「漂泊論」・12・もっとイノセントに

   1・コミュニケーションは人類の希望か
人を支配し操作したければ、コミュニケーションの能力を磨けばよい。そしてこういう能力は、どちらかというと嫌われものの方が素質がある。嫌われものはもう、人を支配し操作することによってしか人との関係が結べないし、人より優位な立場になろうとする意欲も旺盛だ。
コミュニケーションの能力に長けているから人に嫌われる、ともいえる。コミュニケーションの能力とは、人を支配し操作する能力のことだ。コミュニケーションの上手な人間は、かえって人に嫌われたり警戒されたりする。
コミュニケーションをちゃんととっていたのにどうして妻(彼女)は逃げていったのか……ということがときどきある。妻(彼女)はそうやって支配され操作されることに息がつまったのであり、人と人の関係はコミュニケーションの上に成り立っている、などということは幻想なのだ。
それはけっきょく、好かれるかどうかという問題であり、コミュニケーションの能力があれば好かれるというわけでもなく、かえって嫌われることも多い。
言い換えれば、好かれていれば、浮気をしようと何をしようと女の方が離さない。
嫌われる人間だからコミュニケーションの能力が発達した、ということもある。
コミュニケーションの能力は、嫌われものが生き延びるための大切な武器である。
コミュニケーションとは、人を支配し操作することである。
人から好かれる人は、あまりコミュニケーションの能力は発達していない。そんなことをしなくても、すでに人を好きになっているし、すでに人から好かれているからだ。
コミュニケーションをうまく取ろうと思ったら、人を好きになってなどいられない。相手にうっとりしてしまうことなどやめて、冷静に観察しなければならない。相手が怒ったりふてくされたりすれば、うろたえるのではなく、冷静に対処できなければならない。
人が人を好きになったり好かれたりすることは、コミュニケーションによって生まれるのではない。そうした関係のあやは、むしろコミュニケーションの不調のところから生まれてくる。というか、コミュニケーションの不調に陥ってしまう。
好きになってしまえば、相手を支配し操作することなどできなくなってしまう。
人に好かれる魅力的な人は、多かれ少なかれ、どこかしらに人から支配されないわがままな部分を持っている。また、他人のわがままを許す。うまくコミュニケーションをとってわがままをさせない、というような策はめぐらさない。
人と人の関係は、コミュニケーションによってうまく機能するとはかぎらない。
たがいに好きになって好かれてさえいれば、たいていのことはなんとかなる。
人間なんて、わがままでいいかげんな生き物だ。それが許されないのなら、人と人の関係はどうしてもしんどいものになってしまう。
他人のわがままやいい加減な部分を許せないのなら、自分がわがままでいい加減でいることもできなくなる。世の中を生きてゆくためにはそうやって人格者なることは有効だが、自分自身も窮屈だし、他人も窮屈にしてしまう。みんなが自分のような人格を持たないと許せないし、持たせるためにこそ積極的にコミュニケーションをはかってゆく。
教育という名のコミュニケーション。子供やこの世の弱いものたちは、そうやって支配され操作されている。
まあ人類の歴史における原始時代までは人と人が好きなったり好かれたりする社会であったが、共同体の発生や文字の発明とともに、人を支配し操作するコミュニケーションの方が大事な世の中になっていった。
それでもまあわれわれは、好きになったり好かれたりするプライベートの関係も持っている。そこでは、じつはコミュニケーションは不調なのだ。不調であればあるほど、豊かに好きなったり好かれたりしている。そこでは、相手を吟味し支配し操作することなく、ただもう無邪気にときめき合っている。この社会に、そういう時間や空間がなければ、生きることがとてもしんどいものになってしまう。他人を支配し操作しているものだけが上機嫌の社会になってしまう。そして他人を支配し操作しているものもまた、みずからを支配し操作しつつ、他人を好きになる心も他人から好かれるセックスアピールも失ってゆく。
おそらく、そうやって現代人の心が病んでいるのだ。
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   2・ユダヤ的であるということの病理
フロイト以来、優秀な心理学者を数多く輩出するのはユダヤ人の伝統である。
現在でも、心理学者といえばユダヤ人、というイメージがある。
彼らは、なぜこの分野において優秀であるのか。彼らは、地球上でもっとも交渉術に長けた民族であり、もっとも人の心理を吟味することに熱心な民族であるらしい。ただ頭がいいというだけで心理学者になれるわけではない。彼らは、優秀な心理学者になるべき人格的な契機を持っている。
しかしそれは、彼ら自身が精神を病む契機を色濃く抱えてしまっている、ということでもある。彼らは、誰よりも精神病理学の必要を切実に自覚している。だから、フロイトのような大心理学者を輩出した。
