アンチ「私家版・ユダヤ文化論」・26

前回、「私家版・ユダヤ文化論」の中で言葉の起源に触れている部分を取り上げましたが、そのあとに次のような記述が付け加えられています。
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それと同じように、「ユダヤ人」という概念はその人を指して「おまえはユダヤ人だ」と名づける人と同時に出現した。「ユダヤ人」という概念で人間を分節する習慣のない世界には、ユダヤ人は存在しない。ユダヤ人が存在するのは「ユダヤ人」という名詞が繰り返し同じ何かを指すと信じている人間がいる世界の中だけである。
私たちは、ユダヤ人の定義としてこの同義反復以外のものを有していない。
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最初に「ユダヤ人」という「概念」があったのではない、ユダヤ人と出会ったときの感心したり不愉快になったりするというとくべつな心の動き=感動があっただけだ。その体験が「ユダヤ人」という言葉を生んだのであって、ユダヤ人と他の民族を「分節化」するためではない。はじめは、誰もがユダヤ人だって同じ民族だと思っていたのだ。「ユダヤ人という概念で人間を分節する習慣のない世界」で、「ユダヤ人」という言葉が使われていたのだ。そんな習慣などないにもかかわらず、ユダヤ人との出会いにとくべつな感動体験があったのであり、その体験が蓄積されていった「結果」として、ユダヤ人を「分節化」していったのだ。
ユダヤ人」という言葉の本質は、「ユダヤ人はわれわれではない」と分節化することにあるのではない。「ユダヤ人」それじたいに憑依してゆく、その固有の感動体験に由来している。そのとき「われわれ」という意識はない。それは、「われわれ(この身体)」という意識が消失する体験だから、深く心に刻まれるのだ。「われわれ」という意識が消失して、ユダヤ人に憑依していったときに「ユダヤ人」という言葉が生まれたのだ。
フランス人は、「ユダヤ人はユダヤ人だ」という言い方をよくするらしい。言葉は、「分節化する」のではない。「すでに分節化されてある」ことに気づく体験なのだ。
ユダヤ人という概念」があるから、感心したり不愉快になったりするのではない。感心したり不愉快になったりする体験の蓄積から、「ユダヤ人という概念」が生まれてきたのだ。したがって、「ユダヤ人という名辞と概念」などなくなっても、ユダヤ人に対して感心したり不愉快になったりする体験はなくならないし、その体験がなくならないかぎり、「ユダヤ人」という言葉もなくならないのだ。反ユダヤ主義者にとっては、ユダヤ人だからうざったいのではない。うざったいからユダヤ人と呼んでいるにすぎない。
言葉の本質において、「名辞と概念」など、たいした問題ではない。それは、あとから付け加えれた機能なのだ。
世界は「すでに分節化されてある」のであり、「すでに分節化されてある」ことに気づく体験として言葉が生まれるのであれば、根源的にはその際に「名辞と概念」を付与しようとする衝動は存在しない。
言葉は、「名辞と概念」として発生するのではない。心の動き=感動体験の表現として発生する。そのとき「名辞と概念」を与える主体である「私=この身体」は消失している。そのとき意識は、「この身体」を離れて、世界に憑依している。
反ユダヤ主義者が「ユダヤ人」という言葉に憑依してしまうのは、「ユダヤ人という名辞と概念」の問題ではない。「憎む」というかたちでその鬱陶しさから解放されたいからであり、そういう「心の動き」の問題でしょう。「ユダヤ人という名辞と概念」が鬱陶しさをもたらすのではない、鬱陶しいから「名辞と概念」を生んだのだ。
反ユダヤ主義者は「ユダヤ人の定義としてこの同語反復以外のものを有していない」のではない。「ユダヤ人の定義(=名辞と概念)」から離れた、それ以外のどうしようもない「鬱陶しさ」を有しているのです。
ユダヤ人は「知性(観念)を上昇させよ」と、たえず人類を監視してきた。少なくとも僕は、もはや「ユダヤ的知性」におべっかをつかっているときではない、と思っている。
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ユダヤ人を非難するつもりはありません。
