アンチ「私家版・ユダヤ文化論」・22

「父」とは、共同体の制度性を象徴する存在であると同時に、「知性(知識)の上昇」を象徴する存在でもある。上昇してゆく知性(知識)が、共同体の制度性にたどり着く。
「父」は、共同体から遣わされた存在として、息子たちを「知性(知識)の上昇」へとみちびく。良くも悪くも、まあそういう存在だということです。
知性とは「逸脱する」観念のはたらきだ、と内田樹氏も語っています。我々の観念は、生きものとしての本性から逸脱して、共同体の制度性へと上昇してゆく。上昇しつづける知性には、つねに制度性の匂いがつきまとっている。
言い換えれば、われわれが共同体の制度を鬱陶しいと思うとき、上昇してゆく「知性」を嫌悪している。そうしてプライベートに戻ったわれわれは、会社帰りの飲み屋でおだを上げたり愚痴をこぼしたり、愚かな恋に溺れたりする。
飲み屋の女に入れ揚げて通いつめるなんて、典型的な「愚かな恋」です。けっこう知性的な人が、そういうことをするのですよね。そのとき彼がなぜ愚かになるかといえば、共同体の制度性に対する鬱陶しさをどこかしらに抱えているからであり、その鬱陶しさが知性を解体してしまうからです。
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共同体の制度性から「逸脱」しようとすることは、上昇してゆく知性を解体することであり、そうやって人は「愚か」になる。つまり、反ユダヤ主義者が「愚か」であるのも、知性が解体されるような「共同体の制度性に対する鬱陶しさ」を契機として持っているからでしょう。それ自体、「知性を解体しようとする知性」の運動であるからでしょう。
逆にいえば、ヒットラーのような「愚か」な男でも、共同体の制度性(=権力)にのめりこんでゆけば、あれほど賢く冷徹な人間になることができる。そのときヒットラーは、もっとも「覚めている=知性的な」ドイツ人だったのです。
また同じころの日本人が「鬼畜米英」と叫んだのも、それはそれで米英という「権力」にたいするひとつの反抗心であり「愚かさ」であったはずです。
もしも共同体の制度性が鬱陶しいものであるなら、無限に知性を上昇させてゆくことなんか誰もできない。そしてユダヤ人にはそうした能力があるというのなら、それは、彼らの中にはそれほどに制度性をいとわないで生きてゆける者がいる、ということだ。
べつに当人たちが自慢することでも、まわりが持ち上げることでもない。
また、彼らは制度性を鬱陶しがっていたら生きてゆけないような歴史を歩んできたというが、もともとそういう傾向を持っているのであり、そういう宗教的なイニシエーションを持っている民族なのだ。もともとそういう傾向を持っていたから、みずからのユダヤ性を解体しないで生き延びてくることができたのだ。
彼らが誰よりも「人間的な」民族であったのなら、そんなものはとっくに共同体に滅ぼされて、みずからの民族性を維持できないまま一般のヨーロッパ人に紛れ込んでいったことでしょう。
2000年も故郷エルサレムを想い続けてきたなんて、えげつない話です。田舎から出てきた山猿でも、三代続けば「江戸っ子」でしょう。
たぶん、この2000年の間に、ユダヤ人であり続けたユダヤ人より、いつのまにかユダヤ人でなくなってしまったユダヤ人のほうがずっと多いと思いますよ。そしてそういう人たちのほうが、ずっと「人間的」だと思う。
べつにキリスト教が本質的だとも思わないが、ヨーロッパ人に混じってヨーロッパで暮らして三代も続けば、自然にヨーロッパの宗教(文化・伝統)になじんでゆくでしょう。そうやって「状況」を受け入れてゆくのが、生きものの本性だ。
ユダヤ人は誰よりも「状況」を受け入れてゆく心性を持っていると同時に、誰よりも「状況」を拒否するかたくなさを持っている。どちらもユダヤ人なのだ。
ユダヤ人の原始的な共同性は、国家の共同性を拒否する。共同性が強いから、共同性を拒否できるのだ。「個人=個体」になってしまえば、共同性はしかたなく受け入れるしかない。彼らは、しかたなく受け入れる個体性を喪失している。
