アンチ「私家版・ユダヤ文化論」・25

ユダヤ人のこととはあまり関係ないのだけれど。「私家版・ユダヤ文化論」の中に次のような記述があり、それに関連して「言葉の起源」のことをちょっと考えてみました。
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「創世記」でアダムが「あらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥」に名前をつける前には、鳥獣たちがどんなふうに見えていたのかを想像することは難しい。おそらく言葉を覚えたての赤ん坊が四輪の動くものを見ると「ぶーぶー」と呼ぶのと同じように、アダムの目に世界の鳥獣たちは、相互に分節しがたい不定形のかたまりのようなものとして見えていたのであろう。そのかたまりに切れ目を入れることで名辞と概念が同時に成立する。
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われわれは、言葉を持っているから、カラスはカラスに見え、カモメはカモメに見えるのでしょうか。そんなことはないでしょう。言葉など持っていない原始人の目にだって、カラスは黒い鳥に見え、かもめは白くて翼の長い鳥に見えていたはずです。言葉を持っていないと、「相互に分節しがたい不定形のかたまり」に見えるのですか。だったら、言葉を持っていないライオンは、シマウマとハイエナの見分けがつかないことになってしまう。ましてや「アダム」は一人前の大人の男ですよ。ちゃんとそのかたちや色も、カラスとカモメの違いも見えていたに決まっている。こういう言い方は、原始人をばかにしている。
たぶん赤ん坊だって、乗用車とトラックの違いなどちゃんとわかっている。ただ彼らは、その違いを表現する言葉を知らないし、違いなどに興味がない。「四輪の動くもの」すべてに同じ興味があるのだ。「四輪の動くもの」すべてに、同じように心が動くからだ。それだけのことでしょう。
ライオンにシマウマとハイエナの見分けがついて、原始人にカラスとカモメの見分けがつかないなんてことがあるはずないじゃないですか。
われわれは、言葉によって世界を分節しているのではない。言葉は、すでに分節化されててあることの「結果」にすぎない。そんなことは、人間になる前のチンパンジーのごとき猿であった時代からできていたのだ。
それは、「意識」がしているのではない。「意識」になる以前の目と脳のはたらきにおいて、すでにそのように見えているのだ。「意識」は「この身体」がすでにとらえているそうした世界像をそのまま受け入れて、「あ、カラスが飛んでいる」と知覚するだけのことであり、そんなことは、チンパンジーだってやっている。
意識に「志向性」などというはたらきはない。根源的には、身体に起こった「状況」に反応し受け入れているだけです。何が悲しくて根源的な意識が、目と脳の働きに逆らって、世界を「相互に分節しがたい不定形のかたまりのようなもの」として認識しなければならないのか。
原始人や赤ん坊をばかにするのもいいかげんにしていただきたい。カブトムシだって、餌になるものとならないものの見分けはつくし、蛙は、蛇と縄の見分けぐらいちゃんとできている。
魚なんか、同じかたちをしていても腹に赤い斑点があるかないかで同類かそうでないかを見分けていたりするのですよ。世界が「相互に分節しがたい不定形のかたまりのようなもの」に見えている魚が、狭い岩のあいだをすりぬけていくことができるのですか。
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言葉の本質を語る概念として「差異化」という言葉がよく使われます。それは、たしかにそうでしょう。それは、「意識」のはたらきの本質でもある。つまり、意識のはたらきの本質だからこそ、言葉など持たなくても、意識のはたらきにおいてすでに世界の「切れ目を入れる(分節化)」ことなどしているのだ、ということです。
言葉は、「名辞と概念」を表現する機能として発生するのではない。
われわれは、「名前」を持っている。それは、自分が日本人であることや、どの家族の一員であるかを示す機能として成り立っている。それが「名辞と概念」です。つまり、言葉における「名辞と概念」を表現する機能は、共同体を運営してゆくための装置(制度)としてあるだけのことです。
共同体(国家)を持たなかった原始人に「名辞と概念」の機能など必要なかった。それでもたぶん、共同体(国家)が存在する以前から人間は、言葉を話していたのです。
意識における根源的な「差異化」のはたらきとは何か。
それは、カラスとカモメを「差異化=分節化」することではない。われわれにだって、動く自動車などぜんぶ「ぶーぶー」ですませていた時代があったのだ。それは、乗用車とトラックの見分けがつかなくてそう言っていたのではないし、動く自動車と人間を「差異化=分節化」するためでもない。「ぶーぶー」だって、立派な言葉ですよ。猿は、そんな言葉など持っていない。
そのとき赤ん坊には、「四輪の動くもの」に対する感動があった。ほかのどんなものと「差異化=分節化」するためでもない。あくまで「四輪の動くもの」それ自体との関係において「ぶーぶー」と言っているのだ。
では、何と「差異化=分節化」しているのか。
自分の「この身体」と「四輪の動くもの」との関係です。赤ん坊だって、痛くなったり苦しくなったり腹が減ったりするやっかいな「この身体」を抱えて苦労をしている。しかし、「四輪の動くもの」を見たとき、感動して「この身体」のことを忘れている。「この身体」から解放されること、それが「感動」です。そのとき彼は、「ぶーぶー」ということによって、「この身体」から解放されるカタルシスを体験している。そうしてそれに味をしめて、いつでもそう言うようになってゆく。
