閑話休題・半覚斎氏へ=直立二足歩行の起源

直立二足歩行の起源について、半覚斎氏から反論をいただきました。
前々回の記事のコメント欄における最後の部分です。よかったら、それもあわせて読んでください。
直立二足歩行のことで直接反論をもらったのは、初めてです。そして、こんなに気持ちのいい反論も初めてです。
僕は、ちょっとうれしくなってしまった。
僕が提起した問題に対する真摯で直接的な反論だからです。
イカフライ氏のように、問題に反論するろくな思考力もないくせに相手の人格を卑しめ辱めることだけは超絶技巧だというような反論ではない。
半覚斎氏は、僕の人格を尊重しつつ、問題に直接反論してくれた。それは、とてもフェアで尊敬できる態度です。
いや、尊重してもらえるほどの人格でもないが、イカフライ氏のような低劣な反論とはぜんぜん違う。
イカフライ氏は、一種の偏執狂なのだろうし、僕は、自分の人格を攻撃されることには、ほんとに無力です。なぜなら、そのことについては、自分自身が身にしみて感じていることだからです。イカフライ氏は、他人の人格を卑しめ辱めることにかけては、エキスパートです。そして僕は、卑しめ辱められることにひといちばい無力です。
僕は、自分の人格にうんざりしている。僕の人格をうんぬんされたら、僕はもうお手上げです。反論のカードなど何もない。せいぜい、そういう不毛で下司な論争はほかでやってくれ、といえるだけです。世の中には、そんな論争の仕方の腕を上げることに血道を上げている人がいるらしい。僕は、相手の人格を卑しめ辱めることも、卑しめ辱められることに反撃することも苦手です。だからこれからも、イカフライ氏とおぼしき人のコメントは、削除しつづけてゆくつもりです。
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で、半覚斎氏は、「原初の人類は、手に棒を持って戦うために立ち上がったのだ」と反論してこられた。
「手に棒を持つため」・・・・・・おそらく、世の中のほとんど人がそう思っている。今西錦司をはじめ、そういっている学者も大勢いる。
そのほか、自分を大きく見せるためとか、直射日光受ける部分を少なくするためとか、背骨が突然変異したからとか、学者の説もまあいろいろあるが、僕はそれらののどれも全部アウトだと思っている。
僕が考えていることを手みじかに言えば、「群れが密集しすぎて体をぶつけ合う機会が多くなり、そのうっとうしさから逃れようとして自然にそうなっていったのだ」ということです。ふつうそうなれば、群れは分裂したり、余分な個体を追い出したりするのだが、それができないでしかもなお個体数が増えつづけるという、ある奇跡的な条件があった。そう考えなければつじつまは合わないし、そう考えればつじつまは合う。
したがってそれは、みんなが一斉に立ち上がった、ということになります。現在のアマゾン奥地になぜか直立二足歩行する猿の一集団がいて、それを観察すれば直立二足歩行の起源がわかるようになる、と一部では色めきたっているそうです。その猿たちが人間化するためにはなおさまざまなファクターを要するわけだが、それを語り出すと話がややこしくなるから、ひとまずスルーします。
とにかくこのことに関しては、僕は、世界中を敵に回すつもりで発言している。だから発言の大義名分を与えられたことも、ちょっとうれしくなった理由の一つです。
でも、本格的に語ろうとしたら、一冊の本を書くくらいの量になってしまうから、それはやめておきます。
直立二足歩行の起源に関しては、僕は子供のころからずっと考えつづけてきました。だから、そうかんたんには譲れない。
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手に棒を持てば、戦いは有利になるか。
ただの猿がそんなことをしても、一撃で相手の急所を叩きのめすというような器用なことはできない。威嚇のためにときどきそんなこともするが、ふつう、ただ地面に叩きつけているだけです。地面に叩きつけていったん動きを止めなければ、振り回しつづけることはできない。それをしないと、振り回した勢いで体勢が崩れてしまうのです。「返す刀で」というような動作はできない。
その行為は、仲間どうしで威嚇の道具になるだけであって、敵と戦うことはできない。やっつけるためというより、俺はこんなこともできるんだぞ、という自己顕示ですね。やっつけるためなら、何も持たない四足歩行の姿勢になるのがいちばん効率的で有利なのです。
じっさい彼らはそうやっているし、相撲やレスリングだって、そういう姿勢をとるじゃないですか。
猿が手に棒を持って振り回していたら、ふらふらして、かえって不利なのです。
ましてやライオンなどのより強い相手にとっては、なおさらし止めやすい獲物になってしまう。
より強い相手と出会ったら、逃げるのがいちばんです。これが自然の法則です。
戦うことを知ったものから順番に滅びてゆく、これも自然の法則です。
弱い生き物は、逃げたり隠れたりする能力を捨てたら生き延びられない。そして二本の足で立ち上がることは、逃げる能力を失うことです。
人類の直立二足歩行は、サバンナの平原ではなく、森の中で始まった。これは、いまや考古学の定説になりつつあります。森の中のように障害物があってアップダウンも多い場所では、四足歩行のほうがはるかに俊敏に動き回ることができる。
