ユダヤ文化論の現代性・1

アンチ「私家版・ユダヤ文化論」の続きですが、最終コーナーに差しかかって、ちょいと気分転換にタイトルを変えてみました。
内田樹氏の「私家版・ユダヤ文化論」は、ユダヤ人の「知性」を止揚する物語として書かれています。
そして僕はいま、知性の最終的なかたちとしての「知性の解体」ということを考えながらこの本に対する反論を書いてきました。
現代のこの社会は、いま、「認知症」という問題を抱えている。それは、「知性の解体」ではない、「知性の解体」に失敗した病理現象です。彼らは、みずからの上昇してゆこうとする「知性」が、たとえば物忘れがひどくなるとか体が言うことをきかなくなってきたとかというかたちで上昇してゆくことの不可能性を突きつけられたとき、おおいに混乱してボケてゆく。上昇してゆくことしか知らない知性は、その不可能性を突きつけられたとき、壊れてしまうしかない。認知症とは、まさに「イカロスの失墜」です。
「解体する」とは、そういうことではない。上昇したところから降りてくる、ということです。ボケ老人には、そのような「知性を解体する知性」がなかった。
「知性」とは、知識を収集することではない。
知識は、すでにこの世にあるものです。それを頭の中に仕込むことが、「知る」ということになるでしょうか。若ければ、脳の収納庫はいくらでもある。しかし脳の中に知識を収納することは、脳の中で新しく生まれた「運動」とはいえない。それは、ただ単純に「すでにあるもの」を記憶するだけのことに過ぎない。記憶するのに、脳の「運動」など必要ない。たくさんの細胞が、ただ「ある」だけでいいのです。
つまりボケ老人は、収納庫に詰め込むことばかりして生きてきて、脳の中の「運動場」も「運動能力」も持っていないから、収納庫の減少に耐えられない。その事態がもう、即、脳の崩壊になってしまう。
彼らのアイデンティティは、「知る」ことではなく、「知っている」ことだったのだ。
たくさん詰め込めば、脳の中で新しく生まれるという運動の必要がなくなるし、新しく生まれるための機能もスペースも失われてゆく。そのために「知性」は、余分な知識を整理(解体)して、脳の中で新しく生まれる「知る」という運動の機能とスペースを確保しようとする。
「知る」という運動のできる「知性」は、できれば頭の中をまっさらな状態にしておきたいという本能を持っている。そうすれば、よりたくさんよりダイナミックに「知る」という運動ができる。
真に知性的であるものは、知性的であるからこそ、すでに得た知識を解体してしまう。そうやって頭の中をまっさらな状態にしておこうとする。
「知性」は、ノーベル賞の学者だけが持っているのではない。そのへんの庶民のほうがもっと知性的である場合もありうる。
すなわち、脳を知識の収納庫にしてしまわなければ、誰だって「知る」という脳細胞の「運動」を体験できる、ということです。脳細胞が若者の半分しか残っていない老人だって、場合によっては若者よりももっと「知る」という体験ができる。
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知識を収納することと、「知る」という運動とは、ちょいと違う。
それは、「気づく」ということだろうと思えます。
まっさらな状態の脳細胞が、世界との出会いにおどろきときめく、という体験。
人は、この世界を判断し分析する。それは、世界に先立って自分が存在している、という自覚の上に立った態度です。世界に先立って存在する者は、すでに世界を判断する基準を持っている。美しいか否か、正しいか否か、等々。しかしそれは、収納庫を区分けするだけの作業にすぎない。
この世界に遅れてやってやってきた者は、判断の基準を持っていない。ただもう世界が存在することに「気づく」だけである。しかし、それこそが「知る」という脳の運動にほかならない。そしてこの態度は、ユダヤ人か否かということではない。その問題は、近代合理主義の知識信仰という制度に侵されているか否かと問われなければならない。
つまり、ボケるか否かという問題なのだ。
この世界に、「善」も「悪」も、「正義」も「不正」もない。そんなふうに自分や他者を問う必要などなにもない。そうやって世界に対する判断基準を持ってしまったら、世界に「気づく」という体験はできない。そんなことは「わからない」のだ。何もかも「わからない」まっさらの頭で眺めたときに、はじめて「気づく」ことができる。
