アンチ「私家版・ユダヤ文化論」・23

もともと人類の社会に「父」などという存在はいなかった。母子関係だけがあった。
あるとき、その関係に「父」を挿入した。
チンパンジーは、こんなことをしないでしょう。たぶん、1000万年くらいたいして変わりばえのしない社会形態でやってきている。
しかしそのあいだ人間は、社会形態においてもどんどん「逸脱」を繰り返してきた。たえず「逸脱」し、さらに「逸脱」してゆくということを繰り返してきた。
「父」が存在する社会形態は、たえず「父」という存在を解体してゆくことの上に成り立っている。「父」という存在を止揚してゆくことの上に、ではない。止揚すれば、そのあとに逸脱して「父」のいない時代になってしまう。人間は、そういうことをやりたがる生きものなのだ。
太平洋戦争前までのこの国は、圧倒的な父権社会だったのに、今やこの国のお父さんは「粗大ゴミ」として、よその国の父親以上に影の薄い存在になってしまった。
強い「父」を存続させるためには、「父殺し」の物語が必要なのです。
確かな「神=父」を存在させるためには、「かつてわれわれは神=父を追放した」という物語が必要なのです。
ユダヤ人のヨーロッパでの受難の歴史が「神の不在」を意味するものであるなら、それこそが「神の存在」を強く意識する体験として機能してきたのだ。
ヨーロッパ人にとってユダヤ人が「父」としてイメージされるということは、彼らの宗教観からいって、それは「神」と同じ存在としてイメージされるということです。
ユダヤ人が「父=神」だなんて、耐えられないことです。そうして、とにもかくにも彼らの宗教は「父殺し」の上に成り立っている。彼らにとってユダヤ人を迫害することは、ユダヤ人は「神」ではない「悪魔」なのだ、という認識の上に立とうとするきわめて神聖な行為だった。
それは、彼らが「凶暴」だったからでも「邪悪」だったからでもなく、あくまでも敬虔な宗教的感情だったのだ。
それを、「凶暴さ」や「邪悪さ」として語るノーマン・コーンも、内田樹氏の「さらに愛そうとするがゆえの有責感の暴走」などという説明も、何言ってるんだか、という気がします。
それは、「逸脱(知性を解体)」しようとする知性の問題であり、ヨーロッパ人に「父殺し」を教えたのは、ほかならぬユダヤ人だったのではないか。
人類にとって「父殺し」は、神聖な行為なのだ。息子は、「立ちはだかる父」を殺す権利がある。つまり、そういう文化の上にこれまでの共同体の歴史がつくられてきたのであり、ヨーロッパ人は、ことにそういう潜在意識が強いらしい。
現代のこの国でお父さんが「粗大ゴミ」扱いされるのも、ひとつの「父殺し」の衝動ではないだろうか。
われわれは、存在するはずのない「父」を家族に存在させて、この社会をいとなんでいる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
「父」の存在のかたちとしての「立ちはだかる」とは、「監視する」ということです。
直立二足歩行は、急所とともに全身を相手の前に晒してしまう姿勢です。そのとき相手は、こちらを「監視する」存在になる。見なくても、他者は存在そのものがすでに「私」を監視しているし、見られなくても「私」は、存在そのものにおいてすでに「監視されている」。直立二足歩行によって人類は、そういう存在になった。だからわれわれは、そのストレスフルな関係を解体しようとして、抱きしめ合う。そうやって「関係を収拾してゆく作法」を伝統としてつくってきた。
つまり「監視する」観念のはたらきであるその「知性」を解体してゆくいとなみから、「伝統」がうまれてくる。
それは、関係を築く行為であると同時に、そのストレスフルな関係を解体する行為でもあります。きっかけとしては、関係を築こうとしたのではなく、「・・・・・・ではない」というかたちで関係を解体しようとしたのです。関係を築いたのは、たんなる結果にすぎない
人間は、「関係を解体しようとする」存在です。解体しようとして築いてしまうのが、人間の関係です。
父と子の関係は、関係を解体しようとする衝動の上に成り立っている。だから「父殺し」の衝動を持つのだし、解体した結果として父を排除した家族間の結束が生まれてくる。ナチス時代のドイツは、おそらくこうした構造としてユダヤ人が排除され、国民の結束がもたらされていた。
また、戦争になれば、父は戦士として家族や国から出てゆき、家族の結束も国民の結束も強くなる。戦争は、父を追放する装置でもあるのだ。
われわれは、「父殺し」の衝動を、ノーマン・コーンやフロイトや内田氏のようには考えない。
「父」は、存在そのものにおいて、すでに家族を監視している。
