「漂泊論」・14・もののあはれ

   1・「きれい」というイメージ
この地球上から人間がいなくなれば、いやもうこの地球そのものがきれいさっぱり消えてなくなってしまえば、それはそれですっきりすることだろう。
消えてなくなることは、そんなに悪いことじゃない。
それは、ひとつのカタルシスなのだ。
やまとことばの「きれい」とは、消えてなくなることである。だから、日本列島の住民は、掃除が好きで、風呂に入ることが好きなのかもしれない。
「き」は、世界の「完結」をあらわす音韻。「男ありき」の「き」は、現象や行為の完結性をあらわす機能として使われている。「れ」は、「あれ」「これ」「それ」の「れ」、「ふくれる」「さびれる」の「れ」、「方向」とか「過程」をあらわしている。「い」は、強調の音韻。
世界が完結している(完結してゆく)さまを「きれい」という。
日本列島の昔の人々は、消えてなくなることが世界の完結だというイメージを持っていた。
この地球上から人間がいなくなることは、風呂に入って垢を洗い流すのと同じことかもしれない。そうやって世界は完結する。
われわれはどこかしらで、消えてなくなることはすっきりすることだ、と思っている。
消えてなくなることのカタルシスのことを「きれい」といい「あはれ」という。
古代以前は、「あはれ」といっていた。それが、意味が多様化してきて、江戸時代には「きれい」というようになった。そうして今ではまたそこに「美しい」という意味まで加わってきた。
西洋人は言葉は伝達の道具だと決めてかかっているから、言葉の意味は時代ととともにひとつに限定されてくると思っているのだろうが、そうじゃない、言葉の根源的な機能は伝達の道具ではないから、どんどん意味が多様化してくるのだ。
ひとつの言葉の意味が多様化してきて、その混沌からべつの言葉が派生して生まれてくる。
意味が多様化してくることは、言葉の本質的な機能が意味を伝達することにはないからだ。その結果として、意味を整えようとして別の言葉が生まれてくる。
人間は、意味を伝達しようとして言葉を生みだしたのではなく、言葉を生みだした結果として、言葉に伝達の機能を与えようとするようになってきた。
言葉は、伝達の道具として生まれてきたのではない。今でもわれわれは、言葉をそんなふうには扱っていない。だから、ひとつの言葉にたくさんの意味が生まれてきてしまう。
あなたの「美しい」の意味とわたしの「美しい」の意味は違う。われわれは、意味を共有しているのではない。「美しい」という言葉それ自体を共有しているだけである。
意味を伝達しようとするのは、つまりおたがいの意味を同じにしようとすること、すなわち相手の意味も自分の意味と同じにしようとする「プロパガンダ=洗脳」の行為である。何はともあれそれは、言葉それ自体を共有したあとに起きてくる行為であって、言葉の起源でも本質でもない。
言葉の発生は、心の表現だったのであって、意味の表現だったのではない。「りんご」といっても、りんごそのものの意味を表現していたのではなく、りんごに対する自分の心を表現していたのだ。それを「赤い」と思ったのか「まるい」と思ったのか「おいしそう」と思ったのかは、人それぞれ違うし、そのときその場でも違う。それでもその「りんご」という言葉は、「赤い」とか「まるい」とか「おいしそう」とか、そんな心の表現として生まれてきたのだ。「りんご」という「意味」として生まれてきたのではない。
たとえばやまとことばの「くま」という言葉は「怖い」という心の表現として生まれてきたのであって、熊という動物それ自体を意味しているのではない。だから「怖い」というニュアンスで「神」のことや「断崖絶壁」のことも「くま」といった。
断崖絶壁、すなわち端っこ、端っこをなぞるから歌舞伎の化粧のことを「くまどり」という。たぶん最初は、目や唇の縁を彩色していただけなのだろう。
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   2・消えてゆくことのカタルシス
話が横道にそれてしまった。
「あはれ」とは、きれいさっぱりなくなってしまうことのカタルシスをあらわす言葉だった。それが、「かわいそう」とか「みじめ」という意味に偏ってきたから、「きれい」という言葉が、それに代わる言葉として使われるようになっていった。
