内田樹という迷惑・「ひざまずく」ことと「決意」すること

僕は、「ひざまずく」という言葉を、宗教の「祈り」と結び付けてイメージしていない。
かといって、「捨てないでくれ」とすがりつくこととも違う。
ほんとのところは、自分でもよくわかっていない。
「ひざまずく」とは、ひとつの「決意」のかたちかな、というような気分はある。
弱いものは、決意しないと生きてゆけない。自分が弱いものであると自覚するためには、ある「決意」をしなければならない。
弱いものであると自覚することは、決意して世界や他者にひざまずいてゆくことである。自覚することそれじたいが、ひざまずくことにほかならない。
罪の意識を自覚することは、決意して神にひざまずいてゆくことである。自覚することそれじたいが、ひざまずいてゆくことである。
自分が死んでゆく身であると自覚することは、この世界の自然にひざまずいてゆくことである。自覚することそれじたいがひざまずいてゆくことであり、自覚することは決意することである。
世界も自分もすべて「空」であると思い定めることは、決意によってしか得られない。そんなことを証明できる理論なんかないし、しかし人間は、そう思い定めるほかないかたちで生かされてある。そのとき人は、「空」に向かってひざまずいている。
存在そのものがひざまずくかたちになっている人がいる。誰でもというわけにいかないし、いつでもというわけにもいかない。しかし、チャンスは、誰にもある。
誰もが、どこかしらで「空」を体験しながら生きている。
自分の手を見つめながら、五本の指をアトランダムに動かしてみればいい。指は勝手に動いている。自分は置き去りにされている。その五本の指が動く現象において、自分は空になっている。そして、空になっている、といらだつ自分がある。
「私」が「それはりんごである」と認識するのは、「りんご」という言葉があるからだ。なかったら、永久に「りんごである」と認識することができない。あたりまえのことだが、「私」は、そこに自分がないことに愕然とする。
「空」の体験は、この生のいたるところにある。
いたるところにある、と思うとき、「私」は、自分を失って、何かに向かってひざまずいている。
人間なんかくだらない生き物だと思う。それは、もはや人間でなくなってしまっているからだ。「人間」ではなく、ただの「人間という制度」に過ぎない。誰もがそういう「制度」として生きている。
働くことなんか、ただの制度だ。勉強することも、ただの制度だ。むやみに幸せになりたがるのも、ただの制度だ。物事が「わかる」とか「決定する」ということだって、ただの制度だ。
しかしそれでも、誰もがどこかしらで、不幸に引き寄せられたり、わからないという絶望や不安の中にしらずしらず飛び込んでいったりする衝動を疼かせている。
人は、不幸や絶望から逃れようとしながら、どこかしらで不幸や絶望にひざまずいている。なぜなら、生きてあることのカタルシスは、そこからしかくみ上げることができないからだ。
だから、遊園地でデートして、ジェットコースターの急降下に「きゃあっ」と叫ぶ。
だから、苦労話に力が入る。
だから、「あなた」の悲しみにもらい泣きしてしまう。
誰もがどこかしらに、「人間」である部分を残している。残さなければ生きてゆけるものではない。
われわれは、「人間という制度」に浸されながら、「あなた」の中にふと「人間」を見つけてしまう。
人間は、人間であることを失いながら、人間であることにひざまずいてゆく。