アンチ「私家版・ユダヤ文化論」・24

共同体で暮らすわれわれにとって「父」は、「神」であると同時に「悪魔」でもある存在です。
「父」は、「神ではない」と認識されるとき、「悪魔である」と認識されている。
「悪魔ではない」と認識されるとき、けっこう「神」のように尊敬されたりする。
「・・・・・・ではない」、これが意識における「認識」の根源的なかたちであろうと思えます。
意識にとって「世界=他なるもの」は、「私の身体ではない」対象です。たぶん、そこから始まっている。
「私の身体」は、暑さ寒さや痛みや空腹感や疲れなど、苦痛として認識される対象です。そして「私の身体ではない」対象と出会ったとき、「私の身体」のことは忘れている。「世界=他なるもの」は、「私の身体」を忘れさせてくれる対象として立ちあらわれる。
意識はストレスとして発生し、ストレスからの「逸脱」として「他なるもの」と出会ってゆく。そのとき「他なるもの」は、ストレスを忘れさせてくれる対象として「祝福」される。「この身体」に気づくことはひとつのストレスであり、そのとき身体に対する「他なるもの」と出会えば、とうぜん「祝福」してしまう。意識はストレスとして発生するがゆえに、「祝福する」という体験にたどり着く。
われわれは、先験的に「祝福する」心性を持っているのではない。生きていれば、「結果」としてそういう体験をしてしまう、というだけのことです。僕はべつに「性善説」を信奉しているのではない。
この身体ではない「他なるもの」は、「この身体ではない」ということにおいて必然的に「祝福する」対象となる。
意識は、「この身体ではない」というかたちで「他なるもの」と出会い、「この身体」から「逸脱」してゆく。
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言い換えればわれわれは、「祝福する」対象と出会ってしまうからこそ、「祝福する対象ではない」というかたちで逸脱し、憎悪したりもしてしまう。
ヨーロッパの「一神教」は、「神ではない」という認識の「悪魔」のイメージが浮かびやすい。そして日本的な「すべてが神である」というときの「神ではない」対象は、「この身体」として認識されている。やおよろずの神の文化は、なんでも神なのだから、「他者」もまたすでに神と認識されている。しかし一神教の場合の「他者」は、「神ではない」存在になってしまうことが多い。
日本にだって、「神ではない」存在である「悪魔=妖怪」はいくらでもいますけどね。
たとえば「商人」という異人は、日本だろうとヨーロッパだろうと、共同体の中に入り込んで権力と結託してしまうから、民衆から「悪魔」と呼ばれる。そのとき民衆にとっての商人は、もはや「この身体ではない」対象である「他者=異人」ではなく、「他者=異人=神ではない」対象としての「悪魔」になってしまっている。
ばかな研究者たちが「商人は異人である」などと大合唱しているが、「商人」は、異人であって異人ではない存在なのだ。民衆にとって彼らは「われわれ(この身体)ではない」対象ではなく、「神ではない」対象なのだ。
「私家版・ユダヤ文化論」の内田樹氏は、ユダヤ人は「われわれではない」存在であると認識される、といっているが、そうじゃない、「われわれ(この身体)ではない」と認識されるレベルから逸脱して、すでに「神ではない=悪魔」と認識されているのだ。すくなくとも「ユダヤの商人」は。
「われわれはユダヤ人ではない」という認識と「ユダヤ人はわれわれではない」という認識とでは、同じようで、まったく違うのです。前者は、すなわち「ユダヤ人は悪魔である」という認識であり、後者の場合は、「ユダヤ人はこの身体ではない神である」という認識になる。それくらい、違う。
人は「われわれ(この身体)ではない」対象は「祝福する」のです。家族の外の「異人」だから、恋をするのだ。
「他者」は、「この身体」を介して認識される。だから「祝福」の対象になる。しかし、反ユダヤ主義者とユダヤ人のあいだに、身体は存在しない。身体を介してではなく、「神」を介して向き合っている。反ユダヤ主義者がユダヤ人を憎悪するとき、「ユダヤ人は神ではない悪魔である」と認識され、「われわれはユダヤ人ではない」と認識されている。
自分たちの神の向こうにいる存在だから激しく憎悪してしまうし、身体が介在しない関係だから、残酷に身体を攻撃できる。ユダヤ人は、「われわれ(この身体)ではない」のではなく、あくまで「神ではない」対象なのです。