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知性とは、「逸脱」してゆく観念のはたらきです。
共同性とは、人間の本性から逸脱してゆく知性である。
原初の人類は、猿としての本性から逸脱してゆくことによって、人間になった。それが、直立二足歩行の開始です。
直立二足歩行は、立ち上がってもっと広い世界を見ようとする知性の上昇であると同時に、胸・腹・性器等の急所を外に晒して生きものとしての防御本能を解体してしまう姿勢でもある。そういうかたちで人類は、猿としての本性から「逸脱」していった。
直立二足歩行の観念性と身体性については、考えることがいっぱいあります。
たとえば、正面から他者と向き合うとき、四足歩行のときは、顔と前足しか見えません。それは、顔と前足しか相手に見せないということでもあります。その姿勢は、相撲の仕切りのようにもっとも攻撃しやすい姿勢であると同時に、もっとも防御的な姿勢でもある。人類は、その姿勢を棄てたのです。
そうして直立して相手と向き合う事態を成り立たせてゆくためには、相手を攻撃しようとする意志も防御しようとする意志も解体してしまわねばならない。人類はそこで、生きものとしての本能のごとき衝動を棄てた。正確にいえば、「みんなで棄て合った」のです。
その代わり、相手の体のより多くを見ることのできるよろこびを得た。そこからさらに、見つめ合い抱きしめ合うよろこびを得た。
すなわちそこで、そうやって逸脱してゆく「知性」を獲得したのです。
見つめあうなどということは、攻撃と防御の意思を棄てなければ出来ることではない。と同時に、より多く攻撃や防御の意志が生まれやすい姿勢でもある。そうやって、生きものとしてのレベルから逸脱して、観念が上昇してしまう。だからそこで、抱きしめ合う。それは、見つめ合うことをやめて、攻撃や防御の意志(観念=知性)を解体してまう行為です。抱きしめ合ってさらに頬をくっつけ合うなんて、まさにたがいの視界から相手の姿が消えてしまう姿勢です。
目を閉じてキスをすることもしかり。
それらは、より高度な観念=知性を獲得してゆくことであると同時に、上昇してゆく観念=知性を解体してしまうことでもある。
人類は、直立二足歩行を常態とすることによって、上昇してゆく知性を獲得したと同時に、上昇してゆく知性を解体してゆくさらに高度な知性も獲得していった。
「逸脱」してゆく運動は、上昇してゆくことから、やがて解体してゆく地平にたどり着く。
人類は、「人類になろう」としたのではない、猿であることを「解体」したのだ。
生きることは、「生きてゆこうとする」ことではない、「生きてある現在をたえず解体してゆく」ことにある。
現在を「・・・・・・ではない」とたえず否定(解体)してゆくこと、それが「逸脱」することであり、「知性」という観念の運動なのではないだろうか。
現在を「・・・・・・ではない」と否定するとは、たとえば、空腹の状態をいやだと思うことです。息をする行為は、息苦しい状態を否定する行為です。痛い、とは、痛い状態を否定する反応です。生きてあれば、体のどこかしらに不測の事態が起きる。生きる行為は、体を消費する行為です。
何かが「欲しい」と思うことは、それを持っていない状態を「・・・・・・ではない」と否定することの上に成り立っている。
身体が「存在する」と自覚することは、身体が「ない状態ではない」と否定することです。
意識はまず「ない」状態の知覚として発生する。そして「ないではない」と世界を知覚する。「・・・・・・ではない」と知覚することが、意識のはたらきです。そうやって「逸脱」してゆくことが生きるいとなみです。
したがって知性もまた、知性を解体(逸脱)していってしまう。
生きものが生きてゆくことはつまるところ「逸脱」してゆくことであるが、直立二足歩行によって、意識における「逸脱」のダイナミズムが発生した。それが「知性」なのではないだろうか。