「漂泊論」・15・生きてあることのくるおしさ

   1・「もの」再考
もののあはれ」の「もの」という言葉のことを、もう少し書いておくことにする。
「もの」という言葉のことを書こうとすると、いつも書いても書いても隔靴掻痒の感じになってしまう。
言葉は「意味の伝達」ではなく「感慨の表出」としてはじまった。
プリミティブな言葉であればあるほど、その音声が思わず口からこぼれ出てくるときの感慨を探る必要がある。
「も」の語源は、「もう」とか「もお」とかという音声が思わず口からこぼれ出るときの普遍的な心の動きにある。「もう」とか「「もお」というように、思いが胸に満ち溢れてくるときに「も」という音声がこぼれ出る。「も」という音声には、ざわざわする感じがある。
「の」は「あなた、かなしいの?」とか「私、かなしいの」というときの「の」にいちばんプリミティブなニュアンスが潜んでいる。「確かめようとしたり確かめたりしたときにこぼれ出る音声」で、「のう、おまえ」とか「おまえはいいやつだのう」とかというときも同じだろう。
「の」と発生するとき、息も音声も口の中にとどまっている。その感じが「確かめる」という心の動きと重なっている。
「もの」とは森羅万象のことだ、とも言われている。森羅万象も「もの」のうちだが、それだけではないし、それは語源ではない。
「もの」とは、思いが胸に満ちていることを確かめている状態。胸がざわざわしてなかなか鎮まらない状態。そこから「もの」という言葉=音声が生まれてきた。これが、語源のかたちだ。
四足歩行の猿が二本の足で立ち上がれば、その不安定さと敵に襲われたらひとたまりもないという危機感で、胸がざわざわする。これが、われわれ人間の普遍的な存在論的超越論的感慨であり、いつの時代も人間にとっての生きてあるという状態はそういう感慨とともに流れてゆく。
そしてそういう感慨を他者と共有しているところが、人間の人間たるゆえんである。
たとえば台風の夜にみんなで家の中に寄り添い合っていれば、その胸がざわざわする感慨が自然に共有されてゆく。地震のあとはもう、村じゅうでそんなくるおしい気分が共有されている。そういう体験の歴史ののちに、「もの」という言葉=音声が「森羅万象」という意味で使われるようになってきた。森羅万象でもなんでもいいのだけれど、その何かに心を動かされてそこに関心が張り付いている状態から「もの」という音声が表出されていったのだ。
はじめに「もの」という音声があり、それが「森羅万象」という意味になっていったのであって、森羅万象のことをあらわそうとして「もの」という音声が生まれてきたのではない。「もの」という感慨の表出があっただけだ。
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   2・胸がざわざわして
言葉は意味の伝達の道具だといっても、われわれの日常でも、意味もわからずに使っている言葉がたくさんある。
「あたし、悲しいの」、という。どうして最後に「の」をつけるのかなんて、誰も自覚していない。昔は、意味なんか自覚しないで音声を交わし合っていた。
ここで考えているのは、そういう起源としての「もの」であり、その起源の「感慨」は現代人の言葉にも残っている。
とすれば、平安時代ならなおさらだろう。彼らが「もののあはれ」というときの「もの」にはもちろん「森羅万象」のことも含まれていたが、基本的には、この生やこの世界に対するくるおしい思い(=混沌)をこめて「もの」といっていたのだ。意味というなら、「くるおしい=混沌」という意味だったのだろう。生きてあることや世界に対する「感慨(くるおしさ)の感触」が「もの」だった。
「の」とは「感触」という意味だともいえる。
「ものくるおしい」とか「ものさびしい」の「もの」が「森羅万象」を指している、といってしまうと間違う。それはあくまで「くるおしさ」や「さびしさ」の「感触(ニュアンス)」の表出のはずである。「ものさびしい景色だ」というとき、なぜ「景色=森羅万象」という言葉を付け加えるかというと、「ものさびしい」の「もの」は何も指していないからだ。このときの「もの」には「森羅万象」という意味はなく、「さびしさがひしひしと胸に満ちてくる」という「感慨の感触」をあらわしているだけだろう。
胸がざわざわしてなかなか鎮まらない心地から「もの」という言葉=音声が生まれてきた。そういう心地にさせられるものはすべて「もの」だった。だから、妖怪や悪霊もそのひとつとして「もの」といった。
「もののはずみ」というように、「もののあはれ」の「ものの」のあとの方の「の」は「もの」を強調しているだけで、「もの」と「あはれ」を接続しているわけではないのかもしれない。単純に「あはれの気持ちがいっそう胸に満ちてくる」といっているだけかもしれない。このあたりが日本語の「てにをは」のやっかいなところで、べつに「もの=森羅万象」という対象のことをいっているのではない。「あはれ」の感慨の深さをあらわしているだけだ。
もののあはれを知る人」という。それは、「あはれ」を深く感じる心を持っている、といっているだけで、べつに森羅万象の「あはれ」でなくてもかまわない。
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   3・本居宣長と「もののあはれ
本居宣長はこう説明している。
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「物のあはれは、見る物、きく事、なすわざにふれて、情(ココロ)の深く感ずることをいう也」
「すべての人の情の、事にふれて感(ウゴ)くは、みな阿波礼也」
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たぶんこの通りなのだろうが、小林秀雄は、本居宣長にとっては「あはれ」も「もののあはれ」も同じであった、というようなこといっている。上の二つの説明を比べれば、たしかにそうだ
だったら、ちょっと待ってくれ、ということになる。
小林秀雄本居宣長も「もの」という言葉を、あまり重要には考えていない。