ただ、内田氏の、ユダヤ人は人間的で知性的な民族だ、というような安直な感想や、レヴィナス先生の、ユダヤ教は人間の最高の善性を示している、というようなもったいぶった説明に頷く趣味は僕にはない、と言いたいだけです。
まったく、この世の中には、口先だけ他人をたらしこもうとする人間が多すぎる。まあそういう能力においては、ユダヤ人はぴか一であり、それは自他ともに認めるところでしょう。
かつて柄谷行人氏は、ヴィトゲンシュタインを引用しながら、他者との関係および言葉の本質は「教える=学ぶ」の関係をつくることにあり、「説得」しようとするのが他者に対する根源的な態度なのだ、と主張しておられました。
しかし「教える」とか「説得する」とか、よくそんなおぞましいことが言えるものです。
言葉は、そんなすれっからしの大人のためにあるのか。そんな大人が生み出したのか。
僕のような愚かな人間にとって他者は、教えたり説得したりすることの不可能性を漂わせて目の前にあらわれるだけです。
柄谷氏は、その不可能性の谷を前にして「命がけのジャンプ」をしてゆくことが「教える」ことだというのだけれど、現代社会の貨幣の性格も含めてそういう「構造」があることなら僕にも多少はわかるけど、それがそのまま他者との関係の本質だとは思わない。他者との関係の本質は、それだけじゃない。「関係を解体する」ということももう一方にある。これは、何度でも言います。
言葉は、発せられた瞬間、聞く者の所有になる。聞く者がその言葉をなんと解釈しようと、聞く者の自由です。つまり、言葉そのものに「伝達する」機能がそなわっているだけなのだ。
言葉を生み出した原始人は、他者に対して、教えようとか説得しようとする衝動なんかなかった。彼らは仲間内でこじんまりと暮らしていただけで、アメリカ合衆国のような人種のるつぼに置かれて四苦八苦していたわけではない。原始社会の言葉は、意思が疎通しないことに悩んだからではなく、意思が疎通していることの鬱陶しさを解消する機能として生まれてきたのだ。関係を築くためではなく、自他を分節して関係に切れ目を入れる機能として、言葉が生まれてきたのだ。
意思が疎通している空間=関係でなければ、言葉は生まれてくることができない。教えようとする衝動も教える必要もない空間=関係から、言葉は生まれてくるのだ。
そうやって人間が一ヶ所に群れ集まってしまうことの鬱陶しさを解消(解体)する機能として言葉が生まれてきた。それは、あくまで「仲間内の鬱陶しさを解消する」ためであって、「仲間内になる」ためではない。すでに仲間内になったときに、言葉が生まれるのだ。
その点は、柄谷氏も「言葉の本質はモノローグである」と言っておられた。
原始人は、言葉によって「関係」をつくろうとしたのではない、「解体」しようとしたのだ。
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茶店で向き合いながらおたがいに黙りこくっていたら、気まずいでしょう。それは、関係が壊れている状態ではなく、たがいに息を殺して監視し合いながら、ともに関係に閉じ込められてしまっている状態です。
そこでどちらかが言葉を発すれば、たがいの意識が言葉に向けられ、その気まずい関係に対するこだわりが消えてゆく。そのように言葉は、いったんつくられてしまった関係を解体し、「出会い」の状態に押し戻す役割をしてくれる。
会話をすることは、たえず関係を解体しながら、関係が生まれる以前の出会いの瞬間の場に立ちつづけることです。
人は、言葉によって関係をつくるのではなく、たがいの存在そのものが帯びている監視し合うという関係を解体している。
直立二足歩行は、監視し合う姿勢です。われわれは、根源的に監視しあって存在している。
そういう関係を解体して出会いの場に立つこと、それが言葉の根源的な機能です。
したがって言葉は、根源的には「教える=学ぶ」という関係をつくるためにあるのではない。そりゃあ、教えるほうはしゃべりつづけているのだから、関係に対する鬱陶しさはないかもしれないが、聞くだけのがわは、たまったものじゃない。