何はともあれ、日本列島の住民は、きれいさっぱりなくなってしまうことのカタルシス止揚したがる民族なのだ。
だから、死んだら何もない「黄泉の国」に行く、といったのだが、それは、最初は、死んだら何もかもなくなって消えてしまう、というだけのイメージだった。そこから、「黄泉の国」だの「黄泉の国のカラス」だのという物語が付け加えられてきただけで、「黄泉の国」というイメージ自体が始原のものではなかった。
日本列島の住民にとって死ぬことはこの生が「完結」することであり、縄文人には「死後の世界」というイメージそのものがなかった。これが、日本列島の住民の死生観というか世界観の根源的なかたちである。
日本列島だけではない。人間は、きれいさっぱりなくなってしまうことにカタルシスを覚える生き物である。
なぜなら生き物は、きれいさっぱりなくなってしまうものとしてこの地球上に発生したのだ。それが「死ぬ」ということであり、われわれのきれいさっぱりなくなってしまうことのカタルシスは、生命の発生以来の40数億年の伝統である。われわれはそういうことにカタルシスを覚えるようなかたちの命というものを抱えてこの地球上に存在している。
死んだら土に還る……という。
土は土であって、生き物の命ではない。命のもとではあるが、命そのものではない。科学的にはそういう循環構造は説明できるのだろうが、土になることは、ひとまず命が消えるということだ。土になるということは、別のものになる、ということであり、それはいったん消えてなくなることだ。この宇宙の質量は増えも減りもしない、のかどうか僕にはよくわからないが、それでも「死ぬことは消えてなくなることだ」という信憑はある。
なぜそんなふうに思うかといえば、生命はこの地球上のじゃまっけな存在として発生したという起源を負っているからだろうか。物理学的にいえば「消えてなくなる」ということなどあり得ないのかもしれないが、生命とは「消えてなくなる」という信憑を負わされた存在であるのではないだろうか。生き物の意識は、「消えてなくなる」ということに対する信憑を持つようにできているのではないだろうか。
だから人類は、「ゼロ」という概念を発見した。
少なくとも意識は物質ではあるまい。物質であることを証明しようとする試みは永遠になされるのだろうが、われわれの脳なんか、歳をとったらボケてゆくし、損傷を受けたら機能しなくなるのである。そんな脳が土に還ってまだ機能しているということなど、あるはずがないじゃないか。
脳が死んだあとも意識が余韻でしばらくはたらいているということはあるだろうが、永遠にはたらきつづけることなんかできない。永遠にはたらくのなら、脳が損傷した部分の意識も、永遠にはたらきつづけなければおかしい。
多少の余韻のはたらきはあるとしても、意識は消えてなくなるのだ。
意識には、「いまここ」しかない。過去の意識のはたらきは、消えてなくなっているのだ。われわれの意識は、生まれたときに発生した意識の余韻ではたらき続けているのではない。つねに「いまここ」のはたらきを上書きし続け、つねに過去のはたらきは消え続けてきたのだ。
「いまここ」しかないのだ。「いまここ」でこの生もこの世界も「完結」しているのだ。われわれの意識は、「きれいさっぱりと消える」という体験をし続けているのだ。
きれいさっぱりと消えることのカタルシスとは、「いまここ」をたしかに感じ続けている意識によって体験される。そこから「あはれ」という言葉が生まれてきた。
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   3・「あはれ」と「もの」
「あはれ」という言葉は、きれいさっぱりなくなってしまうカタルシスから生まれてきた。「あはれ」とは、消えてゆくこと。
われわれの意識は、命がきれいさっぱりなくなってしまうことに対する信憑を持っている。観念がどんなにそうじゃない物語を紡ぎだそうと、それはもうそうなのだ。
死後の世界などないのだ。べつに「ある」と思いたければ思えばいいが、それでも意識は、もっとたしかに「ない」ということに対する信憑を持ってしまっているのだ。
少なくとも日本列島の伝統的な無意識は、そのようにはたらいている。いややっぱり、人類普遍の無意識はそういうかたちになっている、といおう。それを観念によって否定してゆくことはそう難しいことではないだろうが、それでもわれわれの無意識は、そのようにはたらいているのだ。
