「漂泊論」・13・帰郷

現代人の心は、誰もが病んでしまっている。現代社会を生きる能力それ自体が病んだ心なのだ。もちろん僕の心だって病んでしまっているが、ユダヤ人や内田先生ほどではない。だから、現代社会を生きる能力は貧弱だ。僕には、彼らほどの他人を説得し支配しようとする意欲も能力もないし、みずからのそういう行為にたいする後ろめたさも少しはある。彼らのようにそれを「説得力」などといって正当化したり自慢したりする趣味はない。
僕が書くものにも多少の説得力はあるのかもしれないが、その能力そのものが、現代人が共有している不自然な病理だと思っている。
人と人の心はコミュニケーションの不調においてこそ響き合うのであり、そこにおける言葉のはたらきを、ある人は「文冥」といった。「冥」とは、「暗い」ということ。人を説得しようとしない言葉、あるいは文。
この「文冥」は、文明社会の「説得力」という制度的な観念によっては表現できない。
この国の伝統における言葉(やまとことば)の高度な表現は、「説得力」として機能してきたのではない。わかり合うのでもなくわかり合わないのでもない微妙な「あや」の表現として機能してきた。なぜなら、そこにおいてこそ人と人はときめき合っているからだ。
説得力のある文章などというものは、文明社会の制度性であり病理にすぎない。
僕は、このブログを、他人を説得するために書いているのではない。「こんなことを考えてみたけどどうだろうか?」とひとまず提出して問うているだけだ。このブログの読者に、自分よりも知的なレベルの低い人などほとんどいないだろうと思っている。もしも僕が、小林秀雄のことをこの国の最高の知性だと思っているのだとしたら、その小林秀雄に向かって書いている。もちろん小林秀雄を説得・教化できるはずもないが、小林秀雄が考え付かなかったアイデアを提出したいという思いはある。
それに対して「説得力」が自慢の内田先生は、自分より知的なレベルの低い人を説得・教化するために書いておられる。彼はそれが自分の使命だと思っているし、そうやってたくさんの読者を得ている。しかし先生よりも知的なレベルの高い小林秀雄が読めば、「なんだ、こんなのもの」と思うはずである。たとえ正しいことを語っていようと、そんなことはとっくにわかっている、といわれるのがおちである。
僕は、小林秀雄を、たとえ一瞬なりとも「えっ?」と驚かせてみたい。小林秀雄と、わかり合うのでもなくわかり合わないのでもないレベルで対峙してみたい。
僕は、このブログの読者を、自分が説得・教化できるレベルの相手だとは思っていない。
まあ、勝手なことを書いているだけだ。
僕には一部のユダヤ人や内田先生みたいなプロパガンダの能力も意欲もないし、そんなことばかりして正義ぶっているのを、いやらしいなあ、と思う。そういう「説得力」に多少の後ろめたさを持っていないと、われわれの精神は病んでしまう。
説得力のある文章なんて、野暮ったいだけじゃないの。この国でいまだに短歌や俳句が文学としての命脈を保っているのは、それが「説得力」などという俗っぽさを超えた「文冥」をあらわそうとしているからだ。誰もがあらわすことができるというわけではないが、コミュニケーションが不調に陥ることのときめきというのはたしかにある。
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   1・人はなぜ旅に出るのか
凡庸な人類学者や小説家はよく、「人間は好奇心というものを持っているから旅に出る」などという。
こんな陳腐ないい方もない。それが、彼らの思考力・想像力の限界だ。
人が旅に出る契機は、好奇心という知能の問題だけではすまない。
旅に出れば、人との出会いのときめきがある。だから人は人と出会おうとする「好奇心=欲望」を携えて旅に出るかといえば、そうともいえない。出会おうとして出会うことがわかっているのなら、感激もたいしたことはない。旅は、そんな予定調和の行為ではないだろう。われわれは、共同体のそういう予定調和のシステムに倦んで旅に出るのだ。
ただもう別れのかなしみを携えて旅に出る。だからこそ、出会いのときめきが深く豊かに体験される。
人は、生きてあることや集団の中に置かれてあることの不安やいたたまれなさを抱えて存在している。その契機がなくて、誰が旅に出るものか。そして人と出会い、集団の形成に参加してゆく。この、移動と定住の反復が人類の旅の歴史である。
人間だって、こんなにも必要以上に大きな集団をつくろうとする衝動など持っているはずがない。それでもそういう集団をつくってしまうのは、別れのかなしみを深く体験してしまう存在だからだ。