言葉は、身体の消失(=身体からの解放)という「身体意識」の上に成り立っている。言葉は、意識を身体から引き剥がす機能を持っている。言葉を発することは、意識が言葉とともに身体の外に出てゆくことです。
言葉は、身体の余韻を帯びながら、身体の外に出てゆく。
直立二足歩行する人間の意識は、身体にとらわれやすいがゆえに、よりダイナミックに身体から逸脱してゆく。感動とは、意識が身体から引き剥がされる体験であり、そうやって「鳥肌が立つ」のだ。
言葉もまた、しかり。「ぶーぶー」という言葉は、身体が消失してゆくときの身体のざわめきなのだ。
で、そのあと「あ、ワゴン車だ」とか「クレーン車だ」と言うようになっていくのは、その感動を「細分化」してゆくことであって、ワゴン車とクレーン車を「差異化=分節化」しているのではない。ワゴン車にはワゴン車の感動があり、クレーン車にはクレーン車だけの固有の感動を体験しているからだ。
カラスをカラスと呼ぶのは、カラスに対する固有の感動を体験したからであって、カモメと「差異化=分節化」するためではない。
言葉は「感動=心の動き」から生まれるのであって、世界の見え方をあれこれいじくるためではない。世界は、見えるようにしか見えないのだ。世界の見え方をいじくるなんて、精神異常者のすることだ。同様に「世界の鳥獣たちは相互に分節しがたい不定形のかたまりのようなものとして見えていた」という体験だって、精神を病んでいなければできないことでしょう。赤ん坊だって、そんなふうには見ていない。
「差異化=分節化」は、「この身体」と世界との関係としてなされている。そしてそれは「分節化する」のではない、「すでに分節化されている」ことに気づく体験として感動が生まれ、その感動の表現として言葉が生まれるのだ。
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「ぶーぶー」という言葉の発語は、「四輪で動くもの」それじたいに対する固有の感動体験を表現しているのであって、ほかのいかなるものとの「差異化=分節化」の意図もない。それは、「四輪で動くもの」に対するみずからの「感動=心の動き」を表現しているのであって、「四輪で動くもの」の「名辞と概念」を表現しているのではない。赤ん坊にそんなことができるわけがないし、そんなことをしなければならない事情も意欲もない。しかし、それでもそれはすでに「言葉」であり、「言葉」としての本質をそなえている。
世界の見え方を操作するために言葉を生み出しただなんて、あなたたちはどうしてそんないやらしい考え方をするのか。
「主体的」であるからえらいのでも「人間的」であるのでもない。われわれは「遅れてこの世界に到来した者」であり、気づいたときは、世界はすでに「差異化=分節化」されてあるのです。「主体的」であることは、たんなる制度性であり、精神の病なのだ。
われわれは、鬱陶しい身体を抱えて生きてゆかねばならない。そういうことを、直立二足歩行の姿勢がより強く意識させてくる。だから人間は「言葉」を話すようになったのだし、より深いカタルシスも体験している。
「ぶーぶー」は、「人間ではない」のでも「船ではない」のでもない。「この身体ではない」ものなのだ。意識は、世界を分節化しない。世界は、意識が発生する以前に、すでに分節化されてある。意識は、身体の苦痛として発生する。したがって、そのあとに身体と世界が分節化されてあることに気づく体験、すなわち意識が世界にとらえられる体験は、身体にとらえられている意識が消失してゆく体験であり、そうした世界との出会いにおける驚きやときめきが「言葉」として発せられる。
意識は、世界を「祝福」している。世界を知覚することは、意識が身体にとらわれている状態からの解放であり、そのカタルシスが「言葉」として表現される。
一般的にいわれている「言葉による世界の差異化=分節化」の機能とは、そうしたカタルシスの体験に味をしめてその体験が「細分化」されていった現象にすぎない。意識は、それほどに身体を鬱陶しがっているのであり、身体からの解放の体験は、それほどに深いカタルシスをともなっている。
「細分化」されていった果てに、「名辞と概念」を付与する機能が生まれてきた。
根源的には、言葉が発せられるときに「名辞と概念」の機能はない。その次の瞬間の、言葉が発せられた空間で、その言葉に「名辞と概念」が生まれるのだ。言い換えれば、その言葉の「名辞と概念」は、聞き手の意識において生まれるのだ。
たとえば、話し手が「みかん」のことを「りんご」と思い込んでそう発語したとき、聞き手は、けっして「みかん」をイメージしてくれない。そんなようなことです。
「ぶーぶー」という赤ん坊に、「名辞と概念」の意識はない。それは、「四輪の動くもの」を説明しているのではない。「四輪の動くものとの出会いの感動」を表現しているのだ。
同様に、原始人が「カラス」というとき、カラスに名前をつける意図も、カラスがどんな鳥かという概念を付与する意図もなかった。カラスのことなどみんな知っているのであり、世界はすでに「差異化=分節化」されてあるのだ。ただカラスとの出会いの体験が感動としてあっただけです。その体験がみんなに共有されていったときに「言葉」として定着した。
たとえば、カラスの群れが空いちめんを覆っているのをみんなが見たとき、みんな一緒に驚きときめくでしょう。そういうカラスとの固有の体験が、カラスという言葉になったのであって、世界を「差異化=分節化」しているのではない。
世界を「差異化=分節化」して「名辞と概念」を与える機能は、言葉が生まれた「結果」として起こってきたことであって、言葉自体の原初的本質的な機能ではない。それは、言葉を発する体験が「細分化」されていった「結果」なのだ。