祝福論(やまとことばの語源)「神話の起源」38

「認識の裂け目」というものがある。何がなんだかわからなくなる。心はそういう事態に陥って、驚いたりときめいたりおそれたりしている。
それを「超越性」という。
いったい、この世界とは、なんなのだ。「自分」とは、なんなのか。「自分」は存在するのか。すべては、はじめから何もないのではないのか……そんな心の動きは、言葉にされないまま、じつは誰の中にもあるのではないだろうか。
われわれはふだん、この世界が存在することも自分が存在することも、当たり前のように認識して生きている。
しかし、心の底のどこかしらで、その認識の危うさを感じている。
人の心は、「認識の裂け目」を持っている。
何もかもその存在を認識できるのなら、驚きもときめきもおそれもしない。
心が動くということは、いつもどこかしらに認識の裂け目を抱えている、ということではないだろうか。その裂け目の向こうに、「超越性」がある。
心が驚いたりときめいたりおそれたりするということは、「超越性」と出会っているということであり、そんな心の動きは、猿でも持っている。
猿でも、認識の裂け目である「超越性」を見ている。
猿でも心は動く。
心が動くということは、「認識の裂け目」を抱えているということではないだろうか。
「あそこにりんごがある」と認識し、そのあとに「ここに鉛筆がある」と認識する。「ここに鉛筆がある」と認識するとき、「あそこにりんごがある」という認識を喪失している。「あそこにりんごがある」という認識で、「ここに鉛筆がある」という認識はできない。
この二つの認識のあいだに、「認識不能」という「裂け目」がある。
つまり、意識は一本の線のようにずっとつながってはたらき続けているのではない、ついたり消えたりしていっている。
消えている瞬間、というのがある。
心は、「消えている瞬間」を持っている。それが「認識の裂け目」だ。
生きものの意識はみな、一瞬一瞬ついたり消えたりしている。
生きものの意識はみな、「認識の裂け目」を持っている。
だから、いろんな心模様が生まれてくる。
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われわれは、なぜ同じ心のままに生きられないのだろう。
心なんかなければどんなに楽かとも思う。
しかし、心がなければ、楽だと思うこともない。
嘆きがなければ、ときめくということもない。
認識不能の瞬間から、ときめきが生まれる。
認識不能に陥ることの小気味よさ、というのがある。
小林秀雄がいったように、花の美しさを吟味するのではなく、「美しい花がある」とまるごと世界を受け入れてしまっている瞬間は、たしかにある。
「無心」という心。「無私」という私。
認識不能に陥ったあとの、世界を事後的に認識することのときめきがある。
この世界や他者に対して、自分を忘れて見とれてしまうというタッチを持っていないと、貧しいものや弱いものは、生きることがしんどいものになってしまう。世界や他者を吟味していると、よけいにしんどくなってしまう。
吟味するような目で他人を見るものじゃない。呆けて見とれていればいいだけのこと。
「ときめき」は、そのあとにやってくる。