それでも人は、きれいさっぱり消えてなくなることのカタルシスを体験している。
そういう体験から「もののあはれ」という言葉が生まれてきた。
「あはれ」とは、きれいさっぱり消えてなくなることのカタルシスから生まれてきた言葉。
それはもともとポジティブなニュアンスの言葉だから、そこから派生して「あっぱれ」という言葉も生まれてきたのだろう。敵をやっつければ、「あっぱれ」だ。難しい問題を解決してみせれば、「あっぱれ」だ。そうやって見事に消去してみせることを「あっぱれ」という。
しかしそれと同時に、「かわいそう」や「みじめ」ということもまた、ひとまず社会的に消えてゆくこととして「あはれ」という意味合いを帯びてきた。人が共同体の制度によって人生を左右される世の中になってきたからだろう。
「あはー」とか「はあー」というというため息は、無力感から生まれてくる。そのため息が生まれてくる「方向=れ」に、きれいさっぱり消えてゆく体験がある。「あはれ」とは、「ため息の方向」。
「は」は、「はかなし」の「は」、はかなく消えてゆくこと。「空虚」「不在」の語義。
「あはれ」とは、消えてゆくこと。消えてしまいそうな気配。
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   4・「もの」というくるおしさ
そして「もののあはれ」の「もの」という言葉は、多くの研究者にさまざまに語られている。
この場合の「もの」は「身体」とか「命」という意味である、と説明している研究者もいる。「もののあはれ」とは「命のはかなさ」のことである、といわれれば、ひとまず納得できる。しかし、その「もの」は「命」や「身体」だけのことだったのかといえば、そうでもない。古代人が「もののあはれ」というときの「もの」は、必ずしも「命」や「身体」だけのことだったのではない。「風」や「景色」や「人と人の関係」や「気持ち」それ自体に対しても「もののあはれ」を感じていた。
「風」や「雲」や「水の流れ」だって「命」の比喩だといえば、まあそういうことかもしれない。
しかし「もののはずみ」とか「ものの2、3分で」というときの「もの」はそういうことではないだろう。日本列島の住民は、「ものの」という言葉を、形容詞のような使い方をする。
また、「あたし、女だもの」とか「悲しいんだもの」というときの「もの」は、名詞でも形容詞でもない。
たぶん、古代人が「もの」というときは、かならずしも「命」や「身体」を意味していない。命なら命というし、身体なら身体という。逆にいえば、命や身体のことを「もの」とはいわなかった。命のことは「たま」といったし、身体は「身(み)」といった。たぶん命や身体のことなら「身のあはれ」というし、実際にそう言い方をしている。それが命や身体のことなら、「身のあはれ」という言葉は生まれてくるはずがない。そういう言葉が生まれてきたということは、「もののあはれ」の「もの」は命や身体のことではなかった、ということを意味する。
「もの」という言葉が命や身体のことだといってすませられるなら、「もののはずみ」とか「ものものしい」とか「ものすごい」というような言葉は生まれてくるはずがない。また、平安時代にはすでに妖怪や悪霊のことを「もの=もののけ」といっていたのである。「もののあはれ」とは「妖怪や悪霊のあはれ」のことでもあるのか。ただ「もの」といえば、妖怪や悪霊のことを指していた時代なのである。
つまり、「もののあはれ」の「もの」は、もっと抽象的なニュアンスの言葉なのだ。現代人は、言葉の一義的な機能を制度的なコミュニケーションの道具として扱って生きているから、古代であればなおさら原始的で直接的具体的なニュアンスに限定して言葉を使っていたであろうと考えがちだが、実際には逆で、古代人の方がずっと抽象的で豊かなニュアンスの言葉の使い方をしていたのだ。
われわれ現代人は古代人よりたくさんの言葉を持っているが、そのぶんひとつひとつの言葉を限定した意味で使っている。
古代人は「もの」という言葉を、人間の命や身体のことにも、その逆の非命・非身体である妖怪や悪霊のことにも当てはめて使っていた。
では、どのように使えば両方に当てはまるのか。
