祝福論(やまとことばの語源)・「神話の起源」40

現代では、「科学的な思考」というと、なんだかほめ言葉で、いっぽう「非科学的だ」とか「疑似科学だ」というときは、おおむねけなしている。
人類の歴史は「巨大な脳」を持ったことによって「自己意識」を肥大化させ、ことばを話すようになった……ひとまずこういう文脈で語っておけば「科学的な思考」になるのだそうな。
僕は、こんなものは、他愛ないただのおとぎ話だと思っている。
こういう言い方をする人たちは、本気で「ことばの発生」の現場を想像し、考えたことがあるのだろうか。
ことばは、他者とのあいだの「空間=すきま」に投げ入れられる。
人間が「かしましい猿」になったのは、二本の足で立ち上がったことが契機になっているのであって、「巨大な脳」を持ったことによるのでも「自己意識」を肥大化させたことによるのでもない。
人類がいまのような「巨大な脳」になったのはここ十万年くらいのことで、しかし「ことば」を話せるような特異な喉の構造になってくる現象は、すでに数百万年前からはじまっている。
また、「自己意識」くらい猿でも持っているともいえるし、それは「共同体」の中に置かれたことによって生まれてきた比較的新しい意識だともいえる。
いずれにせよことばは、それらのこととは違う位相の意識から生まれてきたのであり、「巨大な脳」も「自己意識」も関係ないのだ。
そして、「神は死んだ」とか「人間はけっして神になれない」などといえば賢くて科学的な思考になるかといえば、これもまたナイーブな感傷に過ぎない。
われわれはそういうことを自覚しなければならないのではなく、人間は神を信じたり神になってしまったりする生きものである、ということを自覚するべきだと思う。
なぜなら、われわれが「自分はこの世界に存在する」と思うこと自体が、すでに神を信じるのと同じ位相の精神による「超越的な飛躍」にほかならないからだ。
「自分はいま生きている」とか、どうしてそんな途方もないことを当たり前のように信じてしまっているのか、と思うと、僕はときどき空恐ろしくなる。
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人間は、科学的客観的な真理だけを信じるのではない。
「信じる」とは、超越的な心の体験である。
人は、科学的客観的な真理だから信じるのではなく、その「超越性」に心ときめくことによって信じてゆく。
言い換えれば、その科学的客観的な真理が信じられるのは、われわれがふだん信じてしまっている何かに対して超越的であることを示しているからだ。
たとえば、空は、巨大な青い壁のように見える。どうしようもなくそう見えてしまう。そうとしか見えない。なのに科学は、そこは何もない永遠の空間である、という。空は青い壁であるという生活世界の主観的事実に対する、空は果てのない空間であるという科学的客観的真理、その「超越性」において科学が信じられてゆく。そのとき人は、科学的真理のその「超越性」に驚きときめいるのだ。
「ときめく」という心の動きなしに「信じる」という心の動きは起きてこない。
神は、現実の生活世界には存在しない超越的な存在であることによって、はじめて信じられてゆく。嘘っぱちでも、ときめきをもたらすほどに超越的なら信じてしまうのだ。
日が昇って日が沈んでゆく、そうやって太陽が地球のまわりを回っていることは、生活世界における主観的事実である。
それに対して科学的客観的真理においては、地球が自転しているだけである、という。それは、誰も実感できない超越的な真理である。みごとに超越的である。だから、信じられる。
人は、その「超越性」において信じるのであって、科学的客観的真理だから信じるのではない。「ときめき」がなければ、信じない。
「地動説」がこんなにも広く信じられているのは、科学的客観的真理だからではなく、「天動説」という生活世界の主観的事実に対してみごとに超越的だからだ。
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人はなぜ、超越的なものにときめくのか。
それは、今ここのこの生が「嘆き」の上に成り立っているからだろう。
人間は、超越的なものにときめいてゆくようなかたちで存在している。
直立二足歩行は、「嘆き」の上に成り立っている姿勢である。その姿勢は、きわめて不安定である上に、胸・腹・性器等の急所を外にさらしているという「嘆き」の上に成り立っているのだが、その「嘆き」から「ときめく」というカタルシスをもたらす姿勢でもある。
そうやって人間の歴史がはじまった。
しかし言い換えればそれは、「嘆き」を失った人間は、ときめく体験もまた失ってゆくほかない、ということでもある。
だから「幸せ」になれば、「もっともっと」とさらなる「幸せ」が欲しくなる。この場合の「さらなる幸せ」とは、「ときめき」のことであり、このとき現在の「幸せ」そのものが「嘆き」の種になっている。
現在の共同体も高度資本主義も、「嘆き」を解消してくれる。そうやって「嘆き」を奪いながら「もっともっと」と追い立ててくるシステムである。
「人間は能動的に生きてゆこうとする存在である」とか「生きものには生きてゆこうとする本能がある」などということは、そうやってシステムから追い立てられている人間の考えることだ。