彼らは、他人だけでなく、みずからの心理も吟味し支配し操作しようとする衝動が強い。彼らが自分を戯画化して語りたがるのが好きな民族であるのは有名である。映画監督のウッディ・アレンなどは、その典型的な人物だろう。しかしそうやって自分を戯画化すること自体並外れた自己撞着であり、そうやって自分を限定してしまい、閉塞感に陥る危険性をつねに抱えている。
彼らは、しっかりと自分のアイデンティティを持っている。そうやって自分をユダヤ教徒だと限定し、神に選ばれた民だと限定してしまっている。
悪いけど僕は、自分をただの人間のひとりだとしか思っていない。ときには、ただの生き物のひとつだとしか思えないときもある。
ユダヤ人と違って普通の人間は、自分のアイデンティティを解体してしまう習性を持っている。
なぜなら、原初の人類が二本の足で立つことは、猿としてのアイデンティティを解体する行為だったからだ。それは、アイデンティティを解体して、猿よりももっと弱い猿になる姿勢だった。われわれの中には、そういう人類の発生以来の習性がしみついている。われわれは、いまだに二本の足で立っている猿なのである。
人間の本能は、アイデンティティを確立することにあるのではなく、アイデンティティを解体することにある。
われわれは、ユダヤ人のように、神からどんな使命も与えられていない。ただ、この地球上のやっかいものとして死ぬ宿命を与えられて存在しているだけである。
アイデンティティを解体しなければ、死んでゆくことはできない。生きてあることだって同じだ。人間はそのようにできている。アイデンティティを解体しなければ、二本の足で立っていられない。わがままでいいかげんな人間になったらこの社会ではうまく生きられないが、わがままな怠け者になってしまいそうな傾向は、人間の本性として誰もが抱えて生きている。
われわれは、ユダヤ人ほど優秀な人間にはなれない。人間の本性として優秀な人間にはなれない。この世の大人たちは、優秀な人間になれ、と子供を教育するが、それは、人間を人間であることから脱落させる行為なのである。優秀な人間なんて、人間であることから脱落している存在なのだ。そりゃあ、優秀な人間にならないと生きにくい世の中だが、人間というのはそういう生き物ではない、という自覚くらいは持っていてもよかろう。
わがままな怠け者である部分を残しておかないと、人は精神を病んでしまう。わがままな怠け者であることが人間の本性なのだ。原始人はたぶん、誰もがわがままな怠け者だった。
パンドラの箱を開けてしまった……などというが、あるときから人間は、人間であることから脱落してしまったのだ。たぶん、共同体(国家)の発生とともに。
子供たちは、共同体でうまく生きてゆくという使命を負わされる。すなわち人間であることから脱落してゆく使命を。
なぜそれが人間であることから脱落してゆくことであるかといえば、人はまさにその使命によって精神を病むのだ。
われわれはまあ大人から押し付けられるだけだからそれを拒否する余地も残されているが、ユダヤ人は神からその使命を絶対的なものとして負わされているのだから、そりゃあ大変にちがいない。
神に使命を与えられて生まれてきたという自覚を持てれば、そりゃあ優秀にもなれるだろうが、自分を限定してしまって精神を病む契機もつねにはらんでいる。
ユダヤ人の精神を病む割合が一般人と比べてどの程度のものか僕は知らないが、精神を病む危機を抱えていなければ、こんなにも多くのユダヤ人が心理学者になるはずがない。
相手の心理を読んで相手を支配し操作する交渉術(=コミュニケーション能力)に長けた人間は、そのぶんみずからの精神が病む危機も色濃く抱えてしまっている。社会に適合しているあいだは安泰でも、病気になったり年老いたり失職したりして社会に適合できなくなれば、まさにその選民意識や交渉術によって自分の首を絞めてしまう。
ユダヤ人の心理学者はユダヤ人患者の臨床例に恵まれている、いうことはないのだろうか。
ユダヤ人ゆえに精神を病む症状が過激になる、ということはないのだろうか。
ユダヤ人がほんとうに(精神的に)健康でイノセントな民族であるのなら、こんなにもたくさんのユダヤ人が優秀な心理学者にはならないのではないだろうか。
ユダヤ人は、現代社会の知性をリードしていると同時に、現代社会の精神の病理をもっとも色濃く負っている民族でもある。
ユダヤ教徒であることの病理というのはあるのではないだろうか。そしてそれはわれわれ現代人全体の病理であり、彼らはそれをもっとも過激に色濃く抱えてしまっている民族であるのではないだろうか。すなわち、コミュニケーションによって人を支配し操作してしまうという病理。人はまさにその能力によって、みずからを支配し操作し、精神を病んでゆく。
ユダヤ人は優秀な民族であるというなら、まあそれでけっこうだ。そうであるにちがいないとわれわれは認めよう。しかし人は、まさにその優秀なコミュニケーションの能力によって精神を病むのではないだろうか。
ユダヤ人とは、現代人の病理をもっとも過激に負っている人々ではないだろうか。
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   3・もっとイノセントに