サバンナだって、四足歩行のほうがずっと早く走れる。
原初の人類が手に棒を持って戦えるようになるまでには、何百万年もかかっているのです。したがって、そんなことを生き延びる戦略にしていたら、その間にとっくに滅びてしまっているはずです。最初は、仲間どうしの戦いにおいても、手に棒を持っているほうが不利だったのです。
人類がただの石ころを石器として使うことを覚えたのは、直立二足歩行をはじめて四百万年後の、約三百万年前くらいのことです。この「四百万年」の意味は、小さくないですよ。もし手に棒を持つために立ち上がったのなら、石器だって、もっと早く発見していたはずです。この四百万年の空白の意味を、人類学者は誰も説明できない。できるはずがない。それは、手に棒を持つために立ち上がったのではない、ということを意味しているだけなのだから。
それくらい不利な姿勢でなぜその間を生き延びることができたかったというと、たぶん、仲間どうしの連携プレーを覚えていったからでしょう。
何はともあれ、人間は、助け合う生き物です。それによって生き延びてきたのであって、戦う能力を発達させたからではない。
人類が直立二足歩行をはじめたことによる最大の変化は、手に棒を持って戦うことを覚えたことにあるのではない。正面から抱き合ってセックスする生き物になったことにある。それによって一年中発情しているようになり、弱さを補って余りある繁殖力を獲得した。その繁殖の勢いで四百万年後にサバンナに出てゆき、石器を作ったり手に棒を持って戦うという「文明」に目覚めていった。
その四百万年のあいだ、人類は、弱さゆえの、死と繁殖力の競争をけんめいに繰り返していたのです。そうして繁殖力が死を凌駕するようになって森の中の個体数が飽和状態に達したことと、地球環境の乾燥化による森の減少が相乗効果になり、サバンナに出て行った。
その四百万年のあいだ、人類は、死と誕生を見つづけていた。
半覚斎さん、手に棒を持って戦うことは、「文明」なのですよ。「人間性の基礎」ではない。
「人は心を許せる相手と立って過ごさない。戦うために<立つ=起つ>のだ」とあなたはおっしゃるが、心を許せる相手と旅をすることは、人間の楽しみのひとつでしょう。弥次喜多道中のように。
原初の人類は、二本の足で立って歩くことによって、他者と「出会う」ことの「ときめき」を発見したのであって、戦うことを覚えたのではない。僕は、そう思っている。そして戦うことを否定するつもりは毛頭ないが、それはまた、そのあとに生まれてきたいわば「精神性=文明」の問題であるはずです。
このことは、「文科系」の思考を拒否されている「もいかい」氏や、できるだけたくさんの人の意見を聞きたいと思っています。
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ともあれ、半覚斎氏の意見の主旨は、人間は戦う生き物である、ということにあります。
それは、たしかにそうです。
僕だって、直立二足歩行やネアンデルタールのことで、世界中に宣戦布告する気分でこのブログをはじめたのです。
無名の庶民の、ひとりぼっちの戦いです。けっこうしんどいです。僕には学者という社会的な権威がないから、そうかんたんに誰も認めてくれない。僕には論文を提出する能力もないし、機会もない。友人にすら認めてもらえない。権威をもたないのは、悲しいことです。
それでも、世界中の人間に「そんなことあるものか」といいたい気持ちが抑えられない。僕が何も言わなかったら「人間」の真実が滅びてしまう、という思いがないわけではない。あの連中の思考停止した制度的な「談合」で決め付けられたらたまらない、と思う。
ひざまずく人間は戦わないかといえば、そういうことではない。
「金持ちけんかせず」というじゃないですか。神の立場に立っているものは戦わない。神にひざまずいて「ひとり」になっている人間は、戦わないと生きてゆけない。ひざまずくものが、戦うのだ。「人間という制度」が、たえず僕を押しつぶそうと迫ってくる。僕の敵は「あなた」ではない。「人間という制度」だ。僕は、「あなた」にひざまずくものでありたい。 僕は、「人間という制度」から僕自身や「あなた」、すなわち「人間」を救出したいと願っている。
僕は、この社会の制度性と和解できない。制度にはしたがうが、和解はしない。「したがう(=恭順する)」ことと「ひざまずく」ことは違う。僕は無力だから、社会の制度には恭順するが、ひざまずきはしない。「あなた」にひざまずく。
僕は、「あなた」を「尊重」しない。ときめくことはしても、尊重できるような能力は持ち合わせていない。また、「あなた」と「分かり合える」とは思っていない。そうかんたんにわかったつもりになられたら困るし、僕自身、人のことがわかる能力もまるでない。そして、「あなた」を守るために「命をかける」こともしない。かけるほどの命を持っていない。
「ひざまずく」ことは、「恭順する」ことではない。「無力な人間になる」ことだ。そう決意して「あなた」にひざまずいてゆきたいと思っている。
僕は、社会の制度性の範囲で発言しながらこのブログのヒットポイントを増やしてゆくというような器用なことはできない。
人間になついてもそんなものにはなつけない性分だから、このブログをやっているのだ。
僕が、社会の制度性にすりよって発言していると思いますか。