われわれは、ほんらい「能動的」に生きる存在であるのではなく、システムから能動的にさせられているだけである。
福岡伸一氏とか茂木健一郎氏とか内田樹氏とか、いまをときめく知識人である彼らは、生きものには生きてゆこうとする「生命システム(生命力)」が本来的にそなわっている、とこのごろ盛んにいっておられる。
そんなことがあるものか。
彼らはただ、共同体とか高度資本主義とか近代合理主義とかという社会システムに追い立てられている人間だからそういう思考しかできない、というだけのことだろう。
生命システムはたぶん、混沌とした嘆きとしてはたらいているのだ。そのとき生きものは、生きてゆくなどという能動的な衝動をかきたてるのではなく、何はともあれまずその「混沌」を収拾しようとしているだけだろう。
そして、だからといって「混沌」が収束すればそれでいいというのでなく、そこから新しい「混沌」がはじまることの「ときめき」にうながされて生きているのだろう。
われわれは、生きてゆこうとしているのではなく、生きてゆくほかない「混沌」と「嘆き」の中に投げ入れられてあるのだ。
その「混沌」と「嘆き」を収拾し、さらに新しい「混沌」と「嘆き」の中に入ってゆくかたちで直立二足歩行がはじまったのだ。
はじめから整合的で能動的な生命システムとやらがはたらいているのなら、原初の人類だって、二本の足で立ち上がったりはしない。みずからの完結した「生命システム(生命力)」のままにちゃんと四本足の姿勢をまっとうしてゆくさ。
石ころに動き出そうとするような意志や能動性などない。坂道に置かれるという「混沌」と「嘆き」のなかに投げ入れられたときにはじめて動き出す。生命システムだって、まあ、このように「混沌」と「嘆き」という与件の上に動いているのだろう。動こうとするから動くのではなく、動くようになっているから動くのだ。
最初から生きてゆこうとする整合的な「生命システム(生命力)」がそなわっているのなら、われわれはときめいたりはしないし、この世界の「超越性」に気づくこともない。
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われわれがものを考えるのは、「わからない」という「混沌」と「嘆き」の中に投げ入れられてあるからであって、べつに「わかろう」とする衝動を先験的に持っているからではない。そんな衝動など、社会システムから押し付けられたものにすぎない。社会システムに毒されたものほど、わかろうとするスケベ根性が強く、わかったといって満足したがるし、自慢したがりもする。
「ときめき」とは、「わかった」という満足のことではない。「わからない」というなやましさやくるおしさの中に分け入ってゆくことだ。
考えるとは、「わからない」というなやましさやくるおしさの中に分け入ってゆくことであり、それが「ときめく」という心の動きにほかならない。
恋をするとは、おおむねそうした心の動きであり、そういうなやましさやくるおしさに耐えられない人は、恋なんかやめてさっさと結婚してしまったほうがいい。
そして、そういうなやましさやくるおしさに耐えられない人たちが、「家族」の絆こそこの世でいちばん大事なものだという思想を紡いでいる。で、とりあえずそういう思想にときめいて満足しようとしている。
人間を生かしているのは、わかろうとす衝動でもわかったという満足でもなく、「わからない」というなやましさや狂おしさによってもたらされる「ときめき」なのだ。
女のオルガスムスは、そういう体験としてもたらされる。だから女は「家族」の中にい続けることができるし、男は、「家族」の中で「ときめき」を失って途方に暮れてゆく。
「ときめき」がなければ、人は生きられない。
「ときめき」さえあれば、生きられる。
ともあれ近代や資本主義に毒された人たちの科学的思考とやらが浅く広く知識のつまみ食いのようなことばかりに終始しているのは、「わかった」という満足だけがあって、「わからない」ということに分け入ってゆくなやましさやくるおしさに耐えられないからだろう。そういう耐えられない心の動きに人を追い立ててしまう社会の構造になってしまっている。そうして、耐えられないものどうしが自分たちの正当性を確認しあって満足している。
それはまあ「好きにやってくれ」というしかないことだが、そういう共同幻想が、避けがたく「わからない」ことのなやましさやくるおしさに分け入ってしまうほかない人たちのその心の動きを否定し、追いつめてしまってもいる。
「わかった」瞬間に思考は停止する。
頭が悪いから思考停止しているのではない。「わかった」ということに満足し、「わからない」ことのなやましさやくるおしさに耐えられないその心の動きが、思考停止をもたらすのだ。
中途半端に頭がいいから思考停止してしまうのであり、近代や高度資本主義に毒されているから思考停止してしまうのだ。
「わからない」ことのなやましさやくるおしさに身もだえしているものたちは、彼らよりずっと遠くまで考えている。
「わからない」ことのなやましさやくるおしさに耐えられない人たちは、けっきょく福岡伸一氏や茂木健一郎氏や内田樹氏らにすがって自分を肯定してもらうしかない。「ときめき」よりも「満足」がないと生きられない人たちなのだ。そういう人たちによってこの社会が形成されている。