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「神」とは「悪魔ではない」存在であり、「悪魔」とは「神ではない」存在である。
どちらも「畏れ=怖れ」を表象している。
反ユダヤ主義者にとってのユダヤ人は、「神ではない」ところの「父=悪魔」である存在らしい。
ユダヤ人は、ヨーロッパ人よりも「知性的」である。そして、ヨーロッパ人よりも「制度的」である。ユダヤ人のほうが、「カネ」とは何かとか「法」とは何かということをずっとよく知っているし、ずっとカネや法が好きである。「制度的」であるということは「監視している」ということだ。したがってユダヤ人は、「父=悪魔」である・・・・・・まあそんなふうにヨーロッパ人は認識しているのでしょう。そんなふうに認識するほかない状態にユダヤ人から追いつめられてしまう。
ユダヤ人は、人類を監視しにやってきた「悪魔」だ、と反ユダヤ主義者たちは思っている。
ノーマン・コーンの「シオン賢者の議定書」は、そういう反ユダヤ主義者に対して、「だったらもっと怖れさせてやろうか」という悪意をこめて、ユダヤ人のリーダーたちが集まってこの世界を支配するための会議を開いた、というありもしないことを、さもほんとうにあったことであるかのような体裁で書かれたものです。
ノーマン・コーンは、この本で反ユダヤ主義者がいかに愚かな被害妄想にとり憑かれた者たちであるかを告発したつもりだろうが、逆にユダヤ人がいかにえげつない民族であるかをあらためて浮かび上がらせてしまった、という一面もある。
自分の長所や短所について、自分で自覚しているのと同じように他者も見てくれているとはかぎらない。自分じゃ長所のつもりでも、他人から見たらただ目障りなだけだったりする。レヴィナス先生がユダヤ人の美点とか善性というように説明しているそのことが、われわれにはひどく邪悪でえげつないものに思えたりする。
ユダヤ人は、われわれを誘惑し、破滅させようとしている。ゆえに、ユダヤ人は殲滅しなければならない。反ユダヤ主義者がそう思ってしまうのも仕方のない面もある。一部のユダヤ人は、それくらいえげつない。彼らにとってのユダヤ人との関係は、ファウスト博士とメフィストという悪魔のような関係として認識されているらしい。ゲーテの「ファウスト」という小説は、ヨーロッパの中にユダヤ人がいるという歴史的な状況から生まれてきたのかもしれない。ユダヤ人はわれわれにサービスし、いつの間にかわれわれを無気力にしてしまう。ユダヤ人は、そうやってわれわれから金を巻き上げる。その目的のためにいつもわれわれを監視している・・・・・・どの民族よりも濃密な視線を持っているヨーロッパ人は、だからこそどの民族よりも監視されることの鬱陶しさを知っている。
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ユダヤ人は「知性的」で反ユダヤ主義者は「愚か」である、という安直な図式など、われわれは信じない。
あの知性的であった古代ギリシア人は、「反ユダヤ主義者」だったのです。彼らが生み出した「ギリシア神話」や「ギリシア悲劇」や「ギリシア哲学」は、同じころのユダヤ人たちが生み出した旧約聖書の物語より「愚か」でしょうか。
共和制のローマがギリシアにとって変わったのは、後者が都市国家うしの戦争ばかりしていたのに対して、前者は都市国家間のネットワークをつくってゆくことができたからでしょう。そうしてユダヤ人の国家であるイスラエルもそのネットワークに参加しながら、積極的に「ディアスポラ(離散)」していった。
もしもヨーロッパ人の「知性」の源流が古代ギリシアにあるとすれば、彼らのそれがユダヤ人より劣っているとはいえないでしょう。「知性」の性格が違うだけだ。
ユダヤ人の知性は、無限に上昇してゆくことができる。それにたいして「イカロスの失墜」というギリシア神話に象徴されるヨーロッパ人の知性は、「解体」という過程を持っている。
ナルキッソスの話は自分を見つめることことが招いた悲劇であるし、オイディプス王は、最後に自分の目をつぶしてしまった。ヨーロッパには、「見つめる(=監視する)」ことを解体してゆこうとする観念的な伝統があり、それが抱きしめ合ったりキスをしたりする文化になった。
それにたいしてユダヤ教旧約聖書では、「モーゼの十戒」のように、ひたすら自分見つめよ(監視せよ)と迫ってくる。彼らは「監視する」文化を持っている。レヴィナス先生によれば、ユダヤ教の神は何もしてくれない、ひたすらみずからの選んだ民を監視しているのだとか。ユダヤ人は「監視する」民族であり、逆にいえば「監視される」ことに耐えられることが彼らの強みであり知性のかたちなのだ。