もっとも厳しい「監視」は、直立二足歩行の姿勢の例が示すように、正面から向き合ってまじまじと見つめることです。M・フーコーによれば、近代的な監獄は中央に監視塔を置いてまわりに囚人の部屋を配置するのだとか。それによって、すべての囚人と正面から向き合うことができる。
同様に、父の稼いできた金で家族が暮らしているということは、父が家族の中央に君臨して家族を監視している、ということを意味している。父は、存在そのものにおいて「監視塔」なのです。
ユダヤ人だって、いつの間にか共同体の中枢の特権階級に入り込んで、民衆を「監視する」存在になってしまっている。
権力者とは、「監視する者」のことです。城が町の中央につくられるのは、民衆を盾にして敵の侵入を守るためであると同時に、そうやって民衆を監視するためでもあるのです。
ユダヤ人がヨーロッパ人にとっての「父」を象徴する存在であることは、ただたんにユダヤ教キリスト教の祖型であるということだけではない。それだけだったら「父殺し」の衝動なんか持たない。それだけのことにしてしまうから、ノーマン・コーンやフロイトや内田氏のようなわけのわからないへりくつが捏造されてくるのだ。
人は、見つめ合おう(監視し合おう)とする存在であると同時に、見つめ合う(監視し合う)関係を解体しようとする存在でもある。
ヨーロッパ人は「見つめる」という視線がとくに濃い民族です。だからこそ、その関係を解体しようとする衝動もことさらヒステリックになってしまう。つねに異民族との関係を持ち、しかも都市国家という小さな単位で自閉してゆこうとする衝動の強い彼らは、他者を敵か見方かと吟味しようとする。彼らは「心理学」が大好きなのだ。そうやって他者を見つめようとする意欲(愛情)も強いが、そのぶん関係を解体しようとする「憎しみ」も信じられないくらい強く深い。
彼らはユダヤ人を、内田氏の言うように「さらに愛そう(見つめよう)とした」のではない。「見つめてしまう=見つめられる」関係を解体したかったにもかかわらず、その不可能性に気づき、錯乱したのだ。
人間の精神は、関係を築けないことによってではなく、関係を解体できないことによって錯乱するのです。
知性を上昇させられないことによってではなく、知性を解体できないことによって、錯乱するのです。それが、認知症とか鬱病といった現象です。
共同体は、民衆を監視する。そして民衆に対しては、共同体を監視せよ(見つめよ)と迫ってくる。その関係に閉じ込められることが苦痛であるとき、人は錯乱する。それがよろこびであるあいだは平静でいられるが、この生は、そうやって自分(=個体としての自覚)を喪失したままいつまでもよろこびであり続けることができるか。誰だってときにプライベートな自分に立ち返って、恋をしたり酒を飲んだりしたいでしょう。共同体のそうした制度性に巻き込まれたまま、そういうプライベートな行為によろこびを見いだせなくなったときに、錯乱する。
ケネディは、大統領の就任のときに、「アメリカ市民諸君、諸君は、アメリカが諸君のために何をなしうるかではなく、諸君がアメリカのために何をなしうるかを問いたまえ」と演説しました。君たちが国を「見つめよ」というわけです。そうやって、アメリカが結束していった。けっこうあくどくて怖い演説です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
これだけ世の中に情報が氾濫すれば、人びとの「見つめよう」とする衝動も際限がなくなってしまう。
「上昇する知性」とは、「見つめよう」とする衝動であり、「監視しようとする」観念のはたらきです。われわれ現代人は、知識や情報を監視している。知識や情報を収集するとは、そういうことです。われわれは、「幸せな暮らし」というイメージを監視している。商品(=市場)を監視している。あるいは、監視するように仕向けられている。有名人のスキャンダルを監視している。
ユダヤ人がきわだって知性的であるということは、ユダヤ人は人類を監視する存在である、ということでもあります。われわれは、どうもユダヤ人によって共同体の中央の高み(監視塔)から監視されているような気がする・・・・・・たぶんヨーロッパ人は、ずっとそう思いながら歴史を歩んできた。
ようするに「父」とはそういう存在であり、現代のこの国の娘や妻がお父さんを「粗大ゴミ」として毛嫌いすることと、ヨーロッパ人がユダヤ人を「悪魔」だといって迫害しようとすることと、まったく別の衝動だとは僕は思わない。
お父さんが物欲しげな目で娘を見ることは、それじたい「監視する」行為です。べつにいばっているから「監視している」とか、そういうことじゃない。「父」は、存在そのものにおいて、すでに「邪悪な監視人」なのだ。