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「科学的な思考」は、人を「わかった」という満足にみちびいてくれる。
でも、誰もが、「わからない」ことのなやましさやくるおしさに身を置く「ときめき」がなければ生きられない。
そういうところから「神話」が生まれてくる。
古事記における「スクナビコナ(少彦名)」という豆粒ほどの小さな神は、天の神から地上につかわされ、「オオクニヌシ大国主)」の神を助けながら国づくりを完成させ、最後は粟の茎にはじかれて天に戻っていった。
江戸時代の戯作者であった上田秋成は、「こんないいかげんな話を人々が本気で信じていたなんてあるものか」といって本居宣長に噛み付いた。
しかしこの話に古代の人々はときめいていたのであり、ときめいたということは信じたということである。それはたしかに信じられていた話なのだ。
神の話だもの、いいかげんで超越的であるからこそ深く信じることができる。科学的なありえる話のほうが、ずっと嘘っぽい。
古代の人々にも、それなりの科学的な知識はあっただろう。それでも彼らは、あえてありえない話をつくり、それを信じていった。信じてゆくことによって、人と人や集落間の連携が果たされていった。
また、そんな超越的な話を信じてしまうような生活世界の「嘆き」を彼らは共有していた。
生活世界の「嘆き」が、超越性に気づかせる。
古代の奈良盆地でダイナミックに神話が生まれてきたということは、人々はそれほどに生活世界の「嘆き」を深くしていたということであり、それほどに「ときめき」が豊かに生まれてくる場所だった、ということでもある。
古代の奈良盆地は、けっして住みやすい土地であったのではない。それでも人々が寄り集まってきて神話を紡ぎながらときめき、連携していった。
これは、初期の古代ギリシャでも同じだろう。実際あんな不毛の土地になぜ多くの人が集まっていったのか、謎である。人々はきっと、その住みにくさを嘆きながら多くの神話を生み出し、そのときめきを共有しながら連携していったのだろう。そのダイナミズムによって、ギリシャ文明が花開いた。
古代は、住みよい豊かな土地から高度なな共同体が生まれてきたのではない。
いや、直立二足歩行やことばの起源にしても、人類の文化や文明は、まず住みにくい条件の「嘆き」が「ときめき」へと昇華してゆくカタルシスから生まれてきたのだ。
食い物が豊かな条件のところから文明や文化が生まれてきたのではない。人間の歴史は、「食いもの=幸せ」によってつくられたのではない。
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古代人が超越的な神々を信じていったということは、それほどに生活世界に対する「嘆き」を深くしていた、ということを意味する。
現代人がスピリチュアルの世界に凝るのも、それほどに生活世界を嘆き疲れているからだろうか。
人間がこの世界に対する超越性にときめいてゆくのに、古代も現代もない。何を超越性として感じるかの違いがあるだけだ。
生活世界の現実が違えば、超越性のかたちも違ってくる。
古代社会は、異形の神々の超越性にときめいていった。
現代社会では、科学的客観の超越性にときめいている。「貨幣」の超越性にときめいている。コンピューターの超越性にときめいている。それらはすべて、現代の神々だ。
資本主義社会には、商品という名の「ときめき=超越性」があふれている。
人間は、ときめくという体験がなければ生きられない。ときめきこそ「生きられる意識」だ。
だから現代社会は、際限なく「商品=ときめき」を生産し続ける。
しかしなぜそれほどにも次から次へと生産され続けるかといえば、自分からときめくことができなくなっているからだ。
「商品」によって「ときめき」が生産される。われわれはもう、「商品」によってしかときめくことができなくなっている。
「嘆き」を消去して「幸せ」になることが主題の社会では、「ときめき」もまた希薄になり、それは生産され続けねばならない。
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深く嘆くものは、そう多くのことにときめかない。少ない対象に深くときめく。
古代の奈良盆地の人々は、景観だけに深くときめいて暮らしていた。それ以外の「生活の利便性」などというものは、あまり必要としていなかった。
好きな相手と一緒に暮らせるならあまり多くを望まない、という人は今の時代でもたくさんいるに違いない。
深く嘆くものは、深くときめいている。
深くときめくものは、深く嘆いている。
まあ何のかのといっても、いつの時代も、人にときめくタッチを持っている人と、持っていない人はいる。そして、誰もが、ときめくことができるときとできないときがある。
人間であるかぎり、生きてあることの「嘆き」は誰のなかにも息づいている。われわれの身体細胞は、生きようという方向に整合性を持って組み立てれられているのではない。「混沌」という「嘆き」が揺らいでいるだけだ。しかし、そこから「ときめき」が生まれてくる。
われわれは、生きようとして今日まで生きてきたのではない。今日もまた生きてあることは、ひとつの奇跡なのだ。そして、明日もまた生きてあるかどうかはわからない。
われわれの身体細胞は、「生命力」などという予定調和的なシステムによって成り立っているのではない。