アンチ「私家版・ユダヤ文化論」・21

タイトルを元に戻しました。あと3回か4回、やっぱりこれでいきます。
ユダヤ人迫害は、単純に「いじめ」の問題だとも言い切れない側面がある。それは、いじめであって、いじめではない。差別であって、差別ではない。みずからを神に選ばれた民として他の民族を差別しているユダヤ人に対して、ヨーロッパ人は差別し返そうとしている。差別する地位をめぐっての覇権争いの趣がある。片方は実力でそれを証明しようとし、もう一方は、人数の多さと腕力で迫ってゆく。そして後者の差別し返す行為がきわめて困難であることと、それでも差別し返すことに一片の正当性が裏付けられていることに、この問題の複雑さがある。
世界中に差別はいくらでもあるが、ヨーロッパ人のユダヤ人に対する憎しみは特別であるのだとか。
この憎しみの根拠を、「私家版・ユダヤ文化論」の著者である内田樹氏は、ヨーロッパ人にとってユダヤ人は「もっと愛そうとする欲望」の対象であり、それが殺意を培養する、と言っています。
しかしこの分析は、おかしい。人間は「もっと愛そう」となんかしない。そんな、さらに絆に閉じ込められてゆこうとする衝動など、あるはずがない。そのとき反ユダヤ主義者は、あくまでユダヤ人との「絆」を解体しようとしたのでしょう。「個体」として存在する生き物は、絆を解体しようとする衝動を持っている。解体しつづけられる関係だけが、関係でありつづけることができるのだ。
そのつど関係を解体して出会いつづけられる関係こそ、もっとも良好な関係であり、解体できなくなって固着してしまったとき、それを解体しようとする殺意が芽生える。
殺してしまうことによってしか解体できない関係、それが、ヨーロッパ人とユダヤ人の関係なのだ。「愛そう」となどしなくても、両者のあいだにはすでに離れがたい関係が結ばれてしまっている。ユダヤ人はいつの間にか権力の中枢に入り込んでくるし、ヨーロッパ人もいつの間にかユダヤ人のその能力や財力を当てにしてしまっている。ユダヤ人の能力や財力によって、いつの間にか関係に閉じ込められてしまっている。そこから、殺意が芽生える。
「もっと愛そう」とするのではない、すでに愛し合う関係になってしまっている、それが鬱陶しくてたまらないのだ。
一般的には、差別することによって関係を解体できる。排除することができる。しかしユダヤ人は、差別することだけでは排除してしまえない関係がいつの間にかできてしまっている。家にいるほかない「引きこもり」の子供が、親のことが鬱陶しくてたまらないように。
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それは、父殺しの衝動であると同時に、引きこもりの若者のドメスティック・バイオレンスのようでもある。キリスト教徒であるヨーロッパ人は、つねにユダヤ教徒であるユダヤ人との「絆」の場に引き戻されてしまう。
ヨーロッパ人は、自分たちは世界でもっとも優秀な民族であるという自負によって、「他者」を喪失している。しかしその自負は、みずからのうちにユダヤ人を抱えていることによってしか成り立たない。ユダヤ人を排除してしまえば、ユダヤ人がもっとも優秀な民族になってしまう。ユダヤ人を排除して自分たちがもっとも優秀な民族であるためにはもう、ユダヤ人を抹殺してしまうしかないのです。
昔は、ユダヤ人をなんとかむりやり自分たちの周縁に追いやり抑圧してしまうことができた。しかし近代資本主義の発展とともに、もはやそれは不可能なことになった。そこで、ナチスの大量虐殺が起きた。
関係を解体することの不可能性、そこから反ユダヤ主義者のユダヤ人に対する殺意が生まれてくる。
家族は、抱きしめ合わないで、「監視し合う」場です。だから、解体することがいっそう困難な鬱陶しい関係を生み出してしまう。
恋人どうしのときは、デートをしてそのつど別れて(いったん関係を解体して)また次に逢う、ということをしているから、いつもときめいていられる。しかしそんな二人も、いつかは「監視し合う」関係になってゆく。
近代資本主義は、ヨーロッパ人とユダヤ人を「結婚」させてしまった。それが、「悲劇」の始まりだった。
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共同体や家族は、「愛し合う(監視し合う)関係」を止揚してゆく思想の上に成り立っている。しかし同時にわれわれは、生きものとしてその関係がいかに鬱陶しいものであるかということを「すでに知ってしまっている」。われわれがその関係を維持してゆくためには、つねにそのつど関係を解体するという手続きをとりつづけなければならない。
夫婦は、夫婦という関係を解体して「男と女」に戻らなければ、エッチができなくなってしまう。
では、母と息子が親と子という関係を解体して男と女の関係になっていいかといえば、そうもいかない。そこがやっかいなところです。母は、あるとき息子が「男」になっていることに気づく。そうしてそれを打ち消そうとして、ますます親と子の関係に執着してゆく。それは、父と娘の関係でも、同じようなことが起きるでしょう。たぶんそのときこそ、父と母は、両親とか夫婦という関係を解体して「男と女」の関係に立ち戻る必要がある。なのにそのときこそ「男と女」に戻ることがむずかしくなっていて、ますます夫婦や親子という関係に執着してしまう。そして世の中に溢れている言説や共同体のシステムが、その執着を後押ししてくれる状況がある。
