のようなだめ人間はもう自殺するしか方法がなくなってしまう。だから、「自分」というスタイル(方法)なんぞにこだわっていられない。
付け焼刃で仏教のことなんか書かないのが、けんめいな身の処し方かもしれない。
しかし、そういうわけにはいかないのです。
恥さらしなレベルの内容かもしれないけど、もう少し仏教のことを書いておきたいのです。
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われわれは、ここで、このレベルで踏ん張ることができなければならない。坊主や研究者をはじめとする仏教のエキスパートのほうがわれわれより「神=仏」に近い存在だと思うべきではない。
僕は、こう思う。誰にとっても、自分より「あなた」のほうが「神=仏」に近い存在だ、と。「神=仏」は「あなた」のそばにいる、と。
僕は、五木寛之氏とかひろさちや氏の書くもののような、自分がさも「神=仏」に近い立場であるかのような顔をして仏教を語ってくる言説は虫が好かない。世間のありふれた坊主連中はなおそんなふうだし、一般人だってそういう立場に立とうとする欲望を持っている。みんな、虫が好かない。そういう「立場」を認めようとしないから、僕は嫌われるのかもしれない。そして、だから自分自身でも、気分よく生きられないのかもしれない。
僕は、「神=仏」からもっとも遠いものとして仏教を語ってみたいと思っている。
神=仏を思うことは、神=仏からもっとも遠い人間になることだ。
秋葉原事件の若者は、「俺なんかぶさいくだ」といった。それは、神から遠いところに立つ意識だ。しかしだからこそ、そこからルビコンを渡って、神になってしまった。それは、一種の「自殺」という行為だった。神からもっとも遠いところに立つものは、自殺するしか「一から出直す」すべはないのか。いじめられた子供だって、「一から出直す」ためにみずからの死を選ぶ。神の立場に立つためには、もうそうするしかないではないか。
えらい人やかしこい人たちが、神の立場に立って、神の立場に立てと迫ってくる。そういう世の中だ。
神の立場に立たなければならないのなら、神からもっとも遠いものたちはもう、ルビコンを渡ってみずからの死を選ぶしかない。
神の立場になんか、立たなくてもいいではないか。神の立場に立つことが宗教であるというのなら、僕は、宗教なんかいらない。
何かを「決定する」こと、何かが「わかる」ことは、神の立場に立つことだ。
いい生き方なんかない、安心立命もない。「一から出直す」ことができるだけだ。われわれは、今さら五木寛之にも内田樹にもキムタクにもなれない。神になんかなれない。幸せになんかなれない。それでも幸せにならないといけないのなら、もう死を選ぶしかないではないか。
幸せなんか、どうでもいいのだ。安心立命なんかどうでもいいのだ。いい生き方なんかどうでもいいのだ。
すべては「空(くう)」だ。そう思い定めて、「一から出直す」しかないではないか。それは、幸せになるためではない。安心立命を得るためではない。いい生き方をするためではない。そんなものは「何もない(=空)」からだ。「何もない(=空)」という事態を体験することの醍醐味があるからだ。「わからない」とうろたえることの醍醐味があるからだ。「幸せではない」と絶望することの醍醐味があるからだ。
人は、不幸や懐疑や絶望の中に飛び込んでゆく。生きてあることのカタルシスは、そこから汲み上げられる。
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人間が幸せや安心立命を願う生き物であるとか、直立二足歩行の起源が手に棒を持って戦う「有能な戦士」になるためのものであったのだとか、もうそんな俗説はうんざりだ。おまえらみんな、ただの俗物だ。そうするしかない状況があって、自然に立ち上がっていっただけだ。「目的」で進化論を語ろうなんて、百年古いし、そう語る根性が卑しい。
人間は「目的」のために生きるのではない。生きてあることそれじたいがすでにカタルシスになっているから、生きてあるのだ。
人間は、「目的」などというスケベ根性で生きているのではない。生き物は、幸せや安心立命が欲しいというスケベな欲望=目的のために生きているのではない。われわれは、「すでに」生きてあるのだ。その「すでに生きてある」ということ自体にカタルシスがあるから、それにうながされて生きているだけだ。
「息をしていることだけでなんだかうれしい」という人がいる。僕は、そういう人から生きることの何であるのかを学ぶ。幸せや安心立命を得ている人のご立派な言説など、どうということもない。そんなことを上手に語れる俗物なんぞになりたいとは思っていない。
人間は、よりよく生きるために二本の足で立ち上がったのではない。うまいものをを食いたくて立ち上がったのではない。食うものなんかなんでもいい生き物になったから立ち上がったのだ。立ち上がることによって、食うものなんかなんでもいい、「息をしているだけでなんだかうれしい」という生き物になったから、立ち上がりつづけたのだ。
そうでなければ、ネアンデルタールが氷河期の極北の地で何十万年も生き続けたことの説明はつかないじゃないですか。
人間は、息をしているということそれ自体からカタルシスを汲み上げることのできる生き物なのだ。そこに、人間であることのやっかいさもよろこびもダイナミズムもある。われわれは、そのことにもっと驚いてもいい。
「息をしているだけでなんだかうれしい」と思えるかどうかは、「空」に対する「決意」の問題だ。そのことを、僕は、仏教を通して考えてみたいのです。いい生き方や安心立命をさがしたいからじゃない。そういう低俗なことは、あなたたちのお任せする。
どんなに生きたっていいのだ。
「空」を体験することは、世にいう「悟り」とか「安心立命」というようなことじゃない。それは、とてもなやましく、くるおしい体験なのだ。
われわれは、ここで踏ん張らなければならない。仏教のエキスパートになるとか、悟るとか、仏になるとか、そんなことはどうでもいいのだ。
われわれは、すでに「何もない(=空)」という体験をしてしまった生き物なのだ。それは、修行によって体験されるのではない。われわれの生きてあるかたち、それじたいが「空」という体験なのだ。われわれはもっとも「神=仏」から遠い生き物であり、だから「神=仏」にひざまずくのだ。
もうすぐみんなが初詣に出かける。それは、幸せになるためではない。そんなことはただのたてまえであって、ほんとうは「神=仏」と出会う「ときめき」を体験できるからだ。だから、「神」でも「仏」でも、どちらでもいい。たぶん、それでいい。