もののあはれ」の「もの」は、「見る物、きく事、なすわざ」というような「対象=森羅万象」のことをあらわしているのではない。「もの」もまた、「心のかたち」なのだ。「もの」とは「胸にくるおしい心が満ちてくること=混沌」であり、「あはれ」とは、その心が浄化されてゆく「カタルシス」のことだ。この心の動きのことを宣長のように「深く感ずること」といっても同じなのだが、言葉の解釈としては粗雑すぎる。
「深くしみじみと感じること」は「生きてあることに対するくるおしさ」とセットになっている。そういうことを「もののあはれ」という。古代人が、どんな思いで「ものの」といったか。
もののあはれ」も「あはれ」も同じだといってもらっては、ちょっと困る。人の心は必ず消失感覚としてそういう「あはれ」というところに収束・終息してゆくものだが、なぜそういうところに収束・終息してゆくかといえば、人は生きてあることそれ自体に対して「くるおしさ」を抱えて存在している生き物だからだ。古代人は、そういう存在意識から「もののあはれ」といった。もちろん本居宣長小林秀雄がそこのところを知らなかったわけではあるまい。しかし言葉の解釈としては、粗雑すぎる。彼らは、「もの」という言葉の重要さに気づいていない。ただ「もの=森羅万象」といってすませてもらっては困るのである。
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    4・消失願望
生き物は死んでゆく存在である。何はともあれ「もののあはれ」とは、死んでゆく存在としての感慨を表出している言葉なのだ。
この世の中には死にたいと思っている人もいれば、死にたくない人もいる。
まあ、たいていの人が死にたくないという思いを手放せないで生きている。
死ぬとは、消えてなくなってしまうことだ。
死にたくない人にだって、消失願望はある。快楽とは、自分が消えてなくなってしまう体験のことだ。人は、自分が消えてなくなっている状態で生きた心地を覚える。自分を忘れて何かに夢中になっていれば、この生のわずらわしいことも一緒に忘れていられる。
この生は、煩わしい。
だから、消失感覚が快楽になる。
食わないでいれば空腹になるし、息をしないでいれば息苦しくなる。夏は暑いし冬は寒い。働いても遊んでも、疲れて眠くなる。命のはたらきとは、しんどくなってゆくことである。
みんな、毎晩目を開けていられなって眠ってしまうではないか。そんなことを繰り返して生きていて、生きることはしんどくて煩わしいことだという思いを持っていないはずがない。
われわれの心は、いいことはすぐ忘れるが、いやなことはなかなか忘れられない。息苦しいとか空腹とか暑い寒いとか痛いとか疲れたとか眠いとか、日常的に体験しているそういう苦痛の感覚は、われわれの意識の底に沈殿している。生きてゆくことは、そういう苦痛が消えないままどんどん沈澱してゆくことだ。人生の苦労があろうとなかろうと、誰もが生き物として生きてあることのしんどさとわずらわしさを抱え込んでしまっている。
だから、消えてゆくことが快楽になる。
消えてゆくことに快楽を覚える感覚は、誰もが持っている。
生き物の意識は、消えてゆくことに快楽を覚えるようにできている。
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   5・生きてあることはわずらわしくてしんどい
さらにわれわれ人間は、二本の足で立つという不安定でしんどい姿勢を常態化して生きてある。われわれは存在そのものにおいて、すでに生きてあることのしんどさとわずらわしさを抱えてしまっている。
われわれは、根源的に生きてあることを嘆いて存在している。
人間は、他の動物以上に嘆きが深い存在だからこそ、そのぶん快楽も深く体験して生きている。人間の意識が発達しているということは、そのぶん深く嘆いて生きている、ということだ。
意識の根源的なかたちは、嘆きにある。生きてあることの嘆きにある。生きてあることはしんどくてわずらわしいことであり、生きてゆくことはその嘆きがどんどん沈澱してゆくことだ。
嘆きがあるから生きてゆこうとする意欲が湧いてくる、ということではない。生きてあることがしんどくてわずらわしいものであるのなら、生きてあることなんかいやになってしまうに決まっている。
ほんとうは、誰だって、生きてあることにうんざりしている。
だから人間は、消失感覚を快楽として体験する。
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   6・あなたたちこそ病んでいる
人間は、生きてゆきたい存在ではない。生きてゆきたい存在ではないから、深く快楽を体験する。
生きてゆこうとする意欲をたぎらせることは、生きてあることの快楽(カタルシス)を喪失することなのである。
そうやって、たとえばインポおやじになる。生きてゆこうとする意欲をたぎらせているから、インポおやじになる。生きてゆこうとする意欲をたぎらせて社会的にも成功していれば、本人は正しくしっかり生きていると自慢する。しかしそれでも、インポおやじになるのだ。
なぜなら、快楽とは消失感感覚であり、生きてあることにうんざりしているところで人は勃起するのであり、生きてあることの内実を味わっている。
生きてゆこうとする意欲をたぎらせることは、人間として、生き物として、病んでいる心なのである。
生き物は、生きてゆこうとする意欲などたぎらせていない。
生きてあることにうんざりして生きることがいやになってしまうのが、自然の摂理なのだ。それを、社会制度に適合した人間たちが、観念的な思考をもてあそんで、生きてゆこうとする意欲をたぎらせることが生き物の本能であるかのようなプロパガンダに精を出している。
そんなことをいっても、社会の制度性から外れたこの世のもっとも弱いものや若者や子供の方がずっと深くこの生の内実を味わいつくしている。
僕は今、ただのひがみ根性で憎まれ口を叩こうとしているわけではない。世界中の人々に対して、われわれは人間であることのスタンダードのかたちに対する認識を根底的に改めた方がいいのではないか、と問うているのだ。
生きてあることにうんざりしている方が、ずっと健康な人間の本性なのだ。
生命賛歌なんて、インポおやじの病理的な思考なのだ。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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