祝福論(やまとことばの語源)・「神話の起源」39

小林秀雄は、「古事記の研究をはじめた本居宣長が最初に直面した問題は、あの荒唐無稽で不合理極まりない話にどういう態度で臨むのか、ということだった」というようなことをいっている。
宣長はそこで、全部まるごと信じて受け止めることにした。そしてその態度は、上田秋成をはじめとするさまざまな方面からの批判にさらされた。
宣長は、こう答えた。
君たちは、そんなにもこの世界の整合性を信じてしまっているのか、と。人間は、そんな心の動きに満足して生きているのか、あんまり青臭いことばかりいうな、と。
つまりこれは、公共事業によって自然破壊をしても「生活の利便性」を追求してゆくことが大事か、自然の景観に対するときめきや安らぎとともに生きてゆくのか、という問題でもあり、宣長にとっては「生活の利便性」という整合的な真実を主張することのほうが、青臭い思考に思えた。
近代合理主義とやまとことばの非合理性。
いったい人間は、どちらの選択をする生きものであるのか。少なくともわれわれ日本列島の住民は、そういう非合理な選択をしてゆくことの「ときめき」とともに生きてきたのである。君たちはなぜそれがわからない……宣長はそういっているのだ。
近代合理主義が目指してきた「生活の利便性」、すなわち「幸せ」。しかし「幸せ」を得た人は、「もっともっと」と、さらなる「幸せ」を目指して際限がない。そうやって死んでゆくことのできない生の中にのめりこんで、近代人は精神を病んでゆく。
「もっともっと」と「幸せ」を願うということは、ようするに「幸せ」そのものを否定していることであり、人は「幸せ」だけではすまない生きものである、ということを意味している。人間は、そういう与件を負っている。やまとことば、すなわち古代の日本列島の住民の心の動きはそういう与件の上に成り立っていたということがどうして君たちにはわからないのだ、と宣長はいう。
人間は「幸せ(=この生の整合性)」だけではすまない生きものであるということ、まあ宣長は、これを、「やまとごころ」と「からごころ」の対比としていったのであるが。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
人は、どのような状況で「信じる」という心の動きをするのか。
この世界は整合的な意味を持って存在しているのではない、この世界に不思議でないものは何もない、人間は整合的な意味を信じて生きているのではない、不思議(=不合理)であるというそのことにときめき信じながら生きているのだ……これが、宣長の主張するところだった。
正しい真実だから「信じる」のではない。
「ときめく」から信じるのだ。
それが信じられるか否かは、ときめいたりおそれたりすることのできる魅力的な「超越性」を備えているかということにある。われわれは、整合的な「意味=真理」を信じるのではない。心ときめく「超越性」を信じるのだ。
だから、「神」を信じてしまうのだ。
「神は信じない」とか「神は死んだ」とか、そんなことをどうこういってもしょうがない。問題は、神を信じてしまっている人がこの世の中にはたくさんいる、人間とはそういう生きものである、ということにある。
彼らは、神を信じ、神にときめいている。
何はともあれ、ときめいたやつが勝ちなのだ。
それは、人間は「幸せ=この生の整合性」だけではすまない生きものである、ということだ。
人を生かすものは「幸せ」ではなく「ときめき」である、ということだ。
だからこそ、どんな荒唐無稽なことでも信じてゆくことができる。「神」でさえも。
われわれは、整合的な意味(=真理)を信じるのではない。心ときめく「超越性」を信じるのだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
人間は、荒唐無稽(不思議)なものにときめき信じてゆく心の動きを持っている。
人間は、「ときめき」を体験することによってはじめて生きることができる。
われわれの生は、意味の整合性による安定・安心だけではすまない。
「ときめき」こそ「生きられる意識」なのだ。
人間が「わかる」ということの安心・安定だけで生きているのなら、原初の人類が地球の隅々まで拡散してゆくことも起きなかったし、われわれが旅に憧れたりすることもない。「神」を信じることもないし、「恋」をすることもない。
女は、男とは別の身体を備えた超越的な存在である。男は、その超越性にときめき、恋をする。
ペニスが勃起することは、その超越性にときめく体験である。
他者とは、「自分」ではない超越的な存在である。その超越性にときめき、関係が結ばれる。
この世界のすべてのものは、「自分(の身体)」ではない超越的な存在である。
こういうことを仏教では、「山川草木悉皆仏性(さんせんそうもくことごとくみなぶっしょう)」という。それらは、「自分」ではないということにおいてみな超越的な「仏」であり「神」である。
いや、みずからの身体もまた、「自分」という意識の外部に存在する超越的な存在としての自然(山川草木)にほかならない。
この生物学的な脳のはたらきそのものが、すでに「自分」ではない。それは「私の脳」であって、「私の脳」ではない。そこでは、「私」という概念は成り立たない。
「私の脳」は、「私」の外部にある「山川草木」であって、「私の脳」ではない。
「私」とは、「私の脳」の外部のたんなる「概念」であって「実体」ではない。したがって「私の脳」などというものはない。あえていうなら、「この脳」といえるだけである。