世界は、移ろい変わってゆく。まっさらな頭で、そのつど世界が存在することに「気づいて」ゆければいいだけだ。たとえば、春には花が咲き、夏には雲が立ち、秋には山が赤く染まり、冬には裸の木が枝を震わせる、そういう季節の移ろいに気づいてゆくことをしないで、つまり世界=他者に反応することをしないで正しく善なる自分にこだわってばかりいたら、そりゃあボケてしまうでしょう。
彼らはたいてい「いい人」だし、えらい学者だって、ボケる人はボケる。彼らの頭の中には「善」とか「悪」とか「正義」とか「不正」という言葉がいっぱいつまっている。しかしそういう判断基準を持っているということじたいが、すでに「気づく」という体験を喪失している証拠なのだ。そうしてボケてしまってから小学校の算数のドリルやら漢字の書き取りなんかをせっせとやっても、果たして効果があるのか。そんなことは、知識の収納庫を減らさないための悪あがきに過ぎないのではないか。
知識や、世界(他者)の判断基準など、最低限でいいのだ。
ボケていない老人は、算数のドリルも漢字の書き取りもしていない。では、彼らが何をしているのか。おそらく、「気づく」という「知性」の運動をしているのでしょう。彼らは、世界(他者)を判断するということをしない。
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「私家版・ユダヤ文化論」の結論部分では、「善」やら「悪」やら「正義」やら「不正」といった言葉がやたら氾濫してくる。レヴィナス先生がそんなふうに言っているから、内田氏も一緒になって狂おしくその言葉を追いかけてゆく。
しかしまあ、そういう部分を引用してけちをつけるのは、いまはやめておきます。
その前に確かめておきたいことがある。
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 人間はまず何かをして、それについて有責なのではない。人間はあらゆる行動に先んじて、すでに有責なのである。レヴィナスは、そう教える。
(・・・中略・・・)
 他者にたいする友愛と有責性、人間の人間性を基礎づけるものをユダヤ教は「人間の始原における遅れ」から導出しようとする。この不条理を人間的条理として受け入れるためには、私たちはここでどうしても因習的な時間意識と手を切らなければならない。
 ユダヤ教において、おそらく時間は私たちの因習的な時間意識とは逆に未来から過去に向けて流れている。この時間の転倒について、レヴィナスの言葉をもう少し聞いてみよう。
「私が隣人を名指すに先んじて、隣人は私を召喚している。それは認識のではなく、切迫(obsession)の形態である。(・・・・・・)隣人に近づきつつあるとき、私はすでに隣人に遅れており、その遅れの咎によって、隣人に従属しているのである。私はいわば外部から命令されている(外傷的な仕方で命令されている)のであるが、私に命令を下す権威を表象や概念によって内在化することがないのである」
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レヴィナスのこの説明は、とりたてて変わったものでもない。マルクスラカンを持ち出すまでもなく、哲学の常識なのではないのですか。
僕だって、道端で三輪車に乗って遊んでいる子供を眺めたとき、ふと「彼は私より先にこの世界に存在している。私はいま遅れてこの世界にやって来た」と感じて不思議な気分になるときがある。そんな気分は、誰の心の中でも、とくに意識されることもないまま体験されている。いわば、普遍的な人間存在のありようでしょう。
意識は、身体(脳)のはたらきから一瞬遅れて世界に反応する。つまりは、そういうところから発しているのではないか。
内田氏はこのことを「未来から過去に向けて流れている時間」と言うが、だったら他者は、「私」にとっての「未来」か。僕はそうは思わない。「過去から未来」だろうと、「未来から過去」だろうと、「時間の流れ」などという問題設定じたいが、すでに「制度的」なのだ。
それは、他者が「現在」で、「私」はそれから一瞬遅れている、ということではないでしょうか。レヴィナス先生の言うように、一瞬の「切迫」の問題なのだ。
われわれの「意識」は、決して現在に反応できない。「私」は、永遠に「現在」にたどり着けない者として生まれてきた。レヴィナス先生が「それは認識のではなく、切迫の形態である」というのは、おそらく「未来から過去に流れる時間」のことを指しているのではない。そんな「制度的」な問題ではないのだ。
生きてあることのなんともいえぬもどかしさ、というのは、誰の中にもあるでしょう。その一瞬の遅れという「切迫の形態」が、そういう気分をもたらす。そしてこの「切迫の形態」からもたらされるもどかしさが、人間に「知性」や「貨幣」を与えた。
