「漂泊論」・16・原初の言葉

   1・「もの」とは「森羅万象」のことか
もののあはれ」の「もの」は、「森羅万象」を意味しているとはかぎらない。そういう「意味」という機能は、「もの」という言葉が生まれたあとに付け加わっていっただけのことで、その「意味」を表現・伝達するために「もの」という言葉が生まれてきたのではない。
言葉が意味を生むのであって、意味が言葉を生むのではない。人類は、意味に目覚めたから言葉を生みだしのではなく、言葉を生みだしたから意味に目覚めていったのだ。
こんなことは、言語学の常識中の常識だろう。
小林秀雄本居宣長でさえ、「もの」という言葉を「森羅万象」という「意味」でしかとらえていない。
すべての「もの」という言葉を、「森羅万象」という意味で説明できるか。
まあへりくつというのは、こじつけようと思えばいくらでもこじつけられるものだが、「意味」で説明しようとすること自体が、言葉の本質から外れてしまっているのだ。
「もの」とか「こと」という言葉は、もっともプリミティブな日本語のはずである。
言葉は、とくにやまとことばは、プリミティブであればあるほど「意味」という概念だけでは説明がつかない。
なぜなら言葉は、「意味」として発生し育ってきたものではないからだ。
「だってあたし、女だもの」とか「悲しいんだもの」というときの「もの」は、「森羅万象」というところにくくれるのか。このときの「もの」があらわしているのは、「胸にあふれる思い」だ。こうした「感慨の表出」こそ、言葉のもっともプリミティブな機能にほかならない。
われわれは、「もの」という言葉を、いまだにこんな扱い方をしている。そしてこれは、「森羅万象」という意味で扱うよりも、ずっと本質的な「もの」という言葉のかたちなのだ。
「女だもの」だなんて、最近生まれてきたいい方だろう。むかしにはなかった。それでもこれは、「もの」という言葉の、もっとも無意識的でプリミティブなかたちである。富士山の伏流水が何千年も経ってから湧き出したようなものだ。
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   2・「ものの」という言い方のニュアンス
「もののはずみ」というときの「ものの」も、「もののあはれ」というときの「ものの」も同じかもしれない。このときの「ものの」という言葉にたいした意味はない。ただ「はずみ」といっただけでもちゃんと通じる。「もののはずみ」とは「ちょっとしたはずみ」というような意味なら、「はずみ」という言葉そのものに「ちょっとした」というニュアンスが含まれているのだから、わざわざ「ものの」という言葉は付け加えなくてもよい。それは、たんなる飾りのような言葉(接頭語)なのか。
そのようにとらえて本居宣長は、「もののあはれ」も「あはれ」も同じだといったのだろうか。
だとしたら、その直感はおそらく正しい。正しいがしかし、そうであれば、この場合の「ものの」の「もの」に「森羅万象」という意味はないことになる。
この場合の「ものの」なんて、ちょっとしたはずみをつけるための飾り言葉だ。「さあ、行こう」とか「よし、行こう」というときの「さあ」や「よし」と同じようなものだ。
それならそれでいいのだが、しかし、どうして「ものの」といってはずみをつけるのか、という疑問が残る。「ものの」といわないことには、そのあとの「はずみ」という言葉にはつながっていかないし、「あはれ」という言葉にはつながってゆかない。
「ものの」は、「はずみ」や「あはれ」という言葉を強調する効果を持っているらしい。
「もののはずみで」とは、「知らない間になんとなく」というニュアンスだろうか。それは「自分でもよくわけがわからないままに」という感じの「混沌」の状況をあらわしている。
もののあはれ」だって、物事を深く感じることによって生きてあることのくるおしさ(=混沌)が終息・終息してゆくさまをあらわしている。
「ものの」とは、「ややこしさ」とか「不確かさ」とか「わからなさ」とか「なやましさ」とか、そういう「混沌」の状況をあらわしている。それが飾り言葉のように使われるわけはちゃんとある。
「そこに行ってみたものの、彼はいなかった」とか、「人の悪口をいうのは楽しいことであるものの、あまりいいことではない」というときの「ものの」はどうか。
これもまた、事態の「決定不能性=混沌」をあらわしてる。それは、べつに「森羅万象」のことではない。「混沌」という「ニュアンス」をあらわしているだけだ。
