ユダヤ文化論の現代性・2

だいたい、頭の悪いやつほどお勉強ができる。文明の発達なんて、頭の悪いやつらにリードされて実現してきたのかもしれない。僕は、はっとするような知性のひらめきを、そういう人たちから感じたことはあまりない。高度な知性を持った者たちは、むやみに知識をため込んだりはしない。だから、そういう者たちによって文明が発達することはない。文化人類学の対象である未開の人種が、この生の真実に気づいていないとはかぎらない。もしかしたら、ニーチェサルトルの言ったことなど、彼らだってとっくに気づいているのではないか、と思うことがある。ニーチェサルトルは、それを言葉にしただけのことでしょう。言い換えれば、えらい哲学者の言ったことなど、じつはすべての人類がすでに気づいていることかもしれない。
誰も気づいていないことを言われても、誰も感心しない。
われわれは、知らないことに気づくことはできない。すでに知っていることに気づくことができるだけだ。われわれは、「遅れてこの世界に到来した存在」である。そのような存在として、すでに知っていることに気づく能力を「知性」というのかもしれない。
ニーチェサルトルは、人間が「すでに知っていること」に気づいた人たちだ。しかし、気づくことができることなど、「すでに知っていること」のほんの一部です。未開人は、何も気づいていない。彼らは「すでに知っていること」だけで生きている。しかしだからこそ、気づいたことだけで生きているわれわれ近代人よりもずっと豊かな「知」を持っているともいえる。
また、近代人が気づいたつもりでいることが、すべて正しいという保証もない。われわれは、たくさんの誤ったことを、正しいと思い込んでいるのではないか。僕は、研究者が当然の前提のように語っているじつに多くのことに対して、そんなことあるものか、と思えてしまう。何が正しいのかということを問うのなら、現代の研究者よりも原始人や未開人に聞いたほうがずっと確かなのだ。
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たとえば、生き物は未来に向かって生きてゆこうとする「本能」を持っている、と研究者が常識のように言う。
では、生き物の本能は、「未来」が存在することを「すでに知っている」のか。現代の良識的な哲学者は、「未来という時間など存在しない」という。たぶん、アメーバもまた、そう答えるでしょう。われわれが生き物として「すでに知っている」部分においては、「未来という時間など存在しない」と認識しているのです。
だったら、「生きてゆこうとする本能」などあるはずがない。「生きてあろうとする本能」すらない。なぜなら「未来という時間など存在しない」のだから「死」もまた存在しない。「死」がないのなら、「生きている」という自覚も本能においてはないでしょう。だったら、生きてゆこうとなんか、思いようがない。そんな衝動など、持ちようがない。
生物学的な意味での「本能」などというものはないのだ、と僕は思っている。
虫には虫の「状況」があるし、人間には人間の「状況」がある。その「状況」において、衝動が発生するのだ。虫が勝手に持っている「衝動=本能」などというものはない。身体の仕組みと環境との関係において、「生きる」という行為が発生するというだけのことだと思います。
べつに、「私=意識」が生きていっているのではなく、身体が生きていっているだけであり、「私=意識」はそれに気づくことができるだけです。「私」は「この世界に遅れて到来した」存在であり、「私」が気づいたときは、「すでに生きている」のです。ゆえに「私=本能」などというものはない。
生き物は、「本能」によって生きているのではなく、「すでに生きている」のです。
生きることなど、身体が勝手にやってくれていることです。「本能」の手柄なんかじゃない。
魚のオスが、メスの産んだ卵に精子を吐きかけるのは「種族維持の本能」だといっている研究者もいます。ばかばかしい。そういう「状況」のときに精子を吐きかけるような身体の仕組みになっているだけでしょう。「本能」が種族維持をするのではない、そういう「状況」に置かれた身体が種族維持をしているのだ。