「私」は、他者に命令されているわけでもないのに、すでに他者に「従属」している。それは、他者は「現在」としてたちあらわれ、「私」はといえば永遠に「現在」にたどり着けない存在だからだ。
「私」は、けっして「現在」にたどり着けない「有責性」を負っている。まったく、生まれてきたことは「刑罰」だと思います。しかしそれは、「私」が「罪」を犯したからではない。生き物が生きてあることはそういう仕組みになっている、というだけのことです。
べつにユダヤ教の神を持ち出すまでもなく、みんなそんな気分を抱えて生きているのだ。
神との関係の「先験的な有責性」なんて、キリスト教だって、そう解釈しようと思えばできることなのではないのですか。同じ出自なのだもの。
キリスト教ユダヤ教なんて、東洋の仏教国の人間からしたら同じようなものだ、と思ったらいけないのでしょうか。
つまり、特権的なユダヤ人の「知性」などというものは、あってもなくてどうでもいいのです。けっきょくは、何も知らないまっさらな状態、すなわち「遅れてこの世界に到来した」という地平に降りてゆくのが「知性」の行き着くところなのだから。
そういう胸の底に潜む認識、あるいは反省が、民衆の反ユダヤ主義を生み出している。
反ユダヤ主義者もわれわれも、内田氏ほど無防備にユダヤ人の「知性」を肯定してしまうことはできない。
内田氏のその身振りは、たとえばこんなふうです。
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反ユダヤ主義者がユダヤ人を欲望するのは、ユダヤ人が人間になしうるもっとも効率的な知性の使い方を知っていると信じているからである。ユダヤ人が人間にとってもっとも効率的な知性の使い方を知っているのは、時間のとらえ方が非ユダヤ人とは逆になっているからである。そして、そのユダヤ人による時間のとらえ方は、反ユダヤ主義者にとっては、彼らの思考原理そのものを否定することなしにはできないものなのである。
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まったく、人をばかにするのもいいかげんにしてくれ、と言いたいところです。これじゃあまるで、反ユダヤ主義者が知恵遅れか何かみたいじゃないですか。
反ユダヤ主義者は、ただもうユダヤ人をねたんでいるだけの存在なのか。僕はそうは思わない。彼らが「ユダヤ人は悪魔だ」という言葉にも、一片の真実と必然性はあるのだ。
僕はまあ、内田氏に比べたら知恵遅れみたいなものだけど、それでも、レヴィナスが言っていることがユダヤ人特有の思考原理だとはぜんぜん思わない。そのていどの考え方くらい、僕だってしている。あんなふうに上手に言葉にできないにしても。
ユダヤ人だけが特別であるものか。彼らが特別なのは、彼らの「情況」なのだ。そして「人間になしうるもっとも効率的な知性の使い方を知っている」のは、ノーベル賞をとったユダヤ人ではなく、90歳になってもまだボケない老人であろう、と僕は思っている。
ノーベル賞をとることは特別なことだが、それがすなわち「人間になしうるもっとも効率的な知性の使い方を知っている」ことの証明にはならない。それは、90になってもまだボケないことによって証明されるのであり、そういう「知性の解体」の仕方を知って今なお脳細胞の「運動」続けている知性こそ、もっとも高度な知性なのだ。
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しかしですよ。老衰で体が動かなくなって病院に入れられた90過ぎの年寄りが、まだ頭だけははっきりしていて、もう二度と家には帰れない、あとはもうここでこのまま死んでゆくだけだ、と悟りながら日々を過ごしてゆくことの寂しさというのは、いったいどんなものなのでしょうかね。内田氏は「お掃除をすることは人類の『センチネル(歩哨)』の仕事である」なんてのうてんきなことをぬかしておられたが、こういう年寄りこそまさに人間が生きるということの最前線に立っている「センチネル(歩哨)」であるといえるのではないでしょうか。
むかしならあんがいかんたんに死んでゆくことができたかもしれないが、医療技術の進んだ今は、それでも生きねばならない。見舞いに来る人もなく、彼(彼女)が毎日めそめそ泣いているとしても、その涙は、人類の歴史を背負った涙なのだと言える。その涙にこそ、もっとも高度な「知性」が宿っているのであって、ノーベル賞をとって悦に入っているユダヤ人や、人間の「善性」がどうとかこうとかほざいているレヴィナスや内田氏の思考にあるとは、僕は思わない。