人類は、旅をすることによって、むやみに大きな集団を形成するようになってきた。
4万年前の地球上でもっとも大きな集団は、長い旅の果てに北ヨーロッパにたどり着いたネアンデルタールが形成していたのであって、アフリカにとどまり続けて歴史を歩んできたホモ・サピエンスであったのではない。
そもそもアフリカのホモ・サピエンスには、旅をする習性を持つ歴史の伝統がなかった。
したがって「集団的置換説」の研究者のいう「4万年前にアフリカのホモ・サピエンスが大集団を形成してヨーロッパ大陸に上陸していった」などいう話は、とんでもない与太話なのである。
そんなつくり話など、小学生並みの幼稚な空想にすぎない。しかし、そんな程度の低いつくり話が定着してしまうのが、限度を超えて密集した人間の集団を維持するという機能を持った共同体の制度性の性格でもある。
共同体の人々は、「何・なぜ?」と問うてゆくほかないような人を不安にさせる話よりも、ひとまず納得できる予定調和の物語を好む。
共同体の制度は、人と人が出会うためのシステムではなく、すでに出会っている人と人の親密さを確認してゆくためのシステムである。
つまり人は、そうやって故郷に帰り着く。共同体の論理とは、帰郷の論理である。
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   2・定住志向と故郷回帰志向
人間には、定住志向すなわち一か所にじっとしていたいという志向などはない。二本の足で立ってじっとしているのは、とてもしんどいことである。だから、その状態からの解放としての「歩く」という習性が発達していった。
人間は、二本の足で立ってじっとしていることができないから、歩こうとし、どこまでも歩いてゆく。人間は、すでに「漂泊」している存在である。
しかし、二本の足で立って歩くことほど楽な歩き方もないと同時に、これほど疲れる歩き方もない。二本の足で全体重を支えているのだから、歩き続ければ足が棒のようになってしまう。そうして、ぐったりと疲れ果てて、そこに住み着いてゆく。
人間には先験的な定住志向があるのではない。漂泊の果てにぐったりと疲れ果ててそこに住み着いてゆくだけである。そこを死に場所と思い定めて住み着いてゆく。住み着くことは、死んでゆくことである。死を受け入れて住み着いてゆく。
1万年前の氷河期明け以来、人類が本格的に定住していったのは、「死を受け入れてゆく」という行為だった。凡庸な歴史家たちがいい気になって吹聴している、「生きてゆくための有利な戦略としてそれを選択していった」とか、そういうことではない。歴史の必然的ななりゆきとして、ぐったりと疲れ果てて定住していったのだ。
死を受け入れる作法として定住していったのだ。2本の足で立っている人間であるかぎり、定住しても、心はなお漂泊し疲れ果てている。
死を受け入れてゆくのは、この生の必然的な帰結にちがいない。
「漂泊」の反対の行為は、「定住」ではない。定住は、漂泊の結果であり、漂泊とセットになっている行為である。そうやって人は死んでゆく。
老いることは、精神的にも身体的にも、ぐったりと疲れ果てることである。老いること、すなわち歩き続けてぐったりと疲れ果ててしまうのが、人間の自然である。そうして、もう故郷には帰れない、と思う。
とすれば「漂泊」の反対は、「帰郷」である。漂泊すればぐったりと疲れ果てて故郷には帰れなくなってしまうのに、それでも故郷に帰ろうとする。故郷に帰ろうとするのは、漂泊しながら漂泊していないのと同じである。
故郷に帰れなくなっているのが人間なのに、それでも故郷に帰ろうとする。こんなことは、人間の自然ではない。
人間が何がなんでも故郷に帰ろうとする生き物なら、原始人が地球の果てまで拡散するということは起きていない。今ごろは、すべての人類が住みよい故郷という温暖な地にひしめき合っていることだろう。
もう故郷には帰れない、と思ったから、ネアンデルタールとその祖先たちは、死と背中合わせのような環境の氷河期の北ヨーロッパに住み着いていったのだ。
もう故郷には帰れない……と思うことは、死を受け入れるということである。そうやってネアンデルタールは氷河期の極北の地に住み着いていった。
死を受け入れる、という地平にたどり着くのが人間の生のいとなみである。ぐったりと疲れ果てて死を受け入れてゆくのが人間の自然だ。
「説得力」などといっても、人間は、根源的にはわかりたいのではない。ときめきたいのだ。