とにかく、現代の研究者たちの言うことは、あまりあてにならない。われわれは、彼らの思考様式に追随するのではなく、そうした近代合理主義に汚染された思考を解体してゆかなければならない。
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「知性」とは、知識を積み上げる能力のことではなく、人間という生き物として「すでに知っている」ことに立ち返ろうとする観念のはたらきのことです。なぜなら、そのほうがより深くより豊かに知ることができるからです。
われわれは、知識よりもずっと多くのことを「すでに知っている」のです。古今の哲学者の言ったことなんか、誰もが「すでに知っている」のです。しかしわれわれは、「すでに知っている」ことに「まだ気づいていない」のであり、そのための「知性」なのではないでしょうか。
頭の悪いやつは、知識をためこもうとする。頭の中を知識でいっぱいにしてしまっている。つまり、新しく入ってくる知識との関係に閉じ込められてしまっているから、「すでに知っていること」に気づくことができない。
しかし知性の豊かな者は、知識(あるいは知性そのもの)を解体して、「すでに知っていること」に向かって窓を開いている。
「すでに知っていること」に気づいて驚きときめくこと。それが「知性」という観念のはたらきではないだろうか。
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知性を問うことがわれわれにとって重要な問題であるのかどうかよくわからないが、「他者との関係」ということになれば、話はまた別です。けっきょくわれわれはこのことに四苦八苦して生きていっているのであり、この関係に失敗して精神を病むのだから。
で、上記の知性の問題を「他者との関係」に引き移していえば、「知性」は、「遅れてこの世界に到来した者」として、「すでに存在している」他者を「発見」し、驚きときめく。「知性」は、つねに「他者との関係」を解体してゆく。「他者との関係」を持っていないから、他者を「発見」するのだ。
われわれは「他者との関係(絆)」に閉じ込められることによって、他者を「発見」する(=気づく)機会を喪失し、精神を病む。「精神を病む」とは、他者の存在に驚きときめくという体験を喪失している状態のことです。
親子の絆がどうとかと言っても、家の中に「他者の存在に気づく」という体験はないでしょう。そういう関係=絆を解体して外に出て行ったときに、はじめて「すでに存在している」他者を発見し、驚きときめくことができる。
ひとりぼっちの人間になること、それが「知性」である・・・・・・なあんて言ってしまうとありきたりの結論になってしまうのだが、「個体」として存在できるかたちをつくってゆこうとするのは、生きものの根源的な衝動のひとつであるはずです。
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吉本隆明という人は、「心的現象論序説」という著書の中でこのことを「原生的疎外」という概念で説明しているのだが、その一方で「共同幻想論」では、家族の関係こそ根源的である、とも言っています。家族の「絆」は、「原生的疎外」の心的現象を奪ってしまう場として機能している。言うことが矛盾しているじゃないですか。この人は、いつだって口先だけなのだ。口先(レトリック)だけで人をたらしこもうとする。
家族の「絆」に抱きすくめられてあれば、誰も「個体」としての心的現象を持つことができない。つまり、他者の存在に驚きときめく「知性」を喪失してしまう、ということです。
たとえば、現代の「引きこもり」の多くは、いったん外に出てうまくやっていけなかった結果として「家」に戻ってくるというかたちで起きている。だから吉本氏は、「引きこもれ」という。家族こそ根源的な関係の場なのだから、その根源性をそこで再認識すればいいのだ、というわけです。
ほんとうに彼らは、そこで根源的な他者との関係を発見するでしょうか。彼らはそこで、親に対する驚きやときめきを体験しているでしょうか。やがて体験するようになるでしょうか。