「話す」ことの本質は、言葉を他者とのあいだの空間に浮かべることであって、説得しようと他者の体にねじ込むことではない。
言葉は、「監視する=教える」ことを断念する態度の表現として生まれてきた。
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「おはよう」という言葉は、ほんらい、朝のすがすがしい空気のなかで出会ったことの喜びを表現していたのであって、相手を説得しようとする意思など何もなかった。
イタリア人が「チャオ」というとき、その場に立っていることのたんなる「気分(体感)」を表現しているのであって、その言葉の「名辞と概念」を表現しているのではない。「名辞と概念」は言葉が勝手に持っている機能であって、それを発する人の「気分(体感)」ではない。イタリア人が「名辞と概念」を表現しようとする意図(スケベ根性)だけで「チャオ」と言っているなんて、人間という存在を愚弄している。人間というのは、そんな他者に対する手練手管だけで生きているのか。「名辞と概念」を離れた、存在していることの「名づけようのない気分(体感)」というのは、誰にだってあるでしょう。そのとき彼(女)が澄みわたった青い空の下に立っていることやそこで人と出会ったことの気分(体感)は、ただの「名辞と概念」と言うより、「名づけようのない感動」と言ったほうが正確でしょう。
人と人が出会ったときの一瞬の戸惑い・・・・・・町を歩いていて、知り合いの人と出会ったときに、なんとなくあいさつしそこなって気まずい思いをするときがある。きわめて危うい姿勢である直立二足歩行を常態とし、存在そのものにおいてすでに監視し合う関係にある人間という生き物には、そういう瞬間があるのです。その、相手に対する関心に立ち止まってしまった「関係」を解体して、たがいの意識を朝のすがすがしさに向ける。その「おはよう」という言葉によって、一瞬固まりかけた監視し合う関係が解体されるのです。
「おはよう」という発語は、「名辞」でも「概念」でもない。たんなる掛け声みたいなものです。そこに「名辞と概念」を付与して同じ共同体の一員であることを確認するための道具にするのは、監視しようとする共同体の問題であって、言葉の発生とは何の関係もないことだ。
言葉の本質が「名辞と概念」にあると考えるから、「教える」とか「説得する」などという制度的な機能を錦の御旗のように振りかざしてくるのだ。
彼らは、恋をすることは相手を口説き落とすことだと思っているらしい。しかしそこに「出会いのときめき」があれば、口説く必要など何もない。
まあ口説くにしても、「あなたは私の愛を受け入れるべきだ」となんだか法的規制のように説得するよりも、ただ「あなたにあえてうれしい」と自分の感動を素直に原始的に表現するだけのほうが、たいていの場合有効だと思うのですがね。現代のこの国のおじさんたちは、前者の意欲(権力欲)ばかり強くて、後者の感動がないから、家の娘にばかにされ、外に出てもちっとももてないのでしょう。
言葉を発するということは、言葉を「伝達する」のではなく、空間に浮かべる行為なのだ。
柄谷氏も内田氏も、「伝達する」という制度的な機能というか、そういう言い古されて手垢にまみれた言説空間にとらわれすぎている
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貨幣の起源でも、たぶん同じです。
商品の価格は、その起源においては、売り手ではなく、買い手がつけていたそうです。現代のように商人が消費者を説得するかたちで値段をつけるのではなく、買うがわの欲しさの度合に応じてつけられていた。つまり、そのとき売り手は「説得する」ことを断念しており、その商品に「価値」という「概念」はなかった。「商品」ですらなかった。買うがわが、それを商品にした。
それは、当然たどったであろう歴史的な段階であり、値段というお金のことは、お金を持っている者がつけるのがもっとも自然です。貨幣経済は、そこから始まった。今でもアフリカの未開地には、そういう習慣が残っているところがあるらしい。
そうして買い手にしても、売り手を説得しようとする意志はなかった。あくまで商品との関係で、自分の欲しい度合以上のお金を払う気にはなれなかったし、安い値段で巻き上げてやろうという魂胆も持たなかった。