数学者だって、わかることを第一義にしているのではなく、彼らなりのときめきがあるから熱中してしまうのだろう。わかることなんか、どうということもない。彼らは、その数式は正しい、とはいわない。その数式は美しい、という。
「わかる=説得力」を持つことは故郷に帰ることであり、住みよい土地に住むことである。しかしわれわれの生きるいとなみは死んでゆくいとなみであるのだから、それだけではすまない。ぐったりと疲れ果てて消えてゆくというカタルシスが必要になる。
生きることやわかることの意味や価値に執着していると、精神を病んでしまう。
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   3・何がなんでも故郷に帰りたい
つまり、ユダヤ人のように何がなんでも故郷に帰りたいというのは、死を受け入れることができない心の動きである。それはとても不自然なことで、そうやって人は、精神を病んでゆく。
現在のアメリカの都市住民の半分以上は抗鬱剤を飲んでいる、といわれている。ユダヤ人だって同じだろう。いや、もっとかもしれない。ユダヤ人といっても、お気楽なセレブばかりではないし、セレブだって抗鬱剤を飲んでいる。
ユダヤ人は、現代社会の病理をもっとも色濃く体現している人たちである。現代人は、誰もがユダヤ人ほどではないにしてもユダヤ的なのだ。そうやって誰もが、人間の自然を喪失している。
ユダヤ人は、現在の世界のもっとも優秀な民族であると同時に、もっとも人間としての自然を失っている民族でもある。
何がなんでも故郷に帰りたいだなんて、人間として不自然なのだ。彼らは、2千年以上にわたってその執念を燃やし続け、ようやく現在のイスラエルを獲得した。そうやって執念を燃やし続けてきたことが彼らを優秀な民族にした同時に、それこそが彼らの不幸になり不自然になっている。
ユダヤ人ほど精神を病んでしまいやすい民族もないのだ。そういう意味で彼らは、人類の歴史の生贄である。
コミュニケーション(交渉術)が上手だなんて、人間として不自然なのだ。何がなんでも自分が最初に決めた通りにことを進ませようとするのは、何がなんでも故郷に帰りたい、ということだ。そうやって彼らは、心を病んでいる。
あなたがそういうならそうしてみようか、とはけっしていわないらしい。
べつにユダヤ人でなくても、この国にだって、そういう意欲が強くてそういう交渉術が上手な人はいくらでもいるし、そういう人は出世する。そしてそういう人が精神を病んでしまいやすいのだ。
しかし日本列島には「馬には乗ってみよ、人には添うて見よ」ということわざがある。故郷には帰れない、と思っているのなら、そうやって生きてゆくしかない。そしてそれが、人間の自然なのだ。そうやってネアンデルタールは、氷河期の極北の地に住み着いていった。
疲れ果てて「故郷にはもう帰れない」と思いながら生き、そして死んでゆくのが人間の自然である。
何がなんでも故郷に帰りたいというような気力や体力があるなんて、人間として不自然なのだ。そんな人種にかぎって、死を前にして悪あがきをしたり精神を病んだりする。これは、ユダヤ人だけの問題ではない。抗鬱剤を手放せない現代人全体の問題なのだ。
ユダヤ人はなぜ故郷に帰ることに執念を燃やし続けたのだろう。それは、この「漂泊論」において、大いに興味をそそられる問題である。グローバル資本主義だとかマスコミや権力による言論統制プロパガンダ)とかいっても、僕からしたら、根っこのところは「故郷に帰りたい」という執念の問題だろう、と思えるわけで。
それがいいとか悪いとかといって裁いていてもしょうがないのだ。現代人はどうしてそんなことをしたがるのだろう、ということを突き止めたいではないか。すべての現代人が共犯者なのだ。
僕は、反ユダヤ主義でもなんでもない。ユダヤ人を善か悪かで裁こうとする趣味などない。ただもう、彼らが体現している現代社会の病理のことが気になるだけだ。
今やわれわれは、ユダヤ人と一緒になって、どんどん抗鬱剤が手放せない存在になっていっているのだ。つまり、誰もが「プロパガンダ」に熱心な時代になっている。
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しばらくのあいだ、本の宣伝広告をさせていただきます。見苦しいかと思うけど、どうかご容赦を。
【 なぜギャルはすぐに「かわいい」というのか 】 山本博通 
幻冬舎ルネッサンス新書 ¥880
わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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