平たく言えば、ユダヤ人に比べてヨーロッパ人はお人よしのところがあり、そこでいつもユダヤ人にしてやられてきた。
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キリスト教は、ユダヤ教の延長であると同時に、ユダヤ教の解体というかたちで生まれてきた。キリスト教は、キリストというユダヤ人がはじめたとしても、キリスト教をつくり上げたのは、みずからのエリアにユダヤ人を抱えているヨーロッパ人でしょう。キリスト教ユダヤ教の対立という以前に、キリスト教そのものがすでにユダヤ人問題として成り立っている。ヨーロッパの中にユダヤ人問題がなければ、キリスト教も生まれてこなかった。キリスト教は、ユダヤ人問題を克服しようとするヨーロッパ人がつくり上げた宗教なのだ。キリストは、ユダヤ人とユダヤ教を否定してヨーロッパの歴史に登場してきたのだ。
キリスト教徒=ヨーロッパ人には「知性の解体」という過程がある。そういうかたちでしか、ユダヤ人に対するコンプレックスを克服するすべはないし、それはある意味で上昇しつづけるユダヤ的知性よりももっと高度な知性であるともいえる。
ヨーロッパ人はいつだってユダヤ人との競争に負けてしまうが、負けてしまうほうが高度な知性を持っているということはありうる。
「エチカ」という哲学書を書いたスピノザは、キリスト教に転向したユダヤ人です。彼は、ユダヤ人として、ユダヤ人の知性の行く末をキリスト教に見出した。ユダヤ教を否定することこそ、自己を懐疑するユダヤ人のユダヤ人たる由縁なのだ。そうして、ユダヤ教を棄てきれないユダヤ人のように「我あり」という制度的な認識を解体できないヨーロッパ人であるデカルトのいじましさを批判した。何言ってるんだ、神があるだけじゃないか、と。「神がある」とは、「何もない」ということなのだ、と。
ユダヤ人は、「神ではない」のだ。キリストもまた、神ではなく、「救済者(メシア)」にすぎない。ユダヤ人は、「神ではない」存在としての「救済者(メシア)」もしくは「悪魔」である。ユダヤ教を否定しないユダヤ人は悪魔(=マムシの末裔)である、とユダヤ教を否定するユダヤ人であるキリストが言っている。
ヨーロッパ人にとってのユダヤ人迫害の正当性は、キリスト教がというより、ユダヤ人であるキリストその人が保証してくれている。
反ユダヤ主義者が「凶悪で愚鈍だから」とか、そういう問題ではないし、内田氏が言うように、自分たちがユダヤ人のようになって「世界でもっとも知性的な存在である」という座を奪いたいからでもない。
「われわれはユダヤ人ではない」、ということを確認したいからだ。内田氏の言うように、それを確認しているから迫害するのではない、確認したいからだ。キリストがユダヤ人であるかぎり、キリスト教徒はつねに「われわれはユダヤ人ではない」と確認することの困難さに身を置いている。確認しているのは、ユダヤ人は「神ではない=悪魔である」ということだけだ。
ヨーロッパ人が「われわれはユダヤ人ではない」と確認しようとするとき、不可避的にみずからの知性を解体してゆく状況に置かれてしまう。もともと彼らは知性を解体しようとする衝動を強く持った民族だから、「われわれは無限に知性を上昇させようとするユダヤ人ではない」と確認したくなってしまうのだ。
内田氏は「ユダヤ人ほど人間的な民族もいない」というが、彼らの旧約聖書は、人間性を否定した戒律を守ることによって受難を克服し上昇してゆく物語です。
それにたいしてギリシア悲劇は、人間性を肯定しながら破滅にいたる物語です。
知性を解体するとは人間性を肯定することであり、知性を無限に上昇させることは、人間性を否定して戒律(制度)に身をあずけてしまうことによって可能になる。
人は、知性を解体してゆくことによって戦争という大虐殺をするし、知性を解体しなければ誰も愛せない。他者を抱きしめることは見つめようとする(監視しようとする)知性を解体してゆく行為であるが、ナチスユダヤ人大虐殺もまた、善悪はともあれユダヤ人から監視されることを拒否して人間性を回復しようとする行為だった。
「愚か」になることは、人間的になることなることだ。そうして人間的になることによって人は、相手も自分も破滅に追い込んでしまう。人間性を否定して戒律(制度)を守ってゆかなければ、平和は維持できないし、知性も上昇し続けることはできない。われわれは今、そこをどうやりくりして生きてゆくのか、と問われている。