なるはずがない。親を抱きしめて親とエッチをするのでしょうか。吉本氏は、家族は「性(セクシュアリティ)」の上に成り立った関係である。と言います。しかしじっさいは、家族こそ性の衝動を解体してしまう関係の場でしょう。夫婦だって、新婚時代は男と女としてたくさんエッチするが、安定した夫婦の絆が生まれてくるにしたがってだんだんしなくなってゆくじゃないですか。近親相姦は、根源的であるのか。子供たちが家を出てよその女(男)に興味を抱くことは、不自然なことなのか。
「引きこもり」の子供はたぶん、親との「絆」が強すぎて、外に出たときの他者の存在に驚きときめくという関係が体験できず、家に舞い戻ってきたのだ。それほどに彼らは、家族の「絆」に閉じ込められてしまっている。だから、舞い戻った家で親との関係をどうするかといえば、けっきょく自分を閉じ込めているその「絆」を壊そうとして荒れ狂うか、ひたすら無視して自分の部屋に閉じこもってカップラーメンをすすっているだけじゃないですか。
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そこで内田樹氏は、「外に出て働いたほうがいい、そうすれば他者との関係を体験できる」なんてお気楽なことを言っているのだが、彼らは、そういうところで他者との関係をうまく体験できなかったから、舞い戻ったのですよ。彼らにとっては、職場になんか他者との関係はなく、苦痛であるだけだったのです。そういう者に対して「働けばいい」なんて、よくそんな粗雑なことが言えるものだ。内田氏は、彼らに職場に出て働くことの効用を説得できる自信があるらしい。
僕は、ユダヤ人じゃないから、他人をたらしこむ(説得する)ことができるとも思わないし、したいとも思わない。
職場に出て他者との関係を体験できない者に向かって、「職場に出て他者との関係を体験したほうがいい」なんて、よくそんな無責任なことが言えるものだ。そんなことを言うのは、その前に、他者との関係を体験できる能力を彼らに与えてやってからにしてほしい。
彼らに必要なのは、職場に出て働くことではなく、他者との関係を体験できる能力なのだ。彼らは、上司とうまくやってゆける能力がないし、友人と親しく語り合える能力もないし、かわいい女の子の微笑みを受け止める能力もない。そんな者たちに向かって「職場に出て働けばいい」ということがどんなに無責任かということくらい、ちょっと考えればわかるはずです。
えらい学者なんて職場に出て働くことがどんなにストレスフルなことかということが骨身にしみていないから、そういうことが言えるのだ。骨身にしみているわれわれ庶民は、とてもじゃないがよう言わない。
できることなら、自分の時間をぜんぶプライベートな時間にしてしまいたい・・・・・・そう思っちゃいけないのですか。職場に出て働くことのストレスが骨身にしみている者は、誰だってそう思っている。だから一攫千金を夢見て、競馬などのギャンブルをしたり宝くじを買ったりするのだし。息子の引きこもりを否定できずにうろたえてばかりいる。
「引きこもり」の子供に必要なのは、たぶん、観念的に「家族の絆」を解体してしまうことにある。彼らが、家の中にいても家族を無視したり荒れ狂ったりするのは、家族の「絆」が他者との出会いに驚きときめく能力を喪失させる元凶であることを「すでに知っている」からでしょう。彼らは、家族の中にしかいられないからこそ、誰よりも家族にうんざりしている。
彼らが家の中にしかいられないのは、家族の絆こそ大切だとか、神に選ばれたユダヤ人は「人間的」であるとか、他者との関係を持てとか、そういう言説が世の中にはびこっているからでしょう。世の中にそういう「状況」があるから、彼の家族が彼を家族に閉じ込めてしまう。
他者との関係なんか、「解体」するものです。他者との関係を解体した者が、他者との出会いに驚きときめくことができる。関係を解体しながら、たえず出会いつづけること、それが他者との関係を築く行為であるのではないか。家の中で荒れ狂ったり自分の部屋に閉じこもったりする彼らは、そういうことを「すでに知っている」のであり、それは「すでに知っている」行為なのだ。彼らは、「絆=関係」に閉じ込められてあるからこそ、人間にとって、いや生き物にとってそれがいかに鬱陶しいことであるかということを、骨身にしみて知っている。