たとえば、アフリカの奥地で、つい最近まで行われていた習俗です。海から塩を運んできた生産者は、集落の外の決められて場所に塩の壺を並べておき、いったん立ち去る。そのあと村びとがそれぞれ値段をつけてお金を壺の横に置いておく。翌日戻ってきた生産者は、納得した値段のお金は受け取って塩の壺を残し、納得できないぶんはお金を残して塩の壺だけを持ち帰ってゆく。
文化人類学では、こういう習俗を「沈黙交易」といっています。しかしこんなことは、村びとどうしが申し合わせて同じ値段のお金を置いておけば、何の意味もなくなってしまう。それでもそうしない歴史的な段階があった、ということです。つまり、自分で値段をつける行為が、ひとつの貴重な娯楽だったのですね。みんなと一緒の決められた値段なんかつけたくなかった。
それは、言葉と同様に、自分の感動をそのまま表現し、お金を売り手とのあいだの「空間に浮かべる」行為だった。
物々交換をしていれば、やがては、どちらが損か得かという商品を離れた人間関係が生まれてくる。その鬱陶しい人間関係を解体し、あくまで商品そのものとのすっきりした関係に戻ろうとして、貨幣経済が生まれてきた。もちろん、交換の品物を持っていない者にもそれを手に入れる機会を与えるという役割もあった。上記の文化人類学的事例は、そういうことを物語っている。
貨幣は、最初からマルクスが説くような複雑怪奇な魔力(説得力)を持っていたわけではない。言葉と同様、あくまでも素朴な感動の表現だったのだ。
それは、人と人の鬱陶しい関係を解体するためのアイテムだった。
しかし、やがて「商人」が現れ、その素朴な性格を、歴史とともにどんどん変質させていった。
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貨幣経済は、ユダヤ人の積極的なディアスポラ(離散)を推進する役割も果たした。
利潤は、共同体間の格差(差異)から生まれてくる。貨幣経済のはじめから、その構造と機能をいちばんよく知り、いちばん成果を上げていたのは、世界中にディアスポラしていったユダヤ人たちだった。
それにたいしてヨーロッパの都市国家群は、それぞれが自立しようとして対立しがちなところがあったために、いつもユダヤの商人にしてやられていた。
ユダヤ人の意識は、たえず利潤を求めて上昇しつづけていった。
ユダヤ人がディアスポラ(離散)しつづけたことは、ただ迫害されたということだけでなく、彼ら自身が積極的に貨幣経済の発展の役割を担っていたということもある。
そしてヨーロッパ都市国家群が自閉的であったということは、ユダヤ人のディアスポラ(拡散)の衝動とは対照的に、関係を広げて上昇してゆこうとする観念をつねに解体してしまう傾向を持っていた、ということを意味する。
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僕は、むかしから「おまえはユダヤ人みたいなやつだ」とよくいわれました。そしてそのたびに、そうかもしれないな、と納得していました。
べつに金持ちではないし、人をたらしこむのが好きなわけでも得意なわけでもないから、どこがユダヤ人みたいなのかよくわからないのだけれど、すくなくとも内田氏よりはユダヤ的な生き方をしてきたかな、という思いはあります。
ユダヤ人のような才能なんか何もないけど、若いころからずっと物理的にも精神的にも「ディアスポラ」して生きてきたし、いまだに漂流しつづけています。すくなくとも、内田氏よりは。
だから、「私家版・ユダヤ文化論」にたいしては、何言ってるんだか、と思うばかりです。
ユダヤ的知性と反ユダヤ的知性の対立・・・・・・僕はこのことを今、直立二足歩行の両義性として、さらにはネアンデルタールの両義性として考えはじめています。ユダヤ人もヨーロッパ人も、もとをただせば、たぶんともにネアンデルタールの末裔なのです。ユダヤ人迫害の問題は、そこから発している。だから内田樹氏の「私家版・ユダヤ文化論」にここまでこだわってきたのだし、言いたいことはまだまだたくさんあるのだけれど、きりがないからこのへんでやめておきます。けっきょく、直立二足歩行やネアンデルタールの問題に戻るしかないわけで。