それは、ある意味でとても「いい家族」かもしれないが、息子や娘の、他者との出会いに驚きときめくという体験をする能力を奪ってしまってもいる。奪われた息子や娘は、いったん外に出てもその体験ができなくてけっきょく家に舞い戻ってしまう。それが「引きこもり」の一般的なパターンなのではないかと思えます。
親たちに「関係を解体する」という身振りがないところで、「引きこもり」が起きる。
そのとき子供たちは、家族という関係を解体してもしなくても生きられないというダブルバインドにおちいっている。
われわれ大人たちに、そうした子供たちに向かって「職場に出て働いたほうがいい」といえる資格などない。職場は職場で、関係に閉じ込めてしまう空間なのだから、彼らがうまくやっていけるはずがないのです。
たぶん大切なのは、関係を解体する身振りを身につけることであろうと思えます。
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100メートル競争で誰かがフライングを犯せば、レースは解体してしまう。若者は、ほんらいフライングをしてしまう存在です。ほおっておけば、いつの間にか家の外にも共同体の外にも飛び出してしまう。そうやって、たとえばストリートにたむろしたりする。
「職場に出て働く」よりも、今流行っているストリートダンスでもやってみたほうが、よほど「引きこもり」からの脱出のきっかけになるのではないか、と思ったりします。もしかしたら、真夜中のビルのガラスの前に集まって練習に励んでいる若者たちは、みなどこかしらに「引きこもり」になってしまいそうな不安を抱えているのかもしれない。
ともあれそこは、家でも共同体でもない空間なのだ。
今若者に人気のあるサッカーなどは、とうぜんスポーツとして勝ち負けを競う性質を持っている。だからサッカーに熱中する若者は、共同体に参加してゆく能力のいくぶんかをすでに備えているともいえる。しかし、ストリートダンスに励む若者は、そういう勝ち負けをどこかで拒否している。彼らは、サッカーに熱中する若者と「引きこもり」の若者との中間的な存在です。
ストリートダンスは、「身体と対話する」遊びです。サッカーよりももっと純粋に身体と対話している。「引きこもり」の若者に必要なのは、もしかしたら「個体」としてみずからの身体と対話することかもしれない。みずからが「個体」として存在していることを確認する・・・・・・他者との出会いに驚きときめくという体験は、たぶんそこから生まれてくる。
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そんなことを考えていると、そんな親など殺してしまえ、と言いたくなってしまう。殺していいわけないのだけれど。
そしてわれわれ親たちは、殺されても仕方のない存在なのだということを、もっと自覚してもいい。
引きこもりの若者たちは、反ユダヤ主義者に似ている。
ユダヤ人だって、レヴィナス先生のように自分たちの受難を引き受ける態度を自分たちの「善性」なのだと居直る前に、自分たちがなぜ反ユダヤ主義者を生み出してしまうのかという一片の反省はあってもいいにちがいない。あなたたちは、そうやってみずからを「善」だと居直ることによって、迫害者との関係を喪失している。
関係を喪失した者たちは、関係を解体することができない。それが、「関係に閉じ込められる」という状況です。その状況において、ユダヤ人と反ユダヤ主義者が同居している。「引きこもり」の子供のいる家庭と一緒だ。
受難を引き受けることが自分たちの「善性」だなんて、他者を喪失した思想です。あなたたちがほんとうに「善」なる存在であるなら、あなたたちにとって自分の「善性」などどうでもいいことだろう。にもかかわらず、あなたたちは、自分の「善性」に対する執着を解体できない。それは、あなたたちの「善性」の危うさであると同時に、あなたたちの「知性」のゆがみでもある。「絆」とか「愛」とか「知識」といったものを止揚するそのえげつない「知性」が、反ユダヤ主義者を「引きこもり」にさせる。
「知性を解体しなければ誰も愛せない」ということを、さらに高度な「知性」は「すでに知っている」。だから、知性的であるものが愚かな恋をしてしまうのだし、愚かな恋をしてしまうものはすでに知性的なのだ。
ユダヤ人は、鬱陶しい共同体から家族に遣わされた「父」なる存在として、子供たちを家族という「絆」に閉じ込めてしまう使命を帯びている。そういう意味での「遅れてこの世界に到来した者」である。
だから反ユダヤ主義者という息子たちは、ナショナリズムに「引きこもり」ながら、悲鳴をあげて荒れ狂ってしまう。彼らは、自分を身動きならない場所に閉じ込めている敵が「父」であることを本能的に知っている。
「よい父」であろうと「悪い父」であろうと、父は、存在そのものが目障りなのです。この家にいるべき必然性など何もないのに、あたりまえのような顔をして目の前に立っていやがる。まったく、「粗大ゴミ」なのだ。
かつてユダヤ人が「粗大ゴミ」になってしまう不幸な時代があった。どんなにかっこよくていい父親でも、父であるかぎり「粗大ゴミ」なのです。それは、父であることの宿命なのだ。
生きものにとって関係に閉じ込められてしまうことがいかに鬱陶しく危機的な状態であるかということ、われわれのユダヤ人問題の考察は、けっきょくそういうところに行き着く。