どうしても認識しきれない「認識の裂け目」というものがある。われわれは、誰もがその「裂け目」を見ている。それが「超越性」であり、「神」という概念も、そこから生まれてきた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
人間は、どんな荒唐無稽なものも信じることができる。「神」ですら、信じることができる。それは、「私」であれこの世界であれ、すべてのものが「認識の裂け目」をはらんでいるからだ。
この世界は、存在それ自体が荒唐無稽なのだ。
古代人がそれを信じ込むことができたのは、それにときめき、それを語り合う場が大いに盛り上がったからだ。大いに盛り上がる話が真実だったのであり、真実として信じてゆくことによって、人と人や集落ごとの連携が生まれていったのだ。
彼らはべつに、「意味」を伝え合ったのでも、「自分=人間」を表現したのでもない。
あくまでも超越的な世界としての「神」を語り合ったのだ。超越的な世界に、いったいどんな「整合性」が必要だというのか。「整合性」のあるものに、どうしてときめくことができよう。どうして信じることができよう。
整合性がないということそれ自体が、「超越的な真実」だったのだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
オウム真理教だろうと、スピリチュアルだろうと、彼らは、それを「整合的な真実」として納得しているのではない。「超越的な真実」としてときめいているのだ。
人は、「整合的な真実」を納得して安心することよりも、「超越的な真実」にときめいてゆくことを選ぶ。
現代社会は、嘘っぱち(=超越性)であることそれ自体に憑依してゆくダイナミズムを喪失して動いてきた。
少なくとも高度経済成長期においては、「幸せ」や「生活の利便性」などという「整合的な真実」ばかりに傾いて、自然の景観が大事だというような非現実的で「超越的な決断」には見向きもしなかった。
オウム真理教もスピリチュアルも、良くも悪くも、「整合的な決断」ばかりの社会の「超越的な決断」として存在してきた。
そして、良くも悪くも、「超越的な決断」を共有してゆくことによって、人と人はより強く結束し連携してゆくのだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「整合的な決断」ばかりの世の中になったら、競争し合って、人と人の心はどんどん離れてゆく。だから、西洋人は、誰もが「孤独」なのだ。とくにアメリカ人の、あんな自意識過剰の「孤独」が、あなたはうらやましいか。彼らは、孤独だから、あんなにも大げさで絶対的な「神」の「超越性」を共有しながら結束してゆこうとする。彼らには、「結束」だけがあって、「連携」がない。彼らは、人と人のあいだに「連携」が生まれてくるような「空間=すきま」を持っていない。「断絶」している。「断絶」しているから「結束」しようとする。彼らは。「整合的な決断=神の裁き」によって結束してゆく。
彼らは、「神」が「嘘っぱち」だとは認めない。少々ややこしいが、彼らの「神」は、超越的にして整合的なのだ。整合的にして、超越的なのだ。
だから彼らは、炭酸ガス排出の二十五パーセント削減などというできもしない目標を立てることができない。
しかしこの国ではいま、その「できっこない」という「超越的な決断」が支持されようとしている。それは、人と人のあいだに「空間=すきま」があって、できなくても許し合えるし、歴史的本来的には、「結束」しないで「連携」してゆく社会だからだ。「整合的な決断」よりも、「超越的な決断」を共有しながら「連携」してゆく社会だからだ。良くも悪くも、「本音」よりも「たてまえ=嘘」のほうが大事なのだ。
どんなに会社が苦しくても派遣労働者の首切りはしない、という非現実的で「超越的な決断」を、いったいどれだけの会社ができたか。「二十五パーセントの削減」とは、そういう決断であり、それがいま支持されているのは、あのときの「派遣切り」という現実的で「整合的な決断」に対する反省というか、反動であるのかもしれない。
派遣切りなどしない、というやせ我慢をできなくなってしまったことが、この国の人と人の「連携」をあいまいなものにしてしまったのだ。
われわれの国はいま、「やせ我慢」を共有しようとしている。それは、けっして悪いことではない。
というわけで、オリンピックがブラジルに決まったのも、めでたいことだ。あんな国などぜんぜん信用できないが、やらせてあげればいいじゃないか。
東京の「整合性」がブラジルの「超越性」に負けたのだ。それは、めでたいことではないか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
神なんか、嘘っぱちだ。その嘘っぱちを真実として憑依してゆく心の動きのダイナミズムを古代人は持っていた。
それは、嘘っぱちであると同時に、嘘っぱちではない。そういう「超越性」に気づいてときめいてゆく心の動きが人間を生かしている。
この世に、「あなた」以外に女(男)はいない、「あなた」こそ女(男)のすべてだ、という「超越性」にわれわれはときめいてゆくことができるか。
少なくとも古代人は、そうやって恋をしていた。彼らは、そういう「嘘っぱち」の「超越性」に憑依していった。
それに対してわれわれ現代人は、そういう心の動きはもはや失ってしまったともいえるし、まれにそうやって愚かな恋にのめりこんだり、ついふらふらっと魔がさして間違いを犯してしまったりすることもある。
われわれのの中にも、古代人の心の動きの痕跡は、ないわけではない。