「もの」という言葉は、胸の中が落ち着かなくざわざわする、人が生きてあることの普遍的な感慨から生まれてきた。
プリミティブな言葉は、何かの「意味」をともなって生まれてきたのではないからこそ、あとからいろんな意味に使われていったのだ。そして、どんな意味であろうと、そこにはある共通する原初の感慨が隠されている。それが、語源のかたちなのだ。
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   3・言葉は意味伝達の機能ではない
言葉は、意味の伝達のための機能として発生したのではない。「もの」という言葉だって、「森羅万象」という意味として発生したのではない。
フッサールは、意識は意味として発生する、というようなことをいっている。
だが、そうじゃない。「意味の意識」が先にあって言葉が生まれてきたのではなく、言葉によって意味の意識が生まれてきたのだ。したがって意識が意味として発生することもあり得ない。
言葉の根源的な内実は、「意味」にあるのではない。
どいつもこいつも、何いってるんだか。
意識は、フッサールがいうように「世界の意味を解釈する機能」として発生するのではない。最初の意識は、たんなる世界に対する「反応」にすぎない。つまり、身体の外の世界からある種の圧力を受けて、脳細胞などの身体の組織が「もがく」のであり、そのもがきが意識になる。
まあ人間でなくとも生き物はそうやって苦しまぎれで生きているわけで、人間はそのもがき方が大きいから、その苦しまぎれで生まれてくる意識も発達しているのだ。
生き物は、苦しまぎれで生きているのだ。
意識の発生に、意味なんか関係ない。
それを「赤い」と認識することは、「赤い」と認識する機能を脳があらかじめ持っているのではなく、発生した意識が「赤い」と認識するのだろう。誰の脳もおおむね同じなのに、それを赤いと認識できる意識とできない色盲の意識がある。それはすなわち、意識は「赤い」という「意味」の認識として発生するのではない、ということを意味する。それは、脳の違いではない、意識の違いなのだ。
意識は、すでに発生している。世界の中に存在していることの苦痛として、すでに発生している。
もっとも原初的な意味認識だろうと知的で高度な意味認識だろうと、意味を認識できる意識とできない意識がある。意識は、「意味の認識作用」として発生するのではない。
意識とは、苦痛である。生きてあることの苦痛(くるおしさ)を知っている人の感性や知性の方がずっと豊かなのだ。そういう苦痛(くるおしさ)が快楽へと昇華してゆくカタルシスとして「言葉」が生まれてきた。
まあ、「赤い」と認識する現象も、身体がこの世界の中に存在することの苦痛(くるおしさ)が快楽へと昇華してゆくカタルシスとして起きているのだ。
意識は、苦しまぎれに「赤い」と認識するのだ。「赤い」という意味の認識として発生するのではない。それは、後天的につくられる能力であって、先験的にそなわっているのではない。脳科学者に聞いてみればいい。
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   4・言葉が生まれてくる契機
意識のはたらきの根源的なかたちは、生き物として身体がこの世界の中に存在することの苦痛(くるおしさ)にある。その(苦痛)がなければ、意味の認識も生まれてこない。そして言葉がなければ意味の認識も生まれてこないのだから、言葉が生まれてくる契機は意味の認識ではあり得ない。
意味の伝達の機能として言葉が生まれてきたのではない。
生きてあることの苦痛(くるおしさ)が言葉を生みだした。二本の足で立ち上がり、限度を超えて大きく密集した集団をいとなんでいる人間は、言葉が生まれてくる契機としての苦痛(くるおしさ)をたくさん抱えて存在している。
「もの」という言葉だって、そのようにして生まれてきた。そこのところを考えないと、「もの」という言葉の語源には迫れない。
それがプリミティブな言葉であればあるほど、意味として説明している語源論なんか、ぜんぶアウトなのだ。
そして、忘れるべきでないのは、われわれ現代人だって、プリミティブな感覚で言葉を扱っている部分を残しているということだ。だってわれわれも今なお二本の足で立っている猿であり、しかも原始人よりももっと猿としての限度を超えて大きく密集した群れの中に置かれているのだから、そうした生きてあることの苦痛(くるおしさ)を抱えていないはずがない。
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