人と人の関係の根源は、コミュニケーションにあるのではない。人を好きになり、人にときめくことにある。そしてそれは、コミュニケーションの不調から生まれてくる一方的な関係の心の動きなのだ。
たがいにときめき合っている人と人のあいだのコミュニケーションは不調である。
言葉をコミュニケーションの道具にしてしまったのは、いったい誰だ。
言葉はもともと世界や他者に対する(一方的な)ときめきの表出として生まれてきた。そこに、言葉の本質的な機能がある。それは、コミュニケーションの不調から生まれ、コミュニケーションの不調を生きる機能として生まれてきたのだ。あなたとわたしがわかり合うための道具として生まれてきたのではない、あなたと私がたがいに一方的にときめき合っていることができる機能として生まれてきた。
言葉は、けっして、あなたのことがわかってあなたを支配し操作するための道具であるのではない。あなたにとっての「りんご」という言葉とわたしにとっての「りんご」という言葉は同じではない。それでも「りんご」という言葉を共有してときめき合っている。意味を共有するのではない。「りんご」という言葉=音声それ自体を共有してときめき合う機能なのだ。
言葉の根源的な機能は「伝達」することにあるのではない、「共有」することにある。共有してときめき合うのが言葉の根源的な機能であり、それをこの国の古代人は「言霊(ことだま)が咲く」といった。
つまり人間の言葉は、言葉=音声を発することのよろこびや言葉=音声を聞くことのよろこびの上に成り立っているのであって、本質的には意味を伝達するための機能ではない。人と人がわかり合うための機能ではない。人と人が語り合うことのよろこびは、わかり合うことにあるのではなく、言葉=音声を発し合うことそれ自体にある。そのとき、わかり合うことが止揚されているのではなく、言葉=音声それ自体が止揚されている。だから「言霊が咲く」という。
語り合うことは、言葉=音声を止揚してゆく行為であって、わかり合う行為ではない。ひととひとは、わかり合わないでときめき合うのだ。たがいに相手を支配し操作し合わないで、ときめき合うのだ。
言葉は、根源において、コミュニケーションの道具ではない。
人類の歴史は、文字を持ったことによって、言葉をコミュニケーションの道具にしてしまった。言葉をコミュニケーションの道具として扱う機能として文字が生まれてきた。
小説家は、言葉をコミュニケーションの道具として駆使しているということにおいて、必ずしも言葉の根源に届いている人種だとはいえない。僕は、この点において小説家を信用していない。むしろ、批評家の方が信用できる。もちろん、すべての批評家というわけではないが。
小説家は、批評家に対してこういう。「実際に小説を書けもしないくせにわかったようなことをいうな」と。しかし小説家は、まさにその「小説が書ける」ということにおいて、言葉の根源に届くことのできない限界を負っているのだ。
そしてそれは、心理学者が心理の専門家であるということにおいて心理の根源に届く能力を喪失しているのと同じである。暴論をいわせていただくなら、彼らにわかるのは、不自然な心の動きだけなのだ。
コミュニケーションとは、人を支配し操作すること。「わかり合う」といえば聞こえはよいが、ようするにそういうことなのだ。相手のことがわかるから、相手を支配し操作することができる。そしてそのようにしてわれわれは自分のことがわかり、自分で自分を支配し操作しながら精神を病んでゆく。
分裂病であれ何であれ、精神を病むことが不自然なことだとすれば、それは自分で自分を支配し操作している現象にちがいない。自分で自分を支配し操作するからそうなるのであって、自然にそうなるはずがない。
自然に病んでしまう、などということは言語矛盾である。作為的だから、精神を病んでしまうのだ。
現代社会は、作為的なコミュニケーションの上に成り立っている。作為的なコミュニケーションが上手なユダヤ人は、現代社会においてもっとも優秀な民族である。そして、もっとも優秀で作為的であるがゆえに、もっとも精神を病んでしまいやすい民族でもある。
まあ、現代においては、世界中の誰もがユダヤ的なのだ。ユダヤ人ほどユダヤ的でないにせよ、誰もがユダヤ的なのだ。
つまり、誰もが、ユダヤ人のように自分で自分を支配し操作しながら精神を病んでゆく危うさを抱え込んでしまっている、ということだ。
現代社会の閉塞感とは、ようするにそういうことではないだろうか。政府や企業なんてろくでもないものだが、政府や企業のせいにしても根本的な解決にはならない。
もっとイノセントにときめいてゆくことのできる人間のかたちが、きっとある。
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しばらくのあいだ、本の宣伝広告をさせていただきます。見苦しいかと思うけど、どうかご容赦を。
【 なぜギャルはすぐに「かわいい」というのか 】 山本博通 
幻冬舎ルネッサンス新書 ¥880
わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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