「もの」という言葉の語源は、「混沌(カオス)」というニュアンスにある。この言葉についてはたくさんの研究があるが、「混沌(カオス)」とは、たぶんまだ誰もいっていない。もしくは誰かがいったとしても黙殺されてきた。だから僕がこんなことをいうと、そんな解釈はどこにも出典がない、と反論してくるアホがいる。彼らには、出典の受け売りをするしか能がない。現代人は、人を洗脳し、人から洗脳されることばかりの中で生きている。そうやってわれわれは、閉塞感に陥っている。
出典なんかなくても、僕にはそうとしか考えられない。
「もの」という言葉=音声は、胸の中に思いが満ちてくるおしくなったところからこぼれ出てきたのだ。そういう「混沌(カオス)」である。
「も」は、「持つ」「盛る」の「も」。体に力を溢れさせなければ重いものは持ち上げられない。皿の上にものを溢れさせることを「盛る」という。「森(もり)」は、木が密集しているところ。「も」は、水の中でうごめくようにかたまっている水草のこと。
「の」は「乗る」「飲む」「のす」の「の」。「のり」は、くっつけるもののこと。すなわち「の」は、「憑依」する心の動きからこぼれ出てくる音韻。
胸の中の混沌に憑依してしまう心の動きから「もの」という言葉が生まれてきた。
「だってあたし、女だもの」というとき、女であるという自覚が心に満ちてうごめいている。その、胸がはちきれそうな状態で「もの」といっている。
「もののはずみ」とは、わけがわからない(=混沌)拍子に、という意味。
「ものものしい」は、大げさで騒々しいさま。
「もの=もののけ」とは、わけがわからないものや、わけがわからないことに憑依していること。
そして、われわれの心や体も、わけがわからなくやっかいなものにほかならない。
そういうこの生やこの世界の「混沌」のことを「もの」という。
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   5・「もののあはれ
「混沌」が「消えてゆく」というかたちで収束・終息してゆくことを「もののあはれ」という。この地球だっていつかは消えてしまうのだ、という感慨を「もののあはれ」という。この生がつらくくるおしいものだからこそ、消えてゆく(死んでゆく)ことがカタルシスになる。いや、生きてあること自体においても、自分を忘れて自分が消えてゆく感覚の中に「生きた心地=カタルシス」が体験されている。
もののあはれ」とは、自分の命や身体が消えてゆく感慨から生まれてきた言葉であるが、それは、それほどに生きてあることがくるおしいことだからだ。つまり、そうやってくるおしい思いで胸がはちきれそうになって旅に出て、ぐったりと疲れ果てて眠りにつく。生きてあることはそういうことの繰り返しだ、という感慨で「もののあはれ」といった。
「もの」とは、くるおしさであり混沌のこと。「もののあはれ」とは、混沌の収束・終息のこと。
また、「もの」ではなく、「もののはずみ」の「ものの」というニュアンスなら、わけがわからないうちにいつの間にか消えてしまったり消えそうになっていることが「もののあはれ」である、ということになる。
われわれのこの生は、いつの間にか気づいたら死の直前に立たされている。どんなに用意周到に生きたって、誰もが最後には「え、もう終わりなの?」と思わされるのだ。
言い換えれば「いいかげんもう終わりにしてくれ」と思いながら生きた方が、最後にうろたえなくてすむし、生きてあることそれ自体も味わいつくしている。
生きることは、混沌と消失の往還運動であり、「もののあはれ」は、ただの「はかなくあはれ」というのとはちょっと違う。この「もの」という言葉の意味はややこしく、なかなか味わい深い。ただ「命」とか「身体」といっただけではすまない。
古代人の「生きてあることのくるおしさ」を汲みとらなければ「もののあはれ」という言葉の内実に届いたとはいえない。「もの=くるおしさ」を感じるから「あはれ」に対する親密さが生まれてくる。
その、ひんやりとして静かな風の気配は、この世界やこの生のくるおしさが収束・終息してゆく気配なのだ。そしてそれは、いつの時代であれ世界中の人間が普遍的に体験しているこの生の感慨なのではないだろうか。
なぜなら、人は死